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【豊臣秀吉3】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか(後編)

こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【豊臣秀吉3】なぜ秀吉は農民から天下人になれたのか(後編)」というお話です。


 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
 前回までのお話はここから。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

  さぁ、残るは秀吉の攻める小谷城の浅井だけです。
 朝倉氏を滅ぼした織田軍。後は浅井氏を討ち取るだけです。
浅井攻めの総大将に任命された木下秀吉は、浅井方の有力家臣を次々に寝返らせ、

 1573年8月27日夜、裸城同然となった小谷城を攻めました。
「長政殿、これ以上の抵抗は無意味だとわかってくれんかのう。」

 しかし、籠城する総大将の浅井長政は中々、降伏の態度を示しません。

 そこで、秀吉は長政のいる本丸と長政の父・久政のいる小丸を繋ぐ京極丸に攻め込み、陥落に成功。久政と長政の父子間を断絶したのです。

 しかし、こうした秀吉の作戦は逆効果でした。
 調略による圧迫は、長政たち浅井一族のプライドを傷つけ、華々しく討死する以外、武士としての誇りを保つ方法はないという袋小路に追い込んでしまったのでした。
「我が浅井家もこれまでか・・・・。」
そう思った久政はその日のうちに切腹しました。

 翌日、秀吉方の総大将・織田信長も京極丸に入りました。
「サル、情けは無用だ。忌々しい裏切り者の首を持って参れ!」
「ハハッ。」
 こうして秀吉は長政のいる本丸への総攻撃の準備を行い、そして9月1日、本丸への総攻撃が開始されました。

 本丸では父・久政の切腹を知った長政も父の後に続こうと決心していました。
「我が浅井家は3代で潰えたか・・・・。」
「私も一緒に逝きます。」
 すがる妻・お市を夫・長政は諭します。
お市、そなたは生きて、ワシの菩薩を弔ってくれ。子供達を頼む。」
 長政とお市の間には3人の子供がおり、お茶々、お初、お江の3人の娘がいました。
長政は涙を呑んで、お市と子供達に別れを告げ、城から送り出しました。
 そして長政は燃え行く小谷城の中で切腹戦国大名として成り上がった浅井氏もわずか3代で滅亡してしまったのでした・・・・・。

 小谷城から出て来たお市と子供達は、秀吉の軍に保護されました。
 お市は秀吉に冷たい視線を送りました。
「うぅ・・・。どうやらワシは、お市の方から恨みを買ってしまったようだ。」
 秀吉は心を痛めました。
「信長様もさぞ、複雑な心境でいらっしゃることでしょう。」

 そんな秀吉の予想とは裏腹に信長は歓喜をあげて喜びました。
「ふっははは。サル、見事な活躍だった。小谷の城はお前にやる。ねね殿とともに住むがよい。」

「信長さまには、人を思いやる気持ちは、少しも持たれないのだろうか・・・・。」
 秀吉はそう思ったに違いありません。

 秀吉は浅井攻めの功により、小谷城と旧浅井領であった近江の国から12万石の領地が与えられました。12万石の領地があれば、4000人くらいの家来に報酬として米を与えることが出来る程度のものです。

 秀吉は初めて城を持ち、自分の収入で家来を養う力を持つ「大名」へと昇格したのです。現代で言うところの、近江の営業所長兼子会社の社長を任されたようなものです。

 秀吉はこの時37歳、遂に信長の家臣としてその頭角を現すようになったのでした。

 そして、秀吉は小谷城の資材と琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島にあらかじめ隠してあった材木を使って、当時、今浜と呼ばれていた地に城を築城する許可をもらいました。
秀吉は今浜の地を「長浜」と改名しました。「長」とは信長に因んでつけられました。

 こうして1574年、木下秀吉は近江の国(滋賀県)の長浜城主になりました。
 つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
総図解 戦国時代       小和田哲男=著 新人物往来社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法  高野冬彦=著  五月書房
あらすじで読む「信長公記黒田基樹=著  三才ブックス