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【原敬内閣】なぜ原敬は軍備拡大を先送りにしたのか【原敬】

 

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【原敬内閣】なぜ原敬は軍備拡大を先送りにしたのか【原敬】」というお話です。

第19第首相に就任した原敬は本格的な政党内閣を組織しました。時代は超然内閣の時代から政党内閣の時代へと移り変わったのです。原首相は大学令などの高等教育機関の充実、鉄道敷設などの公共事業の充実などの積極政策を推進しました。その一方で軍備拡大に関しては先送りにしました。それは第一次世界大戦終結に伴う軍縮や国際協調路線という時代の流れを原首相があらかじめ先読みしていたからです。

 

 今回から原敬という人物を主人公にストーリー展開していこうと思います。皆さんは原敬といえばどんなイメージをお持ちでしょうか。おそらく、「平民宰相」とか「本格的な政党内閣を組織した人」というイメージがあると思います。

 政党内閣とは何でしょうか。

 この当時、政党の多くは民党とよばれ、国民の選挙によって選ばれた衆議院議員の多くが所属していました。今回の原敬が党首である立憲政友会犬養毅立憲国民党加藤高明立憲同志会などがそれにあたります。このような政党(民党)が内閣を組織し、政権を運営していくことを政党内閣と言います。

 では、それまではどのような内閣だったのでしょうか。それまでの日本の内閣の多くは超然内閣というものでした。政党内閣と比較してみましょう。

超然内閣

政党内閣

官僚で構成

衆議院議員で構成

薩摩・長州の出身者(藩閥

国民の選挙で選ばれた人達

強権的な政

民衆的な政治

 

 超然主義といえば、1889(明治22)年の大日本帝国憲法が発布された翌日に時の首相である黒田清隆官僚達に対して行った超然主義演説が非常に有名です。

 翌1890(明治23)年に第一回衆議院総選挙第1回帝国議会が開かれましたが、結局、薩摩や長州出身者が首相や大臣を独占し、内閣を組織し、政治を運営しているという状態でした。

 つまり、超然主義とは「細かいことにはこだわらない」という意味で、「選挙の結果が議会にどう反映されても、我々の独断によって政治を行う」という非常に強権的な政治手法です。こんな政治は当然ですが、たびたび民衆の反発を買っていました。

 それに対し、政党内閣とは、国民の選挙によって選ばれた代表者による内閣ですから、民意を重視した政治を行います。(民主政治)。

 

 さぁ、前置きはこの辺にして、原敬内閣の政治ストーリーを見ていきましょう。

 

 大正時代とは、デモクラシ―の時代です。デモクラシ―とは民主主義という意味ですが、吉野作造の提唱した民本主義など国民の声を政治に反映させることを強く訴えた時代です。もし、それに反する内閣や政治が行われた場合、民衆はデモや暴動を起こし、時の内閣を総辞職に追い込んでしまいます。

(民主主義と民本主義は違いますが、この記事では同義ととらえて構いません。)

 

 デモクラシーの典型例といえば、寺内正毅内閣が米騒動によって倒されたケースでしょう。これは大正初期の第三次桂太郎内閣が倒された大正政変に続き、2回目です。

 1918(大正7)年9月、寺内は国民からの激しい反発を受け、総辞職追い込まれました。こうした事態を受けて、元老で陸軍ボスである山県有朋は、ついに決断をします。

「もはや、軍閥や長州閥で政治を運営することは困難な時代になっている。ここは政党に政権を託すしかあるまい。」

 山県は国民の選挙によって選ばれた政党(民党)の中から首相や大臣を選ぶよう命じます。政権を任せるのは衆議院第一党(多数派)の立憲政友会です。山県は元政友会総裁の西園寺公望に首相になってくれるよう頼みましたが、西園寺は断りました。

「先日、山県殿は、ついに我々に政権を委ねてきた。ここは政友会の党首である原君に首相を頼みたい。」

 原は答えました。

「はい。お引き受けいたします。」

 こうして同年9月、原敬は第19代内閣総理大臣に就任し、内閣を組閣しました。

初の平民出身の総理大臣である原敬軍閥薩長藩閥による政治にあきあきしていた国民から大きな期待を受けました。

 

