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【大正から昭和へ】昭和天皇の願いとは。

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大正から昭和へ】昭和天皇の願いとは」というお話です。

 

 大正天皇崩御は1926(大正15)年12月25日でした。それから「昭和時代」が始まるわけですが、今回は大正時代末から昭和時代に変わるときの昭和天皇の思いや時代背景などをご紹介したと思います。

 

大正天皇摂政宮の地位に就いた裕仁親王(後の昭和天皇)は、第一次世界大戦のヨーロッパの戦場跡を視察して涙しました。昭和天皇の願いとは、日本の天皇制と皇位の継承を守りつつも戦争が起こらない平和な時代が1日でも早く訪れることでした。しかし時代は天皇の願いとは逆方向に向かってしまうのでした・・・。

 

 1919(大正10)年11月、皇太子裕仁(ひろひと)親王、後の昭和天皇が、大正天皇の公務を代行する摂政宮(せっしょうのみや)の地位に就きました。大正天皇は生まれつき心身の病がひどく、日常の公務が遂行できないということで静養に入り、20歳の裕仁親王摂政として公務を代行します。

 裕仁親王摂政に務めさせる話は以前からありました。それは1918年(大正7)年の原敬内閣の時で、裕仁親王が17歳のときでした。成人になる前に皇太子に海外を視察させ、世界のことを学んで頂くべきだという意見が出て来たのです。

 

 そんな話が出てから2年後の1920(大正9)年、大正天皇の病状についての記者発表が行われるようになると、同時に裕仁親王のヨーロッパ外遊が始まりました。

 しかし、当時の皇太子は英語もしゃべれず、ヨーロッパのマナーも知りませんでした。なので、最低限の英語力と西洋マナーが教育されました。

 そして1921(大正10)年3月、20歳になった裕仁親王はヨーロッパ外遊に旅立ち、半年間、第一次世界大戦後のヨーロッパを巡察しました。

 イギリスに渡った裕仁親王はイギリス国王であるジョージ5世に会いました。

 ジョージ5世は東洋から来たプリンスを快く歓迎しました。

 裕仁親王ジョージ5世に訪ねます。

「イギリスの君主制は非常に長く続いておられます。なぜそんなにも長く続いているのですか。」

「我がイギリスには伝統的に議会というものがあり、その議会を通じて法律をつくり、物事を決めています。すなわち、立憲君主制を守っているからだと自負しております。」

「君主が独断で国を動かしてはいけない。民衆から必ず反発を買います。君主は君臨すれど、統治せず。下僚が上奏してきたことに対し、承諾、裁可する。それが立憲君主制というものです。」

 裕仁親王にとって最も重要なのは、天皇制、皇位の継続性であり、そのためなら戦争も辞さないという強い心構えが既にありました。裕仁親王は好戦的な人物ではありませんが、かといって平和主義者でもないのです。

 さらにジョージは続けます。

「ヨーロッパ各国を巡察するようですが、是非とも戦場跡をご覧になってください。我々はニ度とあのような過ちを繰り返してはいけません。」

 裕仁親王は、第一次世界大戦で戦場になり、最も被害の大きかったベルギーの戦場跡に向かいました。ヨーロッパが同盟国軍と連合国軍の2つの勢力に分かれ、両軍が緊張状態にあった1914(大正3)年7月、同盟国側のドイツ軍は中立国であるはずのベルギーに侵攻。それを口実に連合国側のフランス軍も進軍。両軍はベルギーで激突しました。

 その結果、多くのドイツ軍とフランス軍、そしてベルギーの民間人が命を落としました。

 ベルギーの戦場跡は悲惨なもので、それはまさに地獄絵図と呼べるものでした。

 裕仁親王はベルギーの将校に案内され、その説明を受けました。

 そして将校は涙ながらにこう言いました。

「私も息子2人をここで失いました。」

 それを聞いた裕仁親王も涙を流しました。

「戦争とは勝手も負けても地獄が待っている。誰ひとり得しない。戦争などやるべきではない。」

 天皇制の存続のために戦争を辞さない覚悟でいた裕仁親王ですが、一方で戦争の恐ろしさを直に体験したのでした。昭和天皇の願い、それは国の伝統と王位の継承を守りつつも、戦争のない平和な時代が1日も早く訪れることでした。

 大正時代末期、すでに「日米もし戦はば」というフィクションが発刊されており、ベストセラーになりました。いずれ交米を代表するアメリカとアジアを代表する日本が戦わなくてはならない時代がくるという予測があったのでした。

「本当に戦争を避けて通ることは出来ないのだろうか・・・・。」

 そんな思いが当時の裕仁親王の胸の内にもあったに違いありません。

 

 同じ頃、第一次世界大戦の戦場跡を日本の軍人達も見に行っています。その悲惨さを目の当たりにした軍人達の中には軍人を辞めてしまった人もいます。彼らも涙が止まらなかったと言います。

 一方で全く涙が流れなった軍人もいました。

「なぜ君主制の強いドイツが負けたのか。民族意識や教育水準もトップレベルのドイツ帝国が民主主義のイギリスやフランスになぜ負けたのか。」

 そう考えていたのは、東条英機という人物です。

 彼はドイツが負けたのは、ドイツ革命を起こした不埒(ふらち)な国民がいたからだと分析しました。そしてこう結論付けます。

「これからの戦争は国家総力戦でないと勝てない。軍人だけでなく、国民も戦争に参加する時代だ。国民に愛国心と忠誠心を徹底させるのだ。」

 東条はどうすればドイツが勝てたのか、またこれからの戦争はどうあるべきかを考えていたのです。これが昭和の日本が経験する第二次世界大戦の伏線になるのでした。

 

