日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【縄文文化】縄文人の食生活はどのようなものだったのか

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【縄文文化縄文人の食生活はどのようなものだったのか」というお話です。
 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。


 縄文クッキーというものをご存知でしょうか。
 ドングリやクルミ、長イモ、ウズラの卵などを材料につくる縄文時代のクッキー状の非常食ですが、100グラムあたり500カロリーもあり、1つ食べれば朝食分相当のエネルギーが取れてしまう優れものの非常食です。

 縄文人はこれを食べることで不猟や不作時期を乗り切ったそうです。
 小学生の頃、文化祭で縄文クッキーを再現したクラスがあり、私もそれを食べてみましたが、正直、苦かったです。

 ということで、今回は縄文人の食生活について解説してみたいと思いますが、

 縄文人は意外と豊かな食生活を送っていたようです。

 縄文時代の食料を得る方法としては、主としてシカやイノシシを狩る(狩猟)や魚や貝を捕る(漁労)、木の実を拾う(採取)によって食物を獲得していま。しかし、最近では縄文時代前期においてすでに原初的農耕が営まれていた事実も判明しています。

 縄文人の食生活は、貝塚(ゴミ捨て場)の分析により、山の幸、海の幸、川の幸など四季おりおりに多彩な食物を摂取していたことがわかっています。
縄文人が好んで食べていたものを以下の表にまとめました。

春から夏 秋から冬 冬から春
山菜 クリ ヤマイモ
若草 クルミ イノシシ
ハマグリ トチ シカ
アサリ ブドウ クジラ
サンマ アホウドリ  
アジ サケ  
アザラシ マス  
トド マグロ  

 春には、山で山菜や若草を採取。
 夏になると、浜辺や海に繰り出し、ハマグリやアサリを採取、海ではサンマやアジ、さらにはアザラシやトドのような海獣までも漁労していました。

 秋になると、クリやブドウ、クルミ、トチなどの山の幸を存分に、さらにサケやマスなどの海の幸を捕っていました。
 そして冬になると、ヤマイモを除くあらゆる植物性食物は不作シーズンとなるため、シカやイノシシのような哺乳動物を捕らえて食べていたようです。


 本格的な米つくりをしていなかったこの時代、主食になったのは木の実やイモ類などの植物性の食料です。これらは、縄文人の全摂取カロリーの8割以上を占めていたといわれ、特にクルミとクリとドングリが圧倒的に多かったようです。ドングリは簡単にそしてたくさん採取できるうえに栄養価も高く、保存も効くため、非常に重要な食料でした。

 もちろん、ドングリはそのままでは食べられません。石皿やすり石などを使ってドングリをすり潰していました。
 さらに、ドングリはアク抜きをしなければ食べられないので、当時すでに加熱処理や水さらしによるアク抜き術が発達していたことを物語っています。その役目を果たしたものこそ縄文土器というものです。

 食物の保存技術も進み、貯蔵穴に大量に木の実を保存したり、干物や塩漬けしたりもしています。そして先述のようにクルミやクリの粉に卵や肉汁をまぜ、塩味をつけて焼いたクッキーを保存食としていたようです。

 さて、貝塚から出土する獣骨の9割は、イノシシとシカであり、人々が好んで食べていたことがわかります。
 
 問題はその捕獲率ですが、それまでより格段にあがりました。縄文時代は考古学でいう新石器時代に属し、打製石器から磨製石器に変わった時代です。 縄文人は、鋭くとがった磨製石器を使って弓矢や石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)などの狩猟具を開発しました。特に弓矢は、それまでの投げ槍と比較すると、遠距離での捕獲が可能になり、獲物の捕獲率を格段に上げました。

 しかし、イノシシやシカは、現在のものよりもずっと大きく、弓矢や石斧だけでは上手く捕らえることができませんでした。そんな縄文人には実は最強のパートナーがいました。

 そう、イヌです。

 現在でも人間とイヌの深い絆はご周知のとおりですが、当時の縄文人とイヌの絆は強いものでした。
 ご主人様に忠誠を誓うイヌは、自分よりもはるかに大きく狂暴なシカやイノシシと命懸けで戦いました。縄文時代の遺跡からは丁重に埋葬されたイヌの骨が見つかっています。

 先述のとおり、縄文人にとってイヌは生活に密着した存在であり、かけがえのない存在であったからこそ、怪我した後も手厚く保護し、死後は丁寧に埋葬していたのです。

 しかし、狩猟は冬から春に限定されており、幼獣は殺さなかったことがわかりました。動物を取りつくしてしまうことはなく、節度ある狩りを行っていたようです。

 漁労も飛躍的に進化しました。
 縄文人は、現代のものとほとんど変わらない釣針やヤスなどの骨角器、さらに石錘(せきすい)、土錘(どすい)の使用もみられます。これらの漁労具を駆使してサンマやアジ、サケ、マスなど実に豊富な海の幸を得ていました。

 さらに回転式離頭モリも発明されました。このモリは、獲物に刺さると柄から外れ、両方をつなぐ紐を引くと、矢尻が回転して深く食い込んで離れない。おかげで大型の魚やイルカ、クジラなどの海獣の捕獲率も高まっていました。

 さて、ここで少し気になるのは、縄文人の航海術です。丸舟木が各地で見つかっており、伊豆大島や南の八丈島にまで縄文時代の遺跡がみられることから、縄文人は遠洋に繰り出せるほどの航海技術を持っていたのではないかと考えられています。ここでも鋭い刃を持つ磨製石器が舟づくりに大いに役立ったようです。

 さて、先術のような主食のクリは、縄文時代前期から人の手で栽培されていた可能性が高いです。
 さらに中期に入ると、焼き畑農耕でソバ、ウリ、アズキ、エゴマなどが作られました。しかし、水路を有する本格的な水田が現れるのは縄文晩期のことで、水田で稲作が行われたことにより、社会構造に大きな変革をきたし、弥生時代へと移り変わっていくのでした。

 このように縄文人は、自然のしくみをよく知り、その恵を存分に味わっていました。
 しかし、自然とは不確かなものです。豊作の時期もあれば、不作の時期もあります。だからこそ、当時の人々は自然のあらゆるものに神が宿っているとする八百万の神を信仰し、山の神や海の神に豊穣祈願を捧げ、豊作となったときには感謝の意をしめしたのです。

以上。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
早わかり日本史          河合敦=著  日本実業出版社
アナウンサーが読む山川日本史 笹山春生=著 山川出版社 
もう一度読む山川日本史 五味文彦=著 山川出版社