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【三方ヶ原の戦い2】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【三方ヶ原の戦い2】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 

 泣く子も黙る戦国大名、それが武田信玄です。

 戦国最強と言われた武田氏は甲斐・信濃を治める有力な戦国大名として君臨していました。武田氏は戦(いくさ)のプロ集団であったことは間違いありません。

 

 前回の続きです。

 家康は間一髪のことろで浜松城に逃げ帰りました。

 武田軍は徳川軍の進路を見て、攻撃場所を決めて待ち構え、家康を後一歩のところまで追いつめたのです。

 信玄は偵察部隊を放ち、家康軍の動向を随時報告していました。風林火山を掲げる武田軍のチームワークにより家康は圧倒されたのです。

 

 家康は、自国領土に出撃するのに敵軍の位置さえも満足に把握できていない。おまけに見附の町を焼き払うという大きな損害も被ってしまった・・・・。

 今回の出陣で、家康の策敵体制の貧弱さと指揮能力のなさを露呈させる結果となってしまいました。当時の家康はこの程度の実力だったのです。

 

「家康め、間一髪のところで逃げ帰りおったな。素早しこいネズミめが。」

「殿、このまま一気に浜松城に攻め込み、家康を討ち取りましょう。」

「そう焦るな。じわじわと攻め込んでいくのさ。そうすれば、奴(家康)はまた姿を現す。野戦に持ち込んで、徳川勢を全滅させるのだ。全軍、二俣城へ向かえ!!!」

 信玄は浜松城に逃げ帰った家康を深追いはせず、代わりに天竜川を北上し、二俣城の攻略に向かいました。二俣は家康のいる浜松から北に10キロほどの町で交通の拠点でもあります。ここを攻略すれば浜松城は裸同然の無防備になり、簡単に攻略出来ます。

 

 2万あまりの武田軍が二俣城に布陣しました。二俣城は城兵3百人程度の小さな城です。武田軍の圧倒的な武力を持ってすれば簡単に開場させられます。しかし、武田軍は無理に攻め込むことはしませんでした。家康が二俣城の救援として出陣してきたところを討ち取ろうと考えていたのです。つまり、二俣城攻めは家康をおびき寄せるためのエサなのでした。

二俣城が武田軍に攻め入られているという報告を受けた家康は三河から援軍を要請しました。援軍が合流したことで8千人ほどになった徳川軍はすぐに二俣城の救援に向かいました。

しかし、偵察隊の報告によると、二俣城周辺には武田軍が陣を張っており、徳川勢を待ち構えているとのことです。

これでは迂闊に近寄ることは出来ません。家康は危険を感じ、すぐに浜松に軍を戻しました。

救援を得られなくなった二俣城は12月19日、とうとう降伏して陥落しました。

 

12月22日、武田軍は遂に浜松城に向けて南下を開始しました。

「殿、武田軍がやってきます。どうしますか。」

「余は武田軍に蹂躙(じゅうりん)されながら、何の損害もあたえられぬまま、浜松に無傷の武田軍を迎えるのか・・・・。何とか武田軍に一撃を加えたいものじゃ。」

「殿、お気持ちはわかりますが、ここはどうか籠城を願います。我が城なら籠城すれば数カ月は持ちこたえられます。そうすれば武田軍は兵糧尽きて引き揚げていくことでしょう。」

「そうですよ殿、武田軍の2万に対し、我が軍は1万1千。まとも戦って勝てる相手ではありません。」

佐久間信盛も信長からの命令として浜松籠城を進言しました。

 

