【太閤記】豊臣秀吉はなぜ農民から天下人になれたのか
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【太閤記】豊臣秀吉はなぜ農民から天下人になれたのか」というお話です。
今回は、豊臣秀吉を主人公にストーリーを展開していきたいと思います。
皆さんは、豊臣秀吉といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」と比喩されているように、「不可能なことを可能にしてしまう人」というようなイメージがあるのではないでしょうか。皆さんもよくご存じのように、彼は農民の子に生まれがらにして1代で天下人にまで駆け上がったいわば、日本で一番出世した人です。
まさにその通りで、現代で喩えるなら、ある店舗にアルバイトとして入って、雑用をやりながら徐々に仕事を任せてもらえるようになって、実績を積み上げていき、正社員に昇格しました。さらに能力を認められ、1店舗を任せられる店長になりました。店長になってからも、店の成績が非情に良かったので、今度は、東京本社に栄転し、そこでも実績を上げたので、役員にまで昇格しました。
しかし、ある時、他の役員の裏切りによって社長(信長)が死んでしまう事件が発生。秀吉は裏切った役員を追放し、自らが社長となって、会社をどんどん大きくしていき、最終的に全国展開した業界№1の会社に成長させたという話になります。
そんな豊臣秀吉は一体どのようにして天下人になったのでしょうか。今回は秀吉の統一事業の第1回目ということで、秀吉の生い立ちから信長に仕えて、メキメキと頭角を現し始めたところまでを見ていきたいと思います。
当時は身分や家柄が大変重視された封建社会。農民から流れ者になった秀吉は織田信長という大名に仕えるようになりました。信長は身分や家柄に関わらず能力ある者を登用する新しいタイプの大名でした。秀吉はそんな信長様を喜ばせるために今、この瞬間出来ることを全力でやりました。その積み重ねが結果的に秀吉を天下人にまでのし上げました。秀吉の人生は信長によって開かれ、信長に気に入られたことで天下人へと出世することが出来たのです。
秀吉(当時の名は藤吉郎)は尾張の農民の子として生まれます。10歳の頃、実父を失い、生活に困窮した母親は再婚するものの、再婚相手の父と秀吉は馬が合わず、ことあるごとに喧嘩していました。
「お前は全く可愛くない」
すると秀吉も言いました。
「おれもお前みたいなダメオヤジは大嫌いだ。」
と歯をむき出しにして告げました。
ある日、見かねた母親は秀吉を呼んでこう言いました。
「藤吉郎、おまえがうちにいると、ゴタゴタ続きで家庭内に波風が起きる。お願いだから出て行っておくれ。これはお前の父が残した金だよ。」
といって、母親は相応の遺産を渡しました。秀吉はこれをもって、家を出ることにしました。
秀吉は旅立つ際、母にこう言い残しました。
「かあちゃん、待ってておくれ。武士として必ず立身出世して、かあちゃんを迎えに上がるからね。それまで我慢しておくれ。」
強引に家を追い出されるにも関わらず、秀吉は母親を他の誰よりも大事に思っていました。そしてこの約束は後に実現します。秀吉の母は大政所として、大名たちの尊敬の念を一身に集めるようになるのです。
尾張を出た秀吉は、最初に向かったのは、三河(愛知県岡崎市周辺)や遠江(静岡県西部)を放浪し、職を転々としていました。ここは当時、今川義元が治める領地でした。
そして紆余曲折を経て、今川家の一武将で、浜松に住む松下嘉平衛の元で小納戸役(雑用係)として働き始めました。松下は当初、流れ者である秀吉を全く期待していませんでした。
秀吉と言えば気前が良く、お金をザブザブ使うようなイメージですが、意外にも「財政」や「経済感覚」に鋭く、仕事においてその会計能力を発揮しました。
松下は驚いて秀吉を見直し、専属の会計係として採用しました。
しかし、この秀吉の優遇を面白く思わない先輩達から秀吉は、根も葉もない猜疑をかけられてしまいました。
「新参の藤吉郎は、松下家の金を横領している。」
この噂は松下の耳にも入りました。そしてこう言いました。
「いかに能力あれど、しょせんは身元も知れぬ流れ者だな。」
松下もまた姑息な人間であり、秀吉をクビにすることにしました。
「退職金をはずむから出て行っておくれ。」
秀吉はあっさりと解雇されてしまいました。
秀吉は松下家を去るとき、松下に言いました。
「主人は部下を評価します。雇うに値するかどうかを。しかし、部下も主人を評価します。仕えるに値するかどうかを。」
事実を確かめもしないで、身分だけで人を判断し、自分を会計係から追放するような姑息な主人なんて、こっちから願い下げだと秀吉も判断したのです。
この時の秀吉の言葉が非常に印象的です。
これは当時の時代情勢を的確に表している言葉ではないでしょうか。
そうです、下剋上です。当時は下剋上の風潮が激しく、下の身分の者が上の身分の者に実力で打ち勝つような時代になっていたのです。
「どこか流れ者である自分を正当に評価してくれる人はいないのだろうか」
身分の壁が邪魔していたことに、秀吉はやるせない気持ちだったことでしょう。
やむを得ず秀吉は浜松を去り、尾張に戻ることにしました。
現在のハローワークのような所で、仕事を紹介してもらい、秀吉は当時、尾張で勢力を拡大しつつあった「大名」の元で働くようになりました。
その大名こそ織田信長だったのです。秀吉は信長の雑用係として働くようになりました。
