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【原敬内閣】なぜ原敬は普通選挙に反対したのか 【原敬】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【原敬内閣】なぜ原敬普通選挙に反対したのか【原敬】」というお話です。

第19代総理大臣に就任した原敬は平民宰相という言葉とは裏腹に当時、要求が高まっていた普通選挙には否定的でした。原は権利ばかり主張し、自立心を持たない当時の日本国民の甘えを戒めたのです。また、「民衆による普選運動」を恐れた元老や軍部に対し、原は普通選挙を実施しない代わりに政友会のような大政党に有利な小選挙区制を採用しました。原は薩長藩閥政府を抑え、本格的な政党内閣の確立を目指していたのです。

 

 

 前回に引き続き、原敬内閣について見ていきます。

 原敬は1918年に第19代総理大臣に就任。原は薩長藩閥や陸海軍などの軍閥という立場で政権を握ったのではなく、衆議院議員選挙を経て、衆議院に多くの議席をもつ立憲政友会の党首として首相となりました。このため、原は平民宰相と呼ばれ、国民から大きな期待を受けていました。

 

 原敬内閣について、もう1つ触れておきたいのが、1919(大正9)年に改正された選挙法です。

 まず、これまでの選挙法の変遷について見ていきたいと思います。

 日本で最初に選挙法が発布されたのは1898年の黒田清隆内閣のもと、大日本帝国憲法と同時に発布されました。これにより憲法が規定する帝国議会のうち、衆議院は臣民とよばれた国民の選挙で選ばれるようになりました。

 しかし、その当時の衆議院議員選挙法では選挙権を持つのは、直接国税15円以上を納入する25歳以上の男子のみでした。これは全人口の1.1%程度で、民主政治とは程遠く、これまで自由民権運動を精力的に行ってきた層は失望しました。日清戦争後に男子に限った普通選挙を目指す運動が起きますが、この運動は広がらず、まもなく衰退します。

 1900(明治33)年になると、第2次山県有朋内閣のもとで、選挙権は直接国税10円以上に引き下げられ、全人口比も2.2%にまで増加しました。

 そして、1918(大正7)年、米騒動をきっかけに人々は社会秩序の変化を強く感じました。原内閣が迎えたこの年は、普通選挙運動は知識人や学生、社会主義者を中心に大衆運動として都市部を中心に盛り上がっていました。

 

 平民出身である原敬内閣のもとでは、普通選挙がいよいよ実現するかに思われましたが、以外にも原は慎重でした。

 1919(大正8)年末から1920(大正9)年3月まで開かれた第41回帝国議会で、原は選挙法の改正案を議会に提出しました。そこには、選挙権を1年間に直接国税3円以上に引き下げ、25歳以上の男子のみとしました。そして、選挙区を大選挙区から小選挙区に変更するものでした。

 直接国税3円とは、現在のお金で1万8000円程度であり、農村部なら少し耕地を所有し直接国税を支払っているなら選挙権が与えられる。これは全人口の5.5%ですが、当時の選挙権とおしては大幅に緩和されたといってよい。その一方で選挙権の該当者が少数なのは、それでけ当時の日本国民が全体的に貧乏であったということです。

 1919(大正8)年の議会で原内閣は選挙法の改正を行います。選挙権についてはそれまでの直接国税10円以上を納める者でしたが、原内閣は、直接国税3円以上を納める者に変更しました。

 

 平民宰相と呼ばれた原敬は意外にも普通選挙には否定的だったのです。

 確かに野党時代、あれほど憲政擁護を主張していた立憲政友会は、いざ政権を取ると一転して普通選挙には否定的な態度をとりました。

 なぜ、原は普通選挙に反対したのでしょうか。

 原は権利ばかり主張し、義務を果たそうとしない国民の甘えを戒めたのです。

 原敬は当時盛り上がりを見せていた労働運動に対し、以下のような内容を日記に綴っています。

「西洋の国々では8時間労働を実施する国が出てきたようだが、日本の場合は勤務中に無駄話をしたり、他に注意を奪われたり、こまめに休憩時間を入れたりしている。これが実情です。それでも日本は8時間労働制の徹底を要求している。これは筋が通らない。」

かつて、原は自由民権運動には肯定的で日本国民が目指すべきものだと見なしていました。しかし、ここにきて原はそれを危険な思想だと感じるようになったのです。

「民権派や社会主義者などの権利ばかり求める思想家はきわめて軽薄だ。自立心や常識を持たない臣民が西洋のまねをして、その権利を要求するのはつじつまが合わない。」

普通選挙に関しても、国民一人一人が自立心を持ったうえで政治に参加するのが望ましいとしました。

こうして原は立憲政治の原則を誠実に考えるがゆえに、普通選挙を時期尚早とし、その実現を見送ったのでした。

また、与党である政友会の主な支持層は地方の地主層で、彼らも普通選挙に否定的であったこともその原因の1つと考えられています。

 

原はさらに選挙制度大選挙区から小選挙区に変更するように求めました。これはなぜでしょうか。

第41議会が開かれている最中の1919(大正8)年2月、東京では普通選挙を求めて大規模なデモが起こりました。集まったのは3千名ほどで、3月には1万人を超えました。

議会が開かれる直前、原は元老で陸軍閥のボスである山県有朋を訪れていました。

山県は普選運動を恐れおののいていました。

「昨今、普選運動が盛り上がりを見せている。これは社会運動とならび、革命につながるかも知れない恐るべきデモだ。普選実現の時期を誤ると、とんでもない事態になるだろう。どうか原殿、選挙権に関しては慎重な対応をしていただいきたい。」

