日本史はストーリーで覚える!

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【どう違う?】織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康【後篇】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【どう違う?】織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康【後篇】」というお話です。

まず、以下の表を見てください。

時代のイメージ 破 壊 創 造 維 持
人物 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
あだ名 革命児 実力者 眠れる巨人
精神 「剛」の精神を持つ 「柔」の精神を持つ 「忍」の精神を持つ
デビュー戦 桶狭間の戦い 山崎の戦い 関ヶ原の戦い
本拠地 安土城 大阪城 江戸城
役職   関白(太閤) 征夷大将軍
内容 諸大名と戦いに明け暮れる 天下統一達成 江戸幕府が成立
室町幕府を滅ぼす 超巨大組織の誕生 大阪冬・夏の陣
あらゆる勢力を滅ぼす 朝鮮出兵 260年の長期政権の誕生
政策 兵農分離 太閤検地 武家諸法度
楽市楽座 刀狩令 禁中並公家諸法度
キリスト教 応援 (旧勢力に対抗するため) はじめは許可 のちに禁止 完全禁止 (踏み絵などで弾圧)

 

織田がつき

羽柴がこねし

天下餅

すわりしままに

食うは家康

 

この歌は江戸時代に作られたもので3人の天下統一への関わり方を皮肉を織り込んで現しているものです。織田信長が下準備をし、羽柴(豊臣)秀吉がなしとげた天下統一。それを座ってじっと待っていた徳川家康が最後に手に入れたという喩えです。そんな日本史上屈指の人気を誇る戦国3英傑はそれぞれどのような違いがあるのでしょうか。今回はその後篇ということで、徳川家康についてご紹介していきたいと思います。

 

歴史はストーリーで覚えるというのが、当ブログの基本方針です。ストーリーといっても、難しく考える必要はありません。基本的に歴史は「破壊→創造→維持→衰退」のサイクルの繰り返しですので、この一連の流れに沿って、事実を関連付けて物語を創っていくのです。信長は「破壊の時代」の中心人物、秀吉は「創造の時代」の中心人物、そして家康は「維持の時代」の中心人物なのです。

 

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

徳川家康といえば、我慢の人というイメージでしょう。上記の歌からは一見、家康が良いとこ取りをしているように見えますが、とんでもない。家康は忍耐強く待ち続けたといっても、ただ指をくわえて待っていたわけではありません。家康は時間という財産をエサにして、自分の実力を極限にまで高めていたのです。その証拠に秀吉亡き後に、家康に逆らえる者などいなかったし、関ヶ原の合戦も東軍の圧勝でした。ゆっくりと、でも着々と実力を蓄えていたからこそ、絶妙のタイミングでチャンスをつかむことが出来たのです。そんな彼には‘眠れる巨人‘というあだ名がピッタリでしょう。

 

織田信長と同盟を結び、東海地方に勢力をふるった徳川家康ですが、豊臣政権下の1590年、北条氏滅亡後の江戸に移され、約250万石の領地を持つ大名になりました。しかし、当時の江戸は江戸寒村ばかりが点在する荒れ果てた沼地であり、家康は屈辱を強いられました。

一方で、豊臣政権下では五大老の筆頭として高い地位を持っていました。秀吉が大軍勢を率いて朝鮮出兵に乗り出す中、それを終始懐疑的な目で見ていた家康は国内に残り、江戸の開発に取り組んでいました。

 

膨大な戦費と兵力を無駄した秀吉の朝鮮出兵は大失敗に終わり、秀吉の病死とともに全軍撤退しました。秀吉の死後、幼い息子・秀頼が当主となったので、豊臣政権の事実上ナンバー2だった家康は一気にその地位を高め、実権を独占するようになりました。

 

すると、五奉行の一人で豊臣政権を維持しようとする石田三成と家康の対立が深まり、1600年、三成は五大老の一人である毛利輝元を総大将として兵をあげました(西軍)。対するは、家康と彼に従う福島正則加藤清正らの諸大名(東軍)で両者は関ヶ原で激突しました。(関ヶ原の戦い)。

 

天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦いはわずか半日の戦いでした。毛利軍の精鋭部隊であった小早川秀秋が東軍に寝返ったことが決めてとなり、家康率いる東軍の勝利に終わりました。

 

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍についた諸大名に極めて厳しい処分を下しました。石田三成小西行長は京都で処刑され、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)され、旧主であった豊臣秀頼も60万石程度の一大名にまで転落させました。その他多くの西軍諸大名が改易(領地没収)されました。

 

1603年、家康は全国の諸大名に対し、自らの政権の正統性を示すために朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開きました。

こうして家康が天下人となったが、それからわずか2年後、家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、今後の政権は代々徳川家が世襲することを全国にアピールしました。

ただし、政治の実権はその後も大御所(前将軍)となった家康が握り続けました。1611年、家康は京都の二条城において豊臣秀頼と対面する。秀頼は立派な青年に成長しており、家康はその末恐ろしさに豊臣家を滅ぼそうと決意しました。

こうして1614年、豊臣家が再建した京都方広寺(きょうとほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう)に徳川家を罵る文言があるといういちゃもんをつけ、大軍で大阪城を包囲して攻め立てました(大阪冬の陣)。一旦、講和をむすんだものの、翌1615年、再び戦いを仕掛け、ついに秀頼を自殺させ、豊臣氏を滅ぼしました(大阪夏の陣)。

 

家康は今後、徳川将軍家を長く存続させるために徹底した大名統制を行いました。その代表的な政策は1615年の武家諸法度の制定です。家康の死後、2代将軍の秀忠はこれに違反した大名を次々に改易処分にするなど厳しい統制を行いました。

家康の統制は武士だけでなく、朝廷や公家にも及びました。家康は1615年に禁中並公家諸法度を制定し、西軍大名の多い西国地方の監視のために設置した京都所司代らに朝廷の監視をさせました。

そして、3代将軍徳川家光が没する1651年ごろまでに幕府の支配体制はほぼそろいました。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

アナウンサーが読む 詳説山川日本史         笹山晴生 他=著   山川出版社

教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著   旺文社

20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著   Gakken

マンガでわかる日本史                河合敦=著    池田書店