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【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく (後篇) 【桂太郎】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく(後篇)【桂太郎】」というお話です。

 

1912(明治45)年7月、明治天皇崩御し、大正天皇が新天皇として即位しました。年号も大正とになり、大正時代が始まりました。しかし、時の内閣であった第二次西園寺公望内閣は陸軍2個師団増設問題で陸軍と衝突。陸軍大臣の上原勇作は抗議の辞任をし、後任の陸軍大臣も陸軍のボスで元老の山県有朋が推薦しませんでした。

こうした陸軍のストライキによって西園寺内閣は行き詰まり、総辞職しました。

日露戦争後の10年間、桂太郎西園寺公望が連携し、交代で首相を務める桂園時代でした。しかし、明治の終わりと大正のはじまりとともにその時代も終わりを告げるのでした・・・。

 

1912年12月、総理大臣になった桂は、政友会総裁の西園寺のもとへ挨拶にむかいました。

「これからもよろしく頼みます。西園寺殿。」

西園寺は桂を見事なまでに突っぱねました。

「今後はそのような面倒をかけるつもりはない。」

日露戦争後の10年間、西園寺は桂と連携し、交代で首相を務め、日本の政治運営をしてきました(桂園時代)。しかし、その連携はとうとう出来ないと決断したのです。

西園寺が怒ったのは、まず、桂の内閣組織にありました。

桂は内務大臣に大浦兼武という者を選びました。巡査を長くやり、警察関係でずっと偉くなってきた人物です。しかし、この人事は、選挙で思い切って取り締まりをきつくするぞということを暗に意味していることは人目で分かりました。山県有朋の政権下で治安警察法が制定されましたが、これに則り、政友会や国民党などの民党の動きを封じようとしたのです。つまり、桂内閣は政友会に対して宣戦布告したことになります。外務大臣は、後に総理大臣にもなる加藤高明など、大体が外務官僚や大蔵官僚、内務省の官僚などの全て薩長藩閥による内閣がつくられました。

そうなったとき、西園寺とすれば、自分の内閣が、陸軍大臣が辞めて後任を推薦しないという事情で辞めざるを得なくなったのは、山県と桂、つまり陸軍閥長州閥が手を組んで自分達の内閣を倒したと思わざるを得ません。

その桂が新党をつくって、なおかつ選挙の取り締まりもびしびしやるぞ、という姿勢をとったのですから、政友会が怒るのは当たり前です。

 

西園寺率いる政友会は桂内閣に強く反発します。

「陸軍は陸軍増師を強行するつもりだ。」

こうした反桂勢力には、海軍も同調しました。海軍は陸軍のライバルであり、長州閥(陸軍)と薩摩閥(海軍)で派閥も違います。

桂に反発した斉藤実海軍大臣は留任を拒否しました。

桂は「これはまずい。」と感じます。

海軍大臣が辞任し、海軍がクーデターを起こし、後任が見つからなければ、第三次桂内閣も総辞職をせざるをえなくなります。

桂は、天皇詔勅を出してもらうよう頼みます。つまり、天皇の権限を用いて留任させ、組閣を乗り切ろうということです。

天皇はすぐに斉藤殿を呼び出します。

「斉藤殿、海軍大臣として今後も頑張って頂きたい。どうかここは留任を願う。」

海軍大臣が辞任してしまうと斉藤も天皇詔勅ということで聞かないわけにいきません。

桂は天皇の権限を利用して組閣を乗り切ったのです。こうした桂の強権政治は、野党である立憲政友会立憲国民党そして海軍からの猛攻撃を受けることになります・・・。

 

1912(大正1)年も12月19日になると、東京市歌舞伎座で2000人を超える聴衆を集めて、憲政擁護大会を憲政擁護運動(第一次護憲運動)とよばれる運動がおこりました。これは陸軍・海軍の軍閥薩長藩閥を打破しようとする閥族打破と、政府に世論尊重の憲法政治を守らせる運動のことですが、内閣を組織した長州閥で事実上、陸軍のボスである桂の内閣に対し、が展開されました。こうした「憲政擁護」、「閥族打破」をスローガンとした運動を第一次護憲運動と言います。

12月から始まった護憲運動は年末にかけて至るところで政府反対の演説会が開かれるようになりました。歌舞伎座はその時分、木造でしたが、広い劇場で、そこで参加者が弁当を食べ、2合瓶を呑み、勢いがよくなったところで政治家が壇上に上がって政府弾劾の演説をやります。すると、聴衆はワーっと盛り上がりました。それは東京だけでなく、全国の各都市でみんなやっていました。日本中を回って演説するような政治家もたくさんいました。

 

さらに、多くの新聞や雑誌も非常に厳しい言葉で桂の強権政治を批判します。政友会に味方したのは、1つは新聞です。新聞がみんな桂内閣を攻撃します。桂内閣もこれはやばいと思うようになります。