原も普選運動を危険思想と見なすと同時に、これは利用出来ると考えました。元老や軍部のような薩長藩閥の政治家たちを嫌いぬいていた原は彼らをどうすれば抑え込むことが出来るかを考えていました。

 

原は普選の実現を見送る代わりに、選挙区を大選挙区から小選挙区に変更することを認めて欲しいと山県に迫りました。小選挙区とは、1選挙区から議員を1名のみ選出する選挙制度ですが、政友会のような多数党であればあるほど有利な選挙区制です。多数党である政友会が衆議院過半数を占めることが出来ます。

原は小選挙区とすることで、衆議院での政友会の基盤を強化しようとしたのです。

原の妥結案を山県も了承。これで衆議院参議院を最大勢力である山県系官僚閥を抑えることができました。

こうして原は1919年の選挙法の改正案をみごとに通過させたのでした。

本当に原は政党内閣の確立に献身的であったことが窺えます。

 

この1919(大正8)年という年は、フランスの首都パリで第一次世界大戦の戦後処理であるパリ講和会議が開かれた年でもありました。原内閣は、全権大使として元老の西園寺公望に出席して頂くよう依頼。西園寺率いる日本全権団は、パリに向け、日本を出発。同年○月にはヴェルサイユ条約に調印します。日本は中国での旧ドイツの利権を引き継ぎ、南洋諸島も獲得しました。翌1920(大正9)年には国際連盟も発足し、日本はイギリス、フランス、イタリアに次ぐ4番目の常任理事国となります。日本も世界平和の責任を担う重要なポジションを任されたのです。

 

1920野党である憲政会や立憲国民党はでも普通選挙の実現をスローガンにやかましく論じていました。

1920(大正9)年に開かれた第42回帝国議会において憲政会は以下のように主張しました。

「昨年の議会において選挙法の改正をして頂いたことには歓心いたしました。しかし、我々が求めているのは税金による選挙権の制限を撤廃した選挙法(普通選挙)の実現です。」

憲政会は選挙法をもう一度改正し、普通選挙を実現する改正案を提出しました。

政友会としては薩長藩閥勢力との約束がありますので、普通選挙の実施は出来ません。したがって、建前としては「とにかく去年選挙法を改正したばかりです。それをまた改正しろというのはおかしい。ただの一度も新制度の選挙を行わずに改正などありえないことです。」

としました。

 

1920年5月に行われた総選挙で与党政友会は圧勝しました。

ただ、この年から大戦景気の好景気後の経済の落ち込みが起こります。(戦後恐慌)

前回述べたように経済に関しては放任主義である原は、大戦バブル後の不景気も克服することが出来ませんでした。

 

普通選挙の否定や不況対策の不振は原の「平民宰相」というイメージを大きく損なう結果となりました。

原内閣は発足当初、初の爵位をもたない平民宰相として本格的な政党内閣として熱狂的な支持を受けていました。しかし、藩閥や軍閥との折り合いにばかり腐心するあまり、十分に期待に応えることが出来ず、国民の間に不満が強まります。

 

やがて原は内閣発足から3年後の1921(大正10)年に暗殺されてしまいます。

東京駅の南口の壁に、小さなプレートがはめ込まれているのをご存じでしょうか。気付きにくいですが、「原首相遭難現場」と書かれています。

1921(大正10)年11月4日、原はこの日の夕がた、京都で政友会の大会に出席するために改札口に向かいました。そこへ柱に隠れていた男がぶつかるようにして胸を刺しました。原はその場で倒れ、午後8時前、死亡が確認されました。

犯人は仲岡という人物で、19歳の大塚駅に運轍手(うんてつしゅ)でした。運轍とは、手動でポイントを切り替える仕事です。

中岡は取り調べに対し、原政権に不満を持っていたことを明らかにした。

「原首相を殺せば景気がよくなると思った。」と原を狙ったとした。これは中岡の単独犯として無期懲役の判決を受けました。

しかし、この事件には黒幕説が絶えません。

中岡の裁判自体は事実調べもたいして行われず、判決を受けました。中岡は1934(昭和4)年に恩赦で出獄し、中国に渡っています。その後の中岡の歴史的資料はほとんど見つかっていません。昭和13年頃に満州日日新聞に「中岡こんいち君結婚」という小さな記事が掲載されますが、中岡は中国名を持っており、中国人女性と結婚したようです。

しかし、これ以降、中岡は完全に歴史から消えてしまいます。なぜ暗殺犯がここまで匿われているのでしょうか。これは確実に巨大な組織、国家レベルに匹敵する組織が関わっているとみて間違いないでしょう。

原は非常にバランス感覚のとれたリアリストで、藩閥や官僚と権力間のバランスを取りながら議会政治をおこなってきました。そんな原が暗殺されたことは当時の政治家の間に言葉にならない恐怖心を植え付けたことは間違いありません。

昭和に入る直前の大正10年代、日本の議会政治は完全にバランス感覚を失ってしまいました。政治家は自分の利権にばかり走り、汚職や疑獄が次々に起こります。昭和時代に入ると、五・一五事件やニ・ニ六事件など首相や要人を狙ったテロが相次ぎます。原の暗殺は昭和初期の混沌とした不気味な時代への幕開けと言えると思います。

世界が第一次世界大戦の反省から国際平和を推進する中、日本国内は混沌とした暗黒時代へと突入していくのでした・・・・。

 

原敬が暗殺された後、大蔵大臣で政友会では原の筆頭相談役だった高橋是清が首相に就任します。高橋内閣は原内閣をそのまま引き継ぐように全閣僚を留任させたうでスタートするのでした・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

原敬 外交と政治の理想   下         伊藤之雄=著 講談社選書メチエ

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞

朝日おとなの学びなおし!昭和時代        保阪康正=著 朝日新聞出版