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【アメとムチ】なぜ普通選挙法と治安維持法は同時に成立したのか。

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【アメとムチ】なぜ普通選挙法と治安維持法は同時に成立したのか。」というお話です。

 

それでは、今回は普通選挙治安維持法がどのような経緯で制定されたのかを見ていきたと思います。

大正時代とは「大正デモクラシー」の時代です。デモクラシーとは民主主義のことですが、大正デモクラシーとは民主主義を求めて政党や民衆が官僚達に抗議する運動のことです。これが大正時代の大きな特徴です。

今回はそうした民衆の願いが叶い、遂に普通選挙法が制定された時のことを解説したいと思います。これと同時に治安維持法という法律も制定されます。この両者は表裏一体の関係にあり、普通選挙法は国民にとってのアメであり、治安維持法とは、国民にとってのムチであると言われています。

 

普通選挙とは、身分や財産、学歴、そして納税などの制限がなくなり、国籍を有する全ての青年に選挙権を認める制度のことでうす。今までは直接国税として○○円以上納めている人達に選挙権が認められていましたが、今回の普通選挙法でそうした納税制限がなくなり、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。

 

一方、治安維持法とは、現行の政治形態や経済体制に対する言論や運動を取り締まる法律で、治安維持という名目上のもと、社会主義者や左翼団体を問答無用で弾圧するというものです。

つまり、「国民には、政治に参加する権限を与えてやるから、政治や経済に対して反対運動を起こすなよということです。」

 

では、普通選挙治安維持法はどのように制定されていったのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら普通選挙法と治安維持法が制定された経緯について見ていきましょう。

 

清浦圭吾内閣は貴族院を基盤とした特権階級を主体とした超然内閣を行いました。しかし、護憲三派と呼ばれた三政党から非難を浴び、清浦内閣は総辞職に追い込まれました。普通選挙運動が盛り上がる中、連立内閣を成立させた護憲三派は、普通選挙法の実現に乗り出します。しかし、それには枢密院という大御所の役人達の承認を得なくてなりませんでした・・・・・。その中で治安維持法が生まれたのです。

 

大正12年の暮れ、摂政宮であった裕仁親王(後の昭和天皇)が議会の開院式で虎の門を通られた時、鉄砲を打って皇太子を狙った者がおりました。これが虎ノ門事件となります。皇太子に直接お怪我はなかったものの、皇族を狙ったテロ行為は大事件です。時の山本権兵衛内閣は全員、「申し訳ない」と責任を取り、翌年の大正13年には閣僚全員が辞表を出しました。こうして山本内閣は発足から4カ月ばかりで倒れてしまいました。

 

虎ノ門事件によって山本内閣が倒れた大正13年、政府内では新たな内閣を作る話が出ていました。

当時、総理大臣を選ぶのは天皇の責務ですが、元老という天皇から顧問のような役割を委託された大物政治家が居座る立場がありました。次の総理大臣を誰にするか天皇から相談を受け、それに答えるため、事実上、元老が総理大臣を選ぶ立場にありました。

この時分になると、元老は西園寺公望ただ一人であり、伊藤博文や、黒田清隆山県有朋などの「明治の英傑」と呼ばれた元老達はほとんど亡くなっており、総理大臣を天皇に推薦する権限を持つのは西園寺のみであり、最後の元老と呼ばれました。総理大臣に挙がった人は清浦圭吾でした。

 

西園寺は山本権兵衛に続き、 清浦圭吾を首相として推薦。天皇に上奏しました。

当時、清浦は80歳近くの大御所であり、既に高い地位の役職を歴任していました。明治20年代、山県内閣が出来たとき、大臣を務め、その後も貴族院、枢密院などを歴任した典型的な役人出身の政治家です。元老である西園寺公望は清浦を総理大臣として推薦しました。大正13年、大正天皇の命令によって清浦は組閣の命を貰いました。

そして1924(大正13)年、清浦圭吾内閣が発足しました。

 

この頃、世論では、普通選挙実現を求めて各地で普選運動が展開されてしました。欧米各国が次々に民主主義を実現していく中、日本でも普通選挙の実現を叫ぶ声が強まっていたのです。

