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【信長上洛】織田信長はなぜ足利義昭を15代将軍に就任させたのか【織田信長】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【信長上洛】織田信長はなぜ足利義昭を15代将軍に就任させたのか【織田信長】」というお話です。

 

 激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張織田信長でした。

 

 さぁ、前回に引き続き、今回も織田信長の統一事業についてご紹介していきたいと思います。1560年、上京を企てて進撃してきた駿河今川義元の大軍を尾張桶狭間で破り、1567年には美濃の斎藤氏を討ち、美濃を岐阜と改め、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。

信長が室町幕府を再建して欲しいと頼ってきた足利義昭を1568年、京に入れ、15代将軍に就任させました。それは信長の作戦であり、室町幕府から経済を活性化する権限を奪いとるためでした。こうして信長は楽市楽座という自由な経済政策を始めました。

 

 目標が天下統一になったことで、信長には合戦以外にも大きな仕事が発生しました。

それは権力の獲得です。駿河の今川や、美濃の斎藤を打ち破り、徐々に実力をつけてきた信長ですが、に欠けていたものは権力でした。

 時の天下人に近づき、権力を奪い取ることです。時の天下人とは室町幕府のことですが、信長はいかにして幕府に近づくかを考えていました。

 

 この頃の室町幕府の権威は最低ランクにまで落ち込んでおり、組織としては成立していても、事実上機能していない有名無実の存在へとなっていました。足利将軍家の血を受け継ぐ足利義昭も、各地を放浪し、ただただ文化に励むだけの遊び人となっていました。

 これに頭を抱えていたのが、室町幕府の役人である明智光秀でした。

 光秀は何とか室町幕府を再建させるために親衛隊としての兵を都に常駐させてくれる大名を探していました。

 光秀は越後の上杉謙信や越前の朝倉義景にその話を持ちかけました。

 義昭自身は身分が高いので、上杉からも朝倉からも一応歓待はしてもらえます。越前の朝倉のところに行ったときなど、御殿を建ててくれたり、女をあてがってくれたり、朝夕、酒を飲ませてくれたりと大変な歓待を受けています。

 ところが、いざ兵を出して京で将軍家を再興してくれというと、してくれない。

 これに義昭と光秀は不満を持っていました。

 しかし、上杉にも朝倉にも、たとえしたくても出来ない事情がありました。

 彼らは兵農一致であり、京に兵を派遣出来たとしても1年を通して常駐させることは出来ません。農繁期になれば必ず郷土に戻し、農作業に専念させなければなりません。さもないと、農民の生活はおろか、自分達の年貢米までおろそかになってしまいます。それだけでなく、大軍を京都に置いてしまったら、本国が侵攻されてしまう危険もあります。なので、彼らはしたくても出来なかったのです。

 

 しかし、信長は違いました。信長の兵は兵農分離がされた軍隊なので、1年を通して常駐が可能です。

 こんな常識破りの信長の存在を知った光秀は、早速、義昭と信長を会わせるよう間を取り持ちました。光秀は、わらわもすがる気持ちでした。

 一方の信長も、天下人に近づく絶好のチャンスが出来ました。まさに「飛んで火にいる夏の虫」です。

 

 義昭は当初、名門でも何でもないただの成り上がり者の信長に対し、半信半疑でした。どうせコイツも他の大名と同じだろうと考えました。

 義昭は岐阜城で信長に会った時、こう言いました。

「お前は、俺のために何をしてくれるんだ。御殿でも建ててくれるのか。それとも酒でも飲ませてくれるのか。ああん?」

 信長は答えます。

「私はあなたのために御殿など建てません。」

 義昭は驚いて言いました。

「何だと?この無礼者が。」

「いえ、とんでもない。美濃で御殿を建てても仕方ないでしょう。私なら京に将軍御所を建てて差し上げますよ。」

 さらに信長は続けます。

「それに、私の軍であれば、年中京に常駐させることが出来ます。将軍の護衛はお任せください。」

義昭は終始、半信半疑でしたが、光秀の説得で信長に頼ることを決めました。

 

 こうして信長は「室町幕府の再興」という大義のもと、京に入ることが許されました。しかし、問題は京に向かうそのルート(道途)でした。

 ここで、当時の信長の勢力図を確認しておきましょう。信長は1560年、駿河今川義元を打ち破り、人質だった徳川家康を解放し、家康と同盟を結びました。そして家康が遠江を得たことで、信長には砦が出来、甲斐の武田信玄からの侵略を直接受けることはなくなりました。つまり当面の間、東側の憂いはなくなったのです。

 南側は海だし、北側については美濃の斎藤氏を制圧したことで、もう自分の国となったので安泰です。

 残るは西側です。上洛するにはどうしても西側の近江(おうみ)を通らなければなりませんでした。

 近江は浅井長政という戦国大名が治める領地です。上洛のためには、この近江の浅井を叩き潰す必要がありますが、この時点での信長には長政を叩き潰す兵力はありません。それに、もし大軍を率いて上洛すれば、浅井氏から宣戦布告と勘違いされ、そのまま戦闘に入ってしまう危険もあります。

 