 

この当時も現在と同じような議会のスケジュールで、12月末に議会が招集され、正月を挟み、翌1913(大正2)年1月20日ごろに審議が始まりました。

しかし、こんな情勢で桂太郎内閣もさすがに危険だと思ったのでしょう。1月20日にいきなり、予算書の印刷が間に合わないからという理由で、15日間議会を停会にする、そして2月5日ごろに議会を開く、ということになりました。延命措置であり、その間になんとか内閣不信任案を取り下げさようとする狙いがありました。

 

その日のうちに桂は新政党を組織する計画を発表しました。桂首相は記者会見を開き、こう宣言しました。

「世論がそんなに政党内閣が良いというなら、私が過半数を超える新党を組織してみせる。」

桂は衆議院を牛耳る第一党の立憲政友会と、第二党の立憲国民党に対し、入党者を求めてその切り崩しにかかったのです。

政友会の党首は西園寺ですから、桂は立憲国民党に呼びかけます。立憲国民党は、かつて大隈重信によって組織された立憲改進党の系譜を引く政党です。桂の策略によって、反桂の犬養毅のグループ以外の多くが、桂になびいてしまいました。実は立憲国民党にも、犬養を良く思っていない連中が多く、彼らはライバルである立憲政友会に対抗するために桂の新政党に入ることを決めてしまったのです。その数は立憲国民党の約半数にも及び、国民党は大きな打撃を受けました。犬養は一時、混乱と国民党の前途を悲観するようになりました。

「このままでは、我が党は本当に桂に切り崩されてしまう。場合によっては、政友会と国民党の合同も考えてほしい」

この犬養の提案に政友会の原敬は「それは出来ない。いや、それで問題が解決されるわけではない。」と断りました。

しかし、桂が呼びかけた新政党への参加者は最終的に4分の1にも達しませんでした。これにより桂は窮地に追い込まれました。

 

そして迎えた1913(大正2)年2月5日、議会が開かれると、いきなり野党は内閣不信任案を提出しました。野党とは、立憲政友会と、立憲国民党のことです。国民党は当時90人くらいの代義士のいる政党でしたが、先述の通り、その中が2つの勢力にわれていました。一方は反桂の犬養毅を中心としたグループであり、もう一方は、桂に引き抜きがかかって、桂になびいた連中でした。桂の方に行かなかったのは国民党では犬養グループ、それから原敬や松田を中心とした政友会でした。

この内閣を信任しない理由は以下の4つでした。

  1. 桂太郎が宮中と府中を混同して、両方の別をわきまえないので、けしからんということ。
  2. 帝国議会に基礎を置かない超然内閣を組閣したこと
  3. みだりに詔勅を泰請したこと。
  4. 官僚権力を濫用して政党の組織化に着手したことで

 

桂がまず指摘を受けた「宮中と府中の別」を無視したとは、具体的にどういうことなのでしょうか。いうことです。「宮中」とは、「宮城の中」という意味ですが、宮内省内大臣府のことで、これは天皇の側近として皇室関係を取り仕切る機構です。内大臣という役職がありますが、これは天皇の側にいる常時輔弼(じょうじほひつ)の役で、天皇に仕える最高の相談役です。

一方、府中とは、政府のことで、行政府の内閣のことです。当時、宮中と府中は別ものとされおり、それが口やかまかましく言われていました。

桂が首相になったということは、内閣に戻ってきたということです。しかし、桂は内大臣侍従長なので、政府とは関係ない。桂が外国から帰ってきて内大臣侍従長として宮中に入ったので、政府とは関係ない。ところが、また首相になって戻ってくる。そんな宮中と府中を行ったり来たりする自由は許されないと批判されたのです。

2つ目の超然内閣です。「超然」とは、「細かいことにはこだわらない」という意見ですが、選挙によって国民の声がどう議会に反映されても、超然として政治を行うという意味です、政党とすればこうした内閣は当然反対です。

3つ目は、山県や桂は、天皇の名前で何かを命ずるということになると、誰も反対出来ません。この当時の大日本帝国憲法下では、天皇は神ですから、山県や桂のような軍閥藩閥勢力は天皇勅語詔勅を出してもらうことが得意で、それをしょっちゅうやりました。天皇を道具のようにするのはけしからんということでした。

4つ目は、新政党をつくるときに政府の官吏権力でもって誘いをかけた点です。内務大臣の大浦兼武という人物はそれをやるのが非常に上手でした。

 

野党は以上4つの理由でこの内閣を不信任としました。すると、これは危ないということで、桂内閣は、またしても天皇から詔勅をもらい、5日間の議会の停会としました。

 