西園寺は普通選挙の実現は時期尚早としました。かつて平民宰相と呼ばれた原敬普通選挙を見送りました。西園寺にとって原は政友会の右腕です。ですから西園寺も原の意見を支持していたのです。

「西園寺殿は、政党ではなく、時代遅れの老人を総理になさった。一体何をお考えなのだろう。」

そんな老人総理の清浦は予想通り、政友会や憲政党などの政党から閣僚を入れることなく、閥族や貴族院を勢力とした超然内閣を作り上げました。清浦内閣は典型的な保守派政治の路線を進めました。もちろん普通選挙も時期尚早としました。

普通選挙だと?そんな軽率な法律を通したら、とんでもない事態になるぞ?」

 

まぁ、清浦はこのように時代遅れの老人政治家でした。

こんな時代遅れの超然内閣を作った清浦内閣は各政党からすこぶる不評でした。当然ながら、野党である政党勢力は清浦内閣に反発します。

 

総選挙の時期が近付くにつれ、各政党内では、普通選挙の実現を求める運動がさかんに行われるようになりました。

特に加藤高明率いる憲政会は清浦内閣に反発していました。憲政会は従来から普通選挙実行論を掲げており、薩長藩閥政府や超然内閣に強硬な姿勢を見せていました。

高橋是清率いる立憲政友会は、原敬以来ずっと普通選挙反対の姿勢をとってきましたが、選挙の時期が近づいてくると普通選挙反対とは言っていられなくなりました。高橋是清は言います。

普通選挙は、もはや時代の要請だ。ここで普通選挙を見送れば、多くの社会主義者や左翼団体が今以上に加熱します。」

こうして立憲政友会普通選挙賛成にまわり、

そして、犬養毅率いる革新倶楽部も清浦内閣に反対でした。革新倶楽部とは、政友会でもなく憲政会でもない第三党で同じく犬養毅率いる立憲国民党が大正11年に解散したのち、

 

こうして従来から普通選挙を主張していた憲政会と革新倶楽部に政友会が歩調を合わせるカタチで政党勢力がタッグを組みました。

藩閥政府を倒し、憲政擁護を謳う政友会、憲政会、革新倶楽部の3つの政党が連合し、護憲三派が結成されました。彼らは、そのスローガンとしてを掲げ、清浦内閣を打倒するべく倒閣運動を展開することを決意しました。

 

ところで、政党はもう一つあります。それは政友会から分裂した政友本党です。実は、原敬の死後、後を継いだ高橋是清内閣の時に内閣の改造、非改造をめぐって政友会内部が分裂してしまったのです。その中で非改造を主張していた保守派の政友会は、政友本党となりました。政友本党普通選挙に反対し、清浦内閣の与党となりました。

 

3つの政党が連合したので、選挙となれば衆議院の半数以上は楽にとることが出来ます。これに対して政友本党の方は、選挙をやるには政府の与党であった方が有利となります。そうすれば、警察の取り締まるとか、そういうことも非常に楽である、というので、清浦の方の与党になったのでした。

しかし、数から言えば野党の方が圧倒的に多い。自信をつけた護憲三派第二次護憲運動という看板を掲げ、清浦内閣のもとで開かれた議会で、内閣不信任案を提出しました。

衆議院の多数派を牛耳る護憲三派が、これを議会で投票すれば数の上で護憲三派の方が有利ですから、内閣不信任案は議会を通ってしまいます。清浦内閣は途端に議会を解散し、総選挙に突入しました。

こうして1924(大正13)年1月、震災から数カ月しか経ってない時に選挙となったわけです。

護憲三派が公約として掲げたのは、「政党内閣実現、普通選挙断行、減税実施、」です。普通選挙は もちろん普通選挙のは前から普通選挙を公約として掲げ、政権を握ったので、普通選挙法は国会に是非通さなければなりません。

 

選挙の結果は、誰も予想しなかったものとなりました。衆議院第一党となったのは、憲政会だったのです。憲政会は160、政友会が110、政友本党の方も前に持っていた議席からいくらか減らして130ぐらいでした。

総選挙は護憲三派が圧勝、清浦内閣は発足からわずか5カ月で総辞職に追い込まれました。

 