 どうにかして浅井長政と同盟を結ばなくてはなりません。

 そこで、信長は自分の妹で絶世の美女と称されていたお市を長政に嫁に出すことで同盟を結びました。政略結婚ではありましたが、お市は長政を愛しました。長政もお市を愛するようになりました。

 こうして上洛のルートが出来たことで、1568年、信長は満を持して京の都に大軍を率いて上洛しました。

 

 信長は約束通り、京に将軍御所として二条城を建て、義昭の住まいとしました。織田軍も京に常駐するようになり、室町幕府の権威は一気に復活しました。そして、信長の奔走によって、天皇より義昭は室町幕府第15代将軍に任命されました。

 これに義昭は大喜びしました。

 そして義昭は信長に恩礼を示しました。

「信長殿、君のおかげで我が幕府は再興出来た。君には本当に感謝している。もし良けれれば、我が幕府の副将軍にならないか。」

 信長は答えました。

「せっかくですが、お断りします。私など、副将軍の器ではありませんので。その代わり、堺や大津、草津などの経済の拠点を掌握する権限を頂きたいと存じます。」

 義昭はまたしても驚きました。

「何だと?一体何をするつもりだ。」

「権威だけでは世を支配出来ません。経済を活性化させ、民衆からの支持も得る必要があります。私なら現在停滞している経済の息を吹き返すことが出来ます。どうかご検討の方を。」

 この信長の提案に義昭はまたしても喜びました。

「お前はなんて謙虚なやつなんじゃ。よろしく頼む。期待しておるぞ。」

 

 信長はなぜ義昭の副将軍への誘いを断ったのでしょうか。

 信長はあくまで最高権力者になることを目指していました。

 会社にたとえるとわかりやすいですが、現在の義昭社長を会社の看板として立てておき、自分に力がついたら、新しい会社を作って義昭社長の会社を潰してしまおうと考えたのです。なので、下手に義昭社長の会社の副将軍になるわけにはいきません。そんなことをしたら、自分は「足利義昭の下」という位置づけになってしまい、天下統一を目指す信長にとって大きな障害となってしまいます。

 

 さぁ、経済を掌握する権限を得た信長が最初に行ったのは、各地の関所や商人達の同業組合である「座」の廃止でした。

 それまで物資の流通に携わる商人達は皆、同業組合を作りました。その目的は物資の流通を調整して価格の値下がりや供給過剰を防止すること。また。集団の力で盗難を防止し、災害などによる損失を分散する働きもありました。

 しかし、室町時代も後半になると、商人達の権益ばかりが重要視され、同業組合は組合員以外の新規参入は許されない閉鎖的な組織へと発展してしまいました。

 その組合は「座」と呼ばれ、公家や有力寺社のお墨付きを得て商売を独占する代わりに公家や寺社に一定のお金を納めました。

 信長はこんな閉鎖的な商業形態を打ち破ります。「座」に関係なく自由に商売をしても良いという「楽市楽座」の制度を始めたのです。これは当時の感覚で言えば、土地の所有者や耕作者がいるにも関わらず、誰でもどこでも耕して良いということに等しいので、かなり乱暴な制度にみえたことでしょう。

 しかし、新規参入出来ずにそれまでひっそりと商売をしていた潜りの行商人達は堂々と商売が出来るようになり、経済 豊かな生活を享受することが出来るようになっていきました。その結果、商品流通がさかんになっただけでなく、商品生産も発展していき、農民や商人達の生活は豊かなになっていきました。

 

 信長は庶民からの人気を集めるようになります。

 重要だったのは、この「楽市楽座令」が信長の名前で出されたということです。信長は自分の名前で命令を出すことで、人々に「信長って偉いんだな」と気付かせようとしたのです。

 庶民の間にも信長の存在が知れ渡るようになりました。

「おい聞いたか。幕府の要人に信長っていう大天才がいることを。俺達がこうして商売して儲けられるようになったのは彼のおかげさ。」

「それ、おらも聞いたことある。豊かで平和な時代が来るのはそう遠くなさそうじゃな。」

 信長の庶民人気はこうした自由経済政策によるものだったのです。

 

 信長が楽市楽座を始めた理由は他にもあります。信長の軍隊は、流れ者を寄せ集めた「銭で雇う兵」でした。兵士を「銭」で雇うには、肝心の「銭」が大量に必要です。そのためには経済を活性化させ、商人達から銭を大量に徴収する必要があったのです。

 

 こうして、庶民から人気を集め、銭も大量に徴収出来るようになった信長ですが、その半面、公家や寺社勢力からの反発を受けるようになりました。「座」の特権を廃止したことで、寺社等の収入は減少してしまったため、全ての寺社、つまり宗教勢力から大反発を招くことになりました。これが後に11年にも及ぶ石山戦争につながるのです。

 新体制を敷いた信長は今後、旧勢力との死闘を繰り広げることになるのでした・・・。

 信長の活躍は続きます。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

戦国時代の組織戦略             堺屋太一=著     集英社

組織の盛衰                 堺屋太一=著     PHP文庫

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著     旺文社

学校では教えてくれない戦国史の授業     井沢元彦=著     PHP

もういちど読む 山川日本史         五味文彦・鳴海靖=著 山川出版社