信長は家柄や身分にこだわらず、能力ある者をどんどん活用していく新しいタイプの大名であり、流れ者である秀吉を何の躊躇もなく雇い入れました。信長と秀吉が運命的な出会いを果たした瞬間です。
秀吉は初めて自分の能力を遺憾なく発揮させてくれる主人を見つけたのです。
秀吉はこの時18歳。当時としては決して早いスタートではありませんでした。そればかりか、金も人脈もない本当にゼロからのスタートで、口の悪い信長様からは、親しみと軽蔑をこめて「サル」というあだ名までつけられてしまいました。
しかし、秀吉はそんな屈辱はもろともしません。
「おい!サル!サル!どこだ!」
「はいはい。サル、只今参上いたしました。」
屈辱をさらりと受け流し、陽気に出てくる。そればかりか、逆に相手をいなすくらいの器量を持っている。それが秀吉という人物なのです。
また、信長と家臣団が軍議を開き、重苦しい空気の中、
「やぁ、こんにちは。」
と、何も知らない秀吉が陽気に入ってくる。その場の雰囲気は一気に緩み、これにはさすがの信長様も吹き出してしまったというエピソードもあるようです。
そんな秀吉が信長に気に入られるきっかけとなった有名なエピソードがあります。皆さんもよくご存じの信長の草履を秀吉は腹の中で温めていたというエピソードです。信長から「でかしたぞ!サル!」と褒められているシーンはドラマでもよく見かけます。
「信長様のために今、この瞬間、全力を尽くす。どうすれば信長様は喜んでくれるだろうか。」
常に秀吉はそう考えていました。だからこそ、草履を温めるという誰もやらないような気のきいたことが思いつくのです。
この頑張りが実り、秀吉は足軽に昇格します。足軽とは武士の最下層の身分ですが、20歳を過ぎてようやく武士としてスタートラインに立てたのです。足軽としての秀吉は全力で戦いに臨みました。そして25歳になる頃には足軽頭になり、数人の部下も出来、軍事指導や情報活動までやるようになります。ようやく秀吉は信長家の正社員に昇格したのです。
その後も、秀吉は出世街道を駆け上がっていきます。
1561年から信長は美濃の斎藤氏を攻略するために「拠点」となる墨俣城の築城を家臣達に命じてしました。
当時、「城」というのは、言ってみれば「拠点」であり、そこに兵や馬、食料を蓄えておき、そこから侵攻するという領土を拡大する上で、極めて重要な役割を果たすものだったのです。
しかし、佐久間盛重、柴田勝家などの織田家生え抜きの有力家臣は次々に失敗しました。そして1566年、信長は遂に足軽頭である秀吉に墨俣城の築城を命じました。
本来であれば足軽頭ではこんな大役は与えられません、秀吉はまたとない大出世のチャンスを与えられたのです。早速、秀吉は200~300人の兵を信長様から借り、築城に取り掛かりました。
ここでも秀吉は考えます。
「信長様を喜ばせるにはより頑丈な城をより早く造ることだ。」
秀吉の作戦は建築工法を簡略化し、全ての部材規格を統一し、事前に設計加工したカタチでイカダに乗せ、上流から流し、陸揚げし、一挙に組み立てるというもので、現在でいうプレハブ工法によって完成までのスピードアップを図ろうというものでした。
アイディアは秀吉によるものですが、資材の調達、運搬、加工、組み立て、人員の移動や敵襲に対す応戦などは、すべて地元の盗賊集団でした。
「お願いできますかねぇ。皆さん。」
「部材をあらかじめ加工してイカダで流すだと?フンッ。面白そうじゃないか。俺たちに任せな。」
彼らは地元の水利や地理に詳しい熟練の職人や兵士達で秀吉の独創的なアイディアを快く引き受けてくれました。
築城の間も秀吉は職人達を励まし、面倒を非常によくみていました。当時は戦闘や作業で負傷したり病気なったりしても殿様は面倒をみませんでした。しかし、秀吉は彼らにケガの手当てや、薬を工面したりしています。
このような秀吉の気遣いは職人達のやる気を引き起こし、チームワークを最大限にまで引き出しました。
その甲斐あって、作戦は見事成功し、墨俣城は「墨俣一夜城」として出現しました。
これに信長様は狂喜しました。
「これで美濃は我が手中に入ったも同然。よくやったぞサル!」
早速、秀吉は墨俣城の城主に任命され、美濃の斎藤氏を打倒するべく戦いに臨みます。現代でいうところ、親会社の信長社長より地方の子会社の社長に任命されたのです。それに伴い、秀吉自身も、イチ個人事業主から中小企業へ組織変化を求められました。ある一定の組織を作るにあたって必要なのは、参謀格となるナンバー2の存在です。
「サル、お前には竹中半兵衛という者を配下に入れてやる。迎え入れよ。」
「ハハッ。ありがたく存じます。」
竹中半兵衛は、斎藤家に仕える美濃の豪族の一人でしたが、当主の斎藤龍興(道三の孫)に不満を覚え、信長の誘いで織田家に仕えることにした人物です。
信長社長は、秀吉という抜擢社員に子会社を任せるにあたって、銀行から引き抜いた一流大学卒の経理マンを付けてやったのです。
そして、秀吉は斎藤攻めに乗り出し、見事稲葉山城を攻略することが出来ました。
これで信長様がモヤモヤしていてカタチを成さなかった野望が鮮明になってきました。信長は美濃の地を「岐阜」と改め、改修した稲葉山城を「岐阜城」として構えました。
秀吉の出世物語は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「太閤記」の人間学 豊臣秀吉 湯本陽、童門冬二ほか=著 プレジデント社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法 高野冬彦=著 五月書房