元老の西園寺公望は早速、与党となった憲政会の総裁である加藤高明を首相として天皇に上奏。加藤は大正天皇の命により、組閣に取り掛かりました。

その際、一緒に「打倒、清浦内閣」を掲げて護憲運動を行った政友会と革新倶楽部にそれぞれ入閣を求めました。

こうして首相には憲政会総裁の加藤高明が、これに政友会の高橋是清革新倶楽部犬養毅が大臣として加わり、加藤高明内閣が誕生しました。

一方の政友本党は、床次が大将になって選挙をやったけれども、これは前内閣の与党ですから、内閣に加わることは出来ないことになりました。

このように第二次護憲運動とは、民衆のデモを伴う倒閣運動ではなく、選挙で争うことで倒閣を実現した運動なのです。

 

清浦内閣に代わり、新たに誕生した加藤高明内閣ですが、発足後早速、公約であった普通選挙法を帝国議会に提出しました。

 

ところが、当時は、このような重大な法案を議会に提出する際には、その前に枢密院という役所の承認を得なければなりませんでした。枢密院とは 非常に厄介な役人達が集まっていました。

加藤高明内閣の内務大臣で、この後すぐ総理大臣にもなる若槻礼次郎は枢密院からの承認を得るべく数密議員達の御宅を一軒一軒訪れました。

「こういうわけですので、どうか承認のほう、お願いします。」

しかし、枢密院の連中は口をそろえて言いました。

「君達は極めて安易な法律を作ろうとしていることを、まず自覚しなければならない。今の時勢、社会主義思想が浸透しているこの時勢、世の男子全てに選挙権を与えてしまったら、共産主義無産政党が必ず当選してしまう。これは極めて危険なことだ。」

 

そう、枢密議員をはじめ政府が危惧していたのは共産主義勢力でした。

実はちょうど同じ年、加藤内閣の外務大臣である幣原喜重郎は、ロシア革命後に成立したソビエト社会主義共和国連邦との間に国交を樹立し、日ソ基本条約を締結していました。

幣原の外交方針は国際協調主義であり、日本の資本主義の反対である社会主義国であっても、互いに協定を結び、平和維持に努める方針を固めたのです。これは幣原外交と呼ばれており、他にも対米協調や対中国内政不干渉政策の実施に努力しました。

しかし、ソ連と協定を結んだことで、必然的に社会主義思想が日本にも本格的に入ってくることを意味していたのです。

普通選挙には同意してやるが、共産党の結社を禁ずる法律をつくれ。」

これが枢密議員の共通の意見でした。

これには高橋是清犬養毅も反論の余地はありませんでした。

 

これによって、加藤内閣は治安維持法という法律を考えました。これは政治体制や経済政策に対する言論を弾圧する法律で、資本主義の前提である私有財産制度を否定する社会主義運動を弾圧しようとしました。また、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇を元首とする国体を変革し、天皇を神とする国の在り方を変えようとする左翼団体も弾圧しようとしました。

これによって、暴動はおろか、組織を結成しただけで懲役10年以下となるので、かなり重い刑罰です。政友会による改正が1928(昭和2)年に行われた際には、死刑または無期懲役まで厳罰が加えられることになって、社会主義者達は非常に厳しい弾圧を受けることになります。

 

こうして普通選挙と同時に治安維持法は議会を通過。両令は1925(大正14)年に制定されました。

 

普通選挙法によって納税制限がなくなり、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。そして治安維持法によって、政府に対する批判的な言論や組織も弾圧されることになました。

 

普通選挙の実施は次の若槻礼次郎内閣のときの1928(昭和2)年になりますが、政府の心配通り、労働者や小作人を代表する無産政党から8名もの当選者が出てしまい、中には非合法に成立した共産党関係者も含まれていました。このため、時の内閣である田中義一内閣は強い衝撃を受け、その対応に迫られるのでした・・・・。

 

さぁ、今回の記事で大正時代は以上になります。大正時代とは、藩閥政治や超然内閣を倒し、民主主義の風潮が一段と強まり、政党内閣や普通選挙を実現していった時代です。大正時代は15年間で、45年続いた明治時代の3分の1しか期間がありません。しかし、現代の私達の政治的な面で大きな影響を及ぼした非常に重要な時代だったのです。

以上

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