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【どう違う?】田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策」というお話です。

 是非、最後まで読んで頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

 田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策の違い、そのポイントはそれぞれ2つあります。1つは対中国政策の違い、もう1つは欧米と結んだ条約の内容の違いです。

 

田中義一内閣

浜口雄幸内閣

対中強硬政策

対中協調政策

欧米とは不戦条約を調印

欧米とは軍縮条約を調印

田中義一内閣は、中国に対して強硬外交を展開し、国民革命軍による北伐が展開すると山東出兵を行い、済南事件も引き起こしました。欧米に対しては協調外交を展開し、パリ不戦条約に調印しました。

一方、浜口雄幸内閣は、中国に対して協調外交を復活させました。中国に対しては武力を行使せず、日中関税協定を結び関税自主権を認めました。欧米に対しては補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

 まず、田中義一内閣外交政策の特徴から見ていくことにしましょう。

 1924(大正13)年、中国には中国国民党中国共産党とが第1次国共合作を行い、北方軍閥の打倒を方針として打ち出しました。

 孫分の死後、その後を継いで国民党の最高指導者となった蒋介石(しょうかいせき)は1926(大正15=昭和元)年、国民革命軍総司令に就任し、中国統一を目指し、国民革命軍を率いて北伐を開始しました。

 1927(昭和2)年初めには革命軍が山東半島にまで近づいており、山東半島の日本の権益や満州鉄道の権益が危ぶまれました。

 しかし、時の首相で憲政会の若槻礼次郎内閣は、幣原喜重郎を外相として起用し、中国に対し、内政不干渉条約にもとづき、北伐への干渉を避けていました。しかし、日本国内の陸軍や国家主義団体、野党である立憲政友会から幣原外交を中国における日本の権益を守れない「軟弱外交」として非難しました。

 若槻内閣の総辞職後、1927(昭和2)年4月、立憲政友会田中義一内閣が成立しました。首相と外務大臣を兼任する田中義一は、組閣後間もなく、国民革命軍による北伐の進展に対して、日本人居留民の生命と財産を保護する名目で同年5月28日、山東半島に1個師団を送り込みました。(第1次山東出兵)。

 第1次山東出兵の後、田中内閣は、若槻内閣の内政不干渉原則を変更して強硬外交(積極外交)の方針を掲げました。

 この方針は同年6月27日から11日間開かれた東方会議で決められました。この会議は田中自らが主催したもので、東京で外交担当者や軍部首脳部を集めて開かれたもので、今後の中国問題を協議し、満州における日本の権益をあくまで守るという方針を打ち出しました。

 1928(昭和3)年の第2次山東出兵では、日本軍は国民革命軍(北伐軍)とのあいだで武力衝突が起こりました。これが済南事件とよばれるものです。

 このため、中国の排外運動はイギリスに代わり、日本に向けられるようになりました。

 しかし、山東出兵は大きな戦争にはならずに収束します。その後、満州某重大事件が起こり、これが関東軍の仕業だと明らかになると同時に田中は昭和天皇から不信の念を表明され、総辞職に追い込まれました。

 

 また、田中内閣は欧米諸国に対しては協調外交の方針を引き継ぎ、1927(昭和2)年のジュネーブ軍縮会議に参加しており、1928(昭和3)年にはパリで不戦条約にも調印しました。このパリ不戦条約は、米・英など15カ国が、従来、国際法で認められた国際紛争解決の手段としての戦争を行わないことを宣言するという戦争放棄の条約でした。しかし、田中内閣の中国政策はこの条約とは逆行していたのでした。

 

 次は、一方の浜口雄幸内閣外交政策を見ていきます。

 田中内閣のあとを引き受けた立憲民政党浜口雄幸内閣は、再び幣原外相を起用し、協調外交の方針を打ち出しました。

 中国に対しては田中の強硬外交を改め、協調外交を復活させ、対中国関係を改善するために、1930(昭和5)年に中国と日中関税協定を結び、条件付きで中国に関税自主権を認めました。しかし、さらなる権益回復を目指す中国の国民政府より強い外交方針を示されてしまいました。それに加え、国内では浜口内閣の外交姿勢を「軟弱外交」と非難されました。こうした中国と国内からの圧力に挟撃された浜口内閣の協調外交は行き詰まっていきました。

 また、浜口内閣は1930(昭和5)年にイギリスの提唱によって米、英、日、仏、伊の五カ国の代表によりロンドン海軍軍縮会議が開かれることになると、若槻礼次郎元首相らを全権として派遣しました。この会議では1922(大正11)年に調印されたワシントン海軍軍縮条約で先送りされていた補助艦(巡洋艦駆逐艦、潜水艦)の保有量を制限することが決められ、米・英・日の補助艦の保有率は、全体で10:10:7とすることが取り決められました。

 ところが、かねてから対米7割の保有量を主張していた海軍部内では、政府が海軍軍令部の反対を抑えてこの条約に調印したため、海軍の強硬派は、これを統帥権干犯問題として激しく非難し、軍縮条約反対の声を上げました。その他にも立憲政友会の強硬派や国家主義者体も、浜口内閣の協調外交・軍縮政策に不満をいだき、これに同調するようになりました。

 浜口内閣はこうした反対論を押し切って天皇による条約の批准を実現したが、これがもとで浜口首相は1930(昭和5)年11月、国家主義団体の青年によって東京駅で狙撃されて重傷を負い、1931(昭和6)年4月に浜口内閣は総辞職しました。浜口は同年8月に亡くなりました。

 こうした軍縮条約の調印によって巻き起こった統帥権干犯問題は、やがて強硬派のテロを引き起こし、日本はファシズムの道へと進んでいくのでした・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

昭和史 上                   中村隆英=著   東洋経済新報社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著   旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著    山川出版社

日本史論述問題集                宇津木大平 他=著 山川出版社