 大正時代中頃、日本は第一次世界大戦の大戦景気を享受することが出来ました。そのおかげで民間企業がたくさん生まれました。国民の6割はまだ農民でしたが、都市の人口はどんどん増えていき、いわゆる給料生活者がたくさん出てきました。

 給与生活者は自分の子供に高校や大学へ進学させ、最新の知識を学ばせました。こうして多くの学生が昭和の最初に社会に出ていくわけですが、ここで彼らはようやく気付きます。日本にはまだ最新の知識や技術を受け入れる基盤がなかったことに。

 昭和の初めに流行語になった「大学は出たけれど」はこのようにしておこりました。

 

 大正10年代に入ると、世間には厭戦反戦のムードが漂い、戦争や軍事的な事件はほとんど起こりませんでした。それは第一次世界大戦の反省により、世界規模で軍縮が進められたからです。

 1922(大正11)年にはワシントン会議においてワシントン海軍軍縮条約も結ばれ、日本の海軍は軍縮を余儀なくされました。こうした動きが圧力となり、やがて陸軍も軍縮を余儀なくされます。

 さらに1923(大正12)年に起きた関東大震災のために国家予算を割かねばならず、軍部は大幅な人員削減を行いました。多くの軍人がリストラされましたが、再就職先には旧制中学校や旧制高校で、配属将校で軍事教育を担当したり、民間企業に勤めたり、自営業になったりしました。しかし、それらの職にあぶれた軍人には強い屈辱感が残りました。これが昭和初期の相次ぐテロ事件の伏線になります。

 1924(大正13)年~1925(大正14)年になると、海軍兵学校陸軍士官学校ともに大幅に定員削減が行われました。

 さらに大正時代とは「大正ロマン」と呼ばれるほど「人間性」を重視する空気が流れていた時代で、志賀直哉のような白樺派小林多喜二のようなプロレタリア文学が登場しました。このような文学や芸術に反戦ムードが相まって軍人に対する社会的な風当たりは強いものとなりました。

 軍人は街を歩くときは軍服では歩けず、人々の冷たい視線に出会って肩をすくめなければなりませんでした。また「軍人になると嫁がもらえない」という言葉も流行りました。

 

 このように大正時代までは反戦ムードが漂い、日本の軍事行動もほとんどなく、身を縮めるように生きていた軍部が昭和に入ると途端にその存在感を誇示し、軍事行動に出るようになります。1927(昭和2)年には山東出兵、翌1928(昭和3)年には中国軍閥張作霖を列車爆破で殺害、そして1931(昭和6)年には満州事変と次々に軍事行動が起きています。昭和初期の暗黒時代の幕開けです。

 この対照的な時代情勢はなぜ起きてしまったのでしょうか。

 これは大正天皇崩御とともに裕仁親王昭和天皇として即位したことと無関係ではないはずです。

 大正天皇崩御されたのは、1926(大正15)年の12月25日午前1時25分です。その3時間前、宮内省は御脈拍160以上、御呼吸67、御体温40.3、と発表しており、病名は明らかにされませんでした。大正天皇は47歳の若さで崩御されたのです。

 大正天皇崩御されてから2時間後、26歳の皇太子裕仁親王即位式が行われました。 御用邸には各皇族、西園寺公望ら元老、時の首相・若槻礼次郎をはじめ閣僚達が集まり、

 玉座に就いた裕仁親王には璽と国璽が玉座前の案上に奉安されました。ここに124代目の天皇が誕生したのです。

 すぐに閣議が開かれ、5時間もの時間をかけた結果、新しい元号は「昭和」となりました。その由来は書経の尭典の中にある「百姓昭明、万邦協和」からとったものでした。

 一時は「光文」に決まっていましたが、東京日日新聞がスクープとして掲載してしまったので、急きょ閣議が開かれ、「昭和」に決まったのでした。

 

 26歳の若さで天皇に即位した裕仁親王を軍部はどのような目で見ていたのでしょうか。軍の指導権を握る上層部は50代~60代であり、明治天皇の頃から仕えており、日露戦争も経験しているベテラン集団です。彼らからすると、昭和天皇はこれから育てていかなくてはならない若きプリンスである一方、どこか子供扱いしていた部分があるのだと推測します。

 経験未熟な昭和天皇を見下し、次々に軍事体制を整え、大日本の名君主として祭り上げてしまうとする気運がありました。

 そこには日本の権益を拡大させることで昭和天皇に報いようとする善意の気持ちがあったのかも知れない。しかし、軍事行動を先行し、天皇にはひたすら追認を迫るだけで、天皇をないがしろにした行動であることには間違いありません。 

 こうした例は、様々な場面で見受けられました。ある陸軍次官が夜8時頃に上奏に向かう際、晩酌をして酔っぱらった状態で向かったことがありました。当然ですが、天皇陛下の御前に行く前に酒を呑むなど言語道断。昭和初期には、軍部によるこうした若い天皇を舐めている行為が目立つようになります。

 こうして昭和時代前半の時代情勢は、昭和天皇の願いとは逆方向に向かって突き進んでいくのでした・・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

朝日おとなの学び直し!昭和時代       保阪正康=著  朝日新聞出版

昭和史を読む50のポイント         保阪正康=著  PHP