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【弥生時代】古代の文明開化!人々の暮らしはどのように変わったのか。

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【弥生時代】古代の文明開化!人々の暮らしはどのように変わったのか。」というお話です。
 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

弥生時代は大陸から稲作が伝わったことで、それまでの狩猟・採取社会から農耕社会へ徐々に移行した時代です。移住生活から定住生活へ。日本の社会構造は大きく変化したのです。また、弥生中期には鉄器と青銅器も伝わり、稲の生産力の高まりと、豊作祈願も行われるようになりました。

 日本が縄文時代を中国大陸では紀元前6500~5500年頃、北の黄河中流域でアワやキビなどの農耕が始まり、農耕社会が成立しました。さらに紀元前6世紀頃から鉄器の使用が始まり、春秋・戦国時代には農業生産も著しく進みました。

 こうした生産力の発展に伴って、やがて紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強力な統一国家も形成されました。

 

 その頃、日本列島の人々は30名ほどの小さな集団で行動し、協力しながら獲物を捕らえ、仲良く獣肉を分け合うという平等で平和なのんびりとした生活を送っていました。縄文時代です。


 しかし、そんな平和な日本列島を配下に置こうと中国の統一王朝は渡来人を派遣。彼らは朝鮮半島を経て、日本列島にやってきました・・・・。

 


 縄文時代晩期に突如として現れた稲作技術(水田農耕)は、それまでの日本にはなく、大陸からの渡来人によってもたらされた全く異質なシステムです。それにも関わらず、なぜ、わずか十数年の間に日本全国へと急速に広まっていったのでしょうか。

 縄文時代は狩猟・採取を中心とする社会でしたが、ある程度の農耕も行われていました。クリやヒョウタンなどの植物を栽培した原初的農耕の痕跡がみとめられるし、後期に入ると、焼畑農耕によってアズキやアワ、裸麦などが作られていたことが明らかになっています。このように縄文時代には、すでに植物栽培が開始されており、稲作技術を受け入れるのに十分な素地が出来上がっていました。

 

 しかし、それ以上に稲作技術は日本全国に普及するのに十分な理由がありました。

「おい。米の栽培って便利だな。」

「ああ。もう食料を求めて移住しなくても済むからな。」

 縄文時代のような狩猟・採取の生活では安定して食料を確保することができませんでした。しかし、稲作であれば安定した食糧の供給が望めます。人々はこぞって稲作技術を学びました。

 このような経緯があったからこそ、短期間に稲作が広がっていったのです。

 九州地方にはじまった水稲耕作は、紀元前4世紀頃から100年の間に近畿地方まで広がり、紀元後には関東地方から東北地方南部に、2世紀ころには東北地方北部にまでおよびました。こうして北海道と西南諸島を除く、日本列島の大部分の地域は食料採取の時代から食料生産の時代へと移行していきました。

 

 この紀元前(B.C)4世紀頃から紀元後(A.D)3世紀までを弥生時代といいます。弥生文化の誕生です。

 

 日本に伝来した稲作は、弥生時代を通して飛躍的に耕地面積を拡大していったが、農具の面でもその進化は著しい。

 初期の頃は、鍬(くわ)や鋤(すき)といった耕作具は木製へ、鎌や石包丁などの収穫具は石製の道具を使用していたが、弥生時代も後期になると、鉄製のものが多くなり、収穫率も増大します。また水田も、自然の低湿地を利用する「湿田」より、人工的な灌漑施設を有する「乾田」が多くなっていきました。