不信任を突きつけられ、どうにもならなくなった桂はその悩みを天皇に打ち明けました。

すると、大正天皇は政友会総裁である西園寺を呼び出しました。

「西園寺殿、貴殿の党が出している不信任案を取り下げるようしていただきたい。」

西園寺はひざまずいて答えました。

「大変恐れ入りました。お引き受けいたします。」

桂は、またしても天皇詔勅で西園寺を取り押さえようとしたのです。

 

約束の議会が始まる前日、西園寺は政友会に帰り、原敬や松田に不信任案を取り下げるよう言いました。

天皇のご命令だ。申し訳ないが・・・。」

しかし、原と松田は言います。

「不信任案が明日にも採決されるというところでそういうことを言われても・・・。天皇の総裁はお言葉を守らなければなりますまいが、我々とすればそこまでは聞けません。」として、不信任案を通す方向に行ってしまった。

西園寺は天皇のご命令に背いてしまいました。西園寺は淡々としていて、政権にあまり執着していません。なので、

一方、桂の方は、西園寺を取って抑えたとばかり思い込み、もう不信任案は通らないだろうと思っていました。

 

すると、今度は国民が怒った。

現在では国会というと、国会議事堂と言いますが、当時は帝国議会議事堂と呼んでいました。その帝国議会議事堂の周りは群衆に取り囲まれて、今にも国会に群衆がなだれ込むような勢いを示しました。馬に乗った騎馬巡査がそれを抑えに回っているという状態です。

 

この日は国民の怒りが最高潮に達した日でもありました。反桂を掲げ、日比谷公園に集まった数千人の群衆は、銀座方面に向かい、政府を支持する新聞社に火をつけてまわったのです。国民新聞、やまと新聞、ニ六新聞というような新聞社はみんな被害にあったようです。国民新聞とは、ジャーナリストの徳富蘇峰が経営していた新聞社です。

政府は鎮圧のために軍隊を出動させるも、死傷者は数十人に上りました。この暴動は関西にまで飛び火します。

 

そして2月10日になり、いよいよ議会が開かれますと、野党の方が一番先に不信任案を提出した。それに対して首相、あるいは外務大臣加藤高明が演説をぶったところで、野党の闘士が立ちあがって演説をぶつ。その中で一番有名になったのは、立憲政友会尾崎行雄立憲国民党の中心人物である犬養毅という人物です。

特に尾崎行雄は演説が上手いということで、大変有名で、非常に派手な言葉を使い大演説をぶちました。

「彼は常に言葉を開けば忠君愛国を唱え、忠君愛国は己の専売特許のごとく言っているが、そのなすところ、玉座を以て胸壁となし詔勅をもって弾丸となした。そしてその政敵を倒さんとするものである。」

玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸となし」というのは非常に有名な言葉になりました。

つまり、桂内閣は、天皇の権威を利用した強権政治であると非難しているのです。

犬養も演説が上手いといわれていますが、犬養の方は、どちらかというと低くおさえて、しぶい声で説くのですが、尾崎はかなり派手でした。尾崎と犬養は後に「憲政の二神」と呼ばれるようになります。

こうした中、さらに桂は海軍からも呑まれるようになります。

この時、山本五兵衛は海軍大将で、日露戦争のときの海軍大臣をやって、また以前からずっと海軍では実力ナンバーワン、薩摩出身の政治家としてもナンバーワンです。

山本は朝、首相官邸に乗り込み、桂に会ってこう言いました。

「桂君、キミのしていることは、時代の動きを読み間違えた方法だ。これ以上の政権運営は出来ないだろう。」

「私は何を間違えていたというのだ。」

「やめたまえ。それ以上口を開くのは見苦しいというものだ。ここは黙って身を引け。」

「お前までそんなことを言うなんて・・・。ふん、そんなに言うなら辞めてやるよ。」

桂と山本は昔から仲間でした。しかし、陸軍(長州閥)と海軍(薩摩閥)の違いということで、

山本は桂に辞める意向を示したということを政友会の西園寺に直接話しに行った。桂は山本に呑まれて、辞めざるを得ない立場になったのです。

 

そして2月も半ばになると、群衆のデモはさらにヒートアップしました。議事堂のまわりには、またしても桂に反発する群衆が押し寄せるという異常事態になりました。

「桂よ、今すぐ総辞職せよ!」

衆議院議員議長の大岡育造はこうした事態を収拾するには内閣の総辞職しかないと悟ります。

「このままでは群衆が議事堂内に乱入し、もし警察隊と衝突することになれば、激昂した民衆が暴動を起こし、日本は内乱状態になるでしょう。桂殿、ここは職を引いて頂きたいと申し上げます。」

「わかった・・・。」

こうして桂は組閣からわずか50日余りで瓦解しました。

これを正政変と言います。この第三次桂太郎内閣は成立後、わずか2カ月という期間で倒れてしまいました。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

原敬 外交と政治の理想             伊藤之雄=著 講談社選書メチエ

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版