南下を続ける武田軍はそのまま浜松城を囲むと思われました。しかし、浜松城から8キロほどの有玉(ありたま)で西に向きを変え、三方ヶ原に向かいました。

「殿、武田勢は急きょ、三方ヶ原台地に向かっております。」

「信玄め。またしても挑発して余をおびき出す作戦だな。」

「しかし、三方ヶ原台地から下る道は多くない。しかも、そこは急斜面であり、その先には都田川がある。とても騎馬隊が降りられる場所ではありません。」

武田軍を後方から襲えば、敵は逃げ場がありません。家康勢にも勝機が見えました。

家康は全軍に出撃命令を出しました。

あれほど籠城を勧めていた重臣達も「敵が後ろを見せた。今なら討ち取れる」と考えたのでしょう。一撃して戦果を上げた後、すぐに城に戻ればよいとしました。

徳川勢は道を急ぎました。

急げば、台地の先で武田軍を捉えられる。

しばらくして武田勢の後尾が見えてきました。

武田軍は足を速めています。それは逃げ足のようにも見えます。

「今、攻撃すれば、圧倒的な勝利を得ることが出来る。」

徳川軍の誰もがそう思い、家康自身もはやる兵隊達を止めることも出来ませんでした。

これがワナでした。

武田軍は台地に到着した先手勢から順に隊列を整え、素早く陣形を組み換え、迎撃態勢で待ち構えていたのです。

その一糸乱れぬ隊列は、数多くの遠征で訓練された武田軍ならではのものでした。

そう、逃げる部隊はワナだったのです。武田勢を追った徳川勢は槍を持った武田の先手勢からの反撃を食らってしまいました。

当初、家康方の先手勢が攻撃をしかけ、武田の先手勢を後退させていました。しかし、武田の先手勢の後ろにも陣形を整えた武田の精鋭部隊が待ち構えていたのです。崖を下って逃げていくと思っていた部隊です。

信玄は徳川勢を自陣に引き込んだところで、一気に叩き潰そうとしたのです。

武田の精鋭部隊は一斉に家康勢に襲いかかりました。

決定的でした。

武田の騎馬隊から放たれた無数の弓や槍は、家康軍に再起不能なくらいの壊滅的なダメージを与えました。

 

やがて家康自身も戦乱に巻き込まれてしました。

重臣達は家康を囲むようにして逃げましたが、すぐに武田の騎馬兵に追いつかれ、重臣達は弓や槍で次々に討たれていきました。

何人もの家臣達が身を捨てて家康を守り抜きました。

その中には馬を失い、斬り死にしようとした家康に馬を与え、自分は家康を名乗って敵陣に突進していった者もいました。家康の身代りとなったのです。

日はすっかり暮れ、逃走劇は夜のとばりの降りる中で行われました。武田軍に追いまくられた家康勢はこの暗闇で救われました。

浜松城は開城されており、いくつもの篝火(かがりび)を置いて、引き上げてくる兵たちの目安となりました。

家康は最後、4~5騎ほどの家来とともに浜松城に戻りました。

この戦いで家康軍は千人もの家来を失いました。つまり、家康はほとんどの兵士を失ったのです。

家康の大惨敗です。

家康はこの時、31歳。姉川の戦いで野戦での用兵には自信を持ったろうが、信玄には全く歯が立たなかった。

 

一方、徳川軍を破った武田軍は浜松城を攻めず、三方ヶ原台地を西に降りた刑部(おさかべ)に留まり、年を越しました。

刑部は浜松城からは14キロしかありません。敵領の真ん中に在陣するのは不自然ですが、信玄が重病に侵されており、馬に乗ることも輿(こし)で動くことも出来ぬほど病状が悪化していたのです。

信玄は甲斐を出るときから病を自覚しており、三方ヶ原の戦いが最後の采配となりました。

そして1573年が明けた正月下旬になって武田軍は陣を進めることが出来なくなりました。信玄はゆっくりと帰路をとり、2月17日に長篠城に入り、しばらく在陣。そして信濃に入り、4月12日に死去しました。享年53歳でした。

 

強敵であった信玄の死を知った、家康は大いに悲しみ、悔みました。

「何とも惜しい人を亡くした・・・・・」

そこには安堵の念からではなく、本当に残念無念な思いでいっぱいでした。

家康にとって信玄とは、三方ヶ原の戦いで生涯忘れることの出来ない完敗を期した憎い敵であると同時に、多くのことを学びたい師であったからです。

信玄の死を知った信長は武田軍に宣戦布告するのでした・・・。

 

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

信長は本当に天才だったのか           工藤健策=著  草思社

20代で知っておくべき歴史の使い方を教えよう  千田琢哉=著  Gakken