原は内閣の閣僚を陸軍大臣海軍大臣以外は全て立憲政友会の党員を起用。ここに本格的な政党内閣が誕生しました。

ここで1つ注意してほしいのは、原敬内閣は日本で初めての政党内閣ではないということです。初めての政党内閣は大隈重信内閣になります。

 

 それでは、原内閣成立後の最初の議会である第41回帝国議会(1918年12月~1919年3月)に向けて、提出する内政改革案を覗いてみることにしましょう。

原内閣は4つの内政大改革を示しました。

  1. 高等教育機関を中心とした教育の振興
  2. 交通・通信機関の整備
  3. 産業の奨励
  4. 国防の充実

 これらは特に原内閣による積極政策と呼ばれています。

 

 では、上記の内政改革4つの柱を1つづつ見ていきましょう。

 まず、1つ目は高等教育機関を中心とした教育の振興です。

 日本は明治時代以降、国民全員が平等に教育制度を受けられるとする「国民皆学」をスローガンとし、小学校の義務教育化の実現に注力してきました。そのために江戸時代の士農工商という強固な身分制度を撤廃し、四民平等になりました。

「どんなに貧乏な家に生まれても、一生懸命勉強すれば、高級官僚にだってなれる」

 江戸時代のような封建社会ではあり得なった立身出世への道が明治以降になって切り開かれたのです。その結果、国民の義務教育への就学率は順調に伸びて行き、明治の末年(1912年)には小学校の就学率はほぼ100%になりました。

 国民の教育への情熱は大正時代以降も冷めることはなりませんでした。大正時代になると、国民の中には、さらに高い教育を受けたいと思う人達が増えてきました。

「もっと専門的な勉強をしたい。」

「もっと勉強して、高級官僚として立身出世したい。」

 そう願う志の高い青年達が増えてきたのです。

 原首相はそんな国民の需要をしっかりと把握していました。

「現在の我が国には、帝国大学とよばれる5大学しかない。国民は高等教育を受け、立身出世をしたいと願う若者が増えている。高等教育への注力は早急な課題だ。」

 それまで日本には帝国大学と呼ばれる東京帝大、京都帝大、東北帝大、九州帝大、北海道帝大とよばれる5大学しかなく、現在のとは違い、大学生になれるのはほんの一握りの超優秀で家柄の良い学生だけでした。

 つまり、教育は平等に受けることが出来ても、官僚への立身出世は狭き門だったのです。

 原はその門戸を広げるために1918年12月に大学令を公布し、官立大学公立大学の設置を認める法的枠組みをつくりました。

 また、原首相はそれまで大学の名を冠していても専門学校としかみなされていなかった慶應義塾大学早稲田大学明治大学同志社大学などの大学昇格を積極的に認めていきました。

「これからの教育機関の在り方は、官僚主導はもちろん民間活力も利用した教育機関の充実も図るべきだ。」

 現在の有名私立大学はこのようにして大学としての体裁を整えていったのです。

 原首相のこうした高等教育機関を増設することで、より多くの若者が立身出世の道を歩めるようにしたのです。これは平民から首相にまで出世した原ならではの発想だと思います。

 

 次に、交通・通信機関の整備です。これらは積極政策の中心的な政策であり、原は鉄道の拡充を行います。

 なぜ、原は積極的に鉄道敷設に取り組んだのでしょうか。ここが原敬の政治手腕の見どころです。

 原敬内閣が成立して間もない1918(大正7)年はヨーロッパで4年半にも及んだ第一次世界大戦終結しました。

「今後、ヨーロッパ系の企業が中国や東南アジアに戻ってくる。そしたら粗悪な日本製のモノは売れなくなるだろう。」

 第一次世界大戦の大戦景気によって日本はその大戦景気を享受出来ました。しかし、戦争が終わったことで、日本の企業はヨーロッパ系企業との市場競争には勝てず、不景気が訪れるということをあらかじめ見抜いていたのです。

 原首相はこうした景気後退をカバーするべく鉄道敷設のような公共事業を行い、国内の景気安定を図ったのです。

 原内閣による鉄道敷設の特徴は都市部と農村を結ぶ鉄道を造ったことです。それまで交通や通信整備に関しては、この時代までに都市と都市を結ぶ幹線鉄道はすでに完成していました。しかし、その幹線鉄道から出る支線はまだ未整備でした。当時はまだ自動車が普及していませんから鉄道が内陸部の最も重要な輸送手段でした。都市部と農村を結ぶことで、新たな交通網と通信網が生まれ、日本国内の経済発展を促進することを狙ったのです。

 

 しかし、原内閣は経済に関しては干渉しないやり方でした。

 ここで3つ目の産業振興です。

 原首相は政府が不自然に経済に介入する処置は改めるべきと考えていました。原は言います。

「経済とは、あくまで自然の流れに任せ、自由競争により発展していくものだ。」

 原は政府の役目とは、大学や高等などの高等教育の充実や、この後のべる鉄道などの交通機関の敷設などの経済発展の基盤(インフラ)を整えることであり、経済活動そのものは民間活力にゆだねるべきものだとしました。西洋のアダム=スミスの主張とほぼ同じです。

 

 そして、原内閣は成立後、陸海軍(軍部)から軍備拡張計画のために軍事予算を割いて欲しいという要求を受けました。それは予想以上に膨大で、原は驚愕しました。

 ここで4つ目の国防の充実です。

 陸軍は新たに4個師団を増設し、25師団を完成させる、平時には25万人、戦時には100万人の兵力となることを理想としていました。海軍は戦艦8隻と巡洋艦8隻を基幹とする八八艦隊の完成を理想としていました。

 ここでもまた原敬の優れた政治手腕を見ることが出来ます。

「ヨーロッパの大戦争が終わった昨今、間もなく、世界規模の軍縮と国際協調路線が行われるであろう。そんな時代にここまで軍備拡大を要求するとは・・・。軍人とはなぜこんなにまで頭が固いのだろう。」

 第一次世界大戦終結し、今後は国際平和の時代が訪れることを原は見抜いていたのです。そんなタイミングで軍事力を増強しても、金と時間と労力の無駄になります。

 原はそんな時代錯誤の軍部に愛想を尽かしながらも、軍部と何とか協調して政治を行う方法を考えていました。だからこそ、原は軍備拡張も積極政策の中に盛り込んだのです。

 原にとって幸いだったのは、原内閣の陸軍大臣田中義一であったこと、また海軍大臣加藤友三郎だったことです。この2人は以前から原敬に大変協力的な大臣で、原内閣成立直後のシベリア撤兵に協力していました。

 原は田中と加藤の2人にこう言いました。

「田中殿、師団増設に関しては向こう8カ年の計画で充実させていこうと考えています。」

「加藤殿、八八艦隊の実現は陸軍に先行して行います。しかし、予算全体とのバランスが必要です。どうか今年度は見送り、来年度以降、予算案を考えていくようにしたい。」

 この提案に陸軍と海軍は合意しました。

 こうして陸海軍の軍備拡張計画を1919年度は見送り、1920年から随時拡張していく計画で妥結しました。

 原の予想通り、第一次世界大戦終結した1919(大正8)年は、パリで戦後処理の講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が調印され、国際連盟も発足しました。また、2年後の1921(大正10)年からはワシントンDCでワシントン会議が開かれ、世界規模で軍縮と国際協調路線の取り決めがなされました。

 このタイミングに合わせるように原は、その優れた交渉力によって見事、軍備拡張を先送りにすることが出来たのです。

 

 今回は、原敬内閣の積極政策と呼ばれる4つの内政改革について見てきましたが、原敬が歴史的な偉人として評価されているのは、初の本格的な政党内閣を組織したことだけでなく、国際情勢や時代の流れを読み取る先見性にあります。原は軍事力増強には極めて慎重で、坂本龍馬陸奥宗光のような外国と手を取り合い経済活動をしていく貿易立国としての日本の将来を思い描いていたのです。

 

 さぁ、原内閣成立最初の議会となる第41回帝国議会(1918年末~1919年3月)に提出する4つの内政改革が準備出来ました。次回は第41議会で新たに取り決めがされた内容について触れてみたいと思います。

 

 ということで、次回は「なぜ原敬普通選挙に反対したのか」というテーマのお話になります。どうぞ、お楽しみに。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

原敬 外交と政治の理想 下           伊藤之雄=著  講談社選書メチエ

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