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【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく (前編) 【西園寺公望】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく(前編)【西園寺公望】」というお話です。

 

 

明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位。年号は明治から大正になりました。日露戦争によって借金を抱えた西園寺内閣は陸軍の師団増設提案を拒否しました。しかし、陸軍大臣上原勇作は抗議の辞任をします。陸軍の協力を得られなくなった西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。西園寺の後を引き継いだのは、三度目の総理大臣となる桂太郎。これが大正政変のプロローグとなります。

 

明治時代は45年続きました。

日露戦争後、東アジアの強国となった日本は、1907(明治40)年に帝国国防の方針を固め、陸軍は現有の17個師団を25個師団に増師し、海軍は戦艦・巡洋艦を各8隻づつ建造する八・八艦隊(はちはちかんたい)を実現するという軍備拡張の長期目標を設定していました。

明治最後の年となる1912(明治45)年、政権を運営していたのは、2回目の総理大臣となった西園寺公望です。西園寺の政権下で明治天皇崩御されます。

明治天皇日露戦争が始まる前ぐらいから糖尿病の傾向がありました。糖尿病とは尿の中に糖分が出てくる病気で、自覚症状のない非常に恐ろしい病気です。当時、糖尿病の原因はよくわかっていませんでした。侍医が「お米を食べすぎないように」とか「砂糖をなめてはいけない」などいろいろ申していましたが、明治天皇は、一向にお聞きになりません。

 

明治天皇は非常にお酒に強い人だったようです。ディナーの時は話をしながらぐいぐい召しあがっておられた。しかも、テーブルの上のお酒が空になってしまうまでは絶対に引っ込まないというような大酒家だったようです。

おそらくこれが原因でしょう。

明治天皇の糖尿は、だんだん酷くなっていきました。

しかし、勤勉実直な明治天皇は毎日の政務を怠りませんでした。

1912(明治45)年は明治天皇がなくなる年で、明治最後の年となります。

明治天皇は毎年行われる陸軍の大演習をご覧になります。陸軍の大演習とは2つほどの師団を動員し、両方が模擬戦闘を行うというものです。明治天皇は不自由を忍んで出席してくださったのです。

同年7月19日、明治天皇は夕食の後、床にたおられ、そのまま昏睡状態に入ってしまいました。東大医学部の教授が御視察をして、 尿毒症であることが判明。しかしその症状はかなり進行しており、とうとう目を覚ますことはありませんでした。

そして7月30日、明治天皇は閣僚に見守られながら、最後、心臓麻痺で亡くなられました。

こうして45年間に及んだ明治時代が終わりを告げました。

そして大正天皇が新たに即位。年号も大正となり、大正時代が始まります。

 

さぁ、これから大正時代を取り扱っていきますが、皆さんは、大正時代といえばどのようなイメージがありますか。大正時代の最大のキーワードは「大正デモクラシー」と言えるでしょう。

「デモクラシー」とは日本語でいうと、「民主主義」という意味ですが、大正時代は「民主政治」が強く叫ばれた時代です。「民主政治」とは、国民が主体となって政治を行うことで、国民の声を政治に反映させることを強く求めたのです。(世論尊重の憲法政治)

それを実現するために提唱されたのが政党内閣論です。これは、選挙によって選ばれた国民の代表者によって内閣を組織し、国民に代わって政治を運営してもらうべきだとする説です。

ただ、注意してほしいのは、この当時の大日本帝国憲法下では、国民主権ではなく天皇主権です。すなわち、天皇の命令は絶対であり、天皇はいわば神のような存在だったのです。しかし、これでは民主政治とはいえません。そこで提唱されたのが天皇機関説です。これは、

 

こうした民主政治の実現のために提唱された2つの説があります。政党内閣論と天皇機関説です。

こうした説が提唱されたことにより、民衆は憲政擁護と閥族打破をスローガンにデモを起こすようになります。大正政変とは、そうした「デモクラシー」によって内閣が倒された最初の事例と言えるでしょう。さらに、後の寺内正毅内閣の時に起きた米騒動も、そのひとつと言えるでしょう。

 

さぁ、そんな大正という新時代、早速政府内では揉め事が起きていました。

先述のとおり、明治時代に政府は軍備拡張を長期目標としていました。しかし、日露戦争において、日本はアメリカやイギリスの富豪から外債を購入してもらったため、莫大な借金を抱えてしまいました。しかも、ロシアから戦後の賠償金を獲得することが出来ず、返済の充てがない状態になるという最悪な事態です。

これによって、政府は緊縮財政を余儀なくされ、軍備拡張計画は中々進みませんでした。これが明治終盤から大正に入るまでの政府の軍事政策です。

 

当時、政権を運営していたのは、先述の通り、第二次西園寺公望内閣です。

そんな中、陸軍大臣の上原勇作は陸軍2個師団の増設を西園寺内閣に提案してきました。

「清国(中国)では現在、辛亥革命が起きています。警戒は怠れません。朝鮮に軍隊を送りたいので、どうか予算を増やして頂きたい。」

今の上原の言葉通り、この当時、清では辛亥革命が起き、清王朝が倒されます。そして中華民国が新たに発足され、中国の近代化を目指す孫文三民主義を掲げて臨時大総統になりました。しかし、旧勢力である袁世凱が欧米列強と手を組み、孫文を追い落とし、孫文は台湾に亡命します。しかし、袁世凱には中国全体を統治する能力がなく、中国は事実上、分裂状態となってしまいました。

こうした国際情勢に対し、陸軍は師団増設を要求してきたのです。

 

当時の1個師団は1万2千人規模です。人件費だけでもかなりの出費になります。さらに火器などの装備品も含めれば膨大な出費になることは容易に想像出来ます。

西園寺首相は当然これを拒否します。

「現状の財政状況で陸軍は、朝鮮への2個師団増設を求めてきた。正気とは思えない。このまま破滅の道をたどるのか?とても乗れない相談だ。」

公家出身で、冷静沈着な西園寺は、日本が軍事力増強にばかり傾倒している状況に危機感を持っていました。

西園寺は政友会の中心人物で、のちに本格的な政党内閣を組織する原敬に尋ねました。

「原君は陸軍の主張をどう思う。」

原は非常に冷静な受け答えをしました。

「列強と強調外交が成立している現時点では、清王朝が解体したといっても、大陸に軍事力を拡大する必要はないのでは。むしろ安易に大陸に兵を送ると、却って列強の警戒心を強めてしまうのではないでしょうか。」

西園寺は「なるほど」と言って納得しました。

 

しかし、西園寺の却下を受けた上原は2日後、西園寺内閣に抗議するように陸軍大臣を辞任しました。

 

困った西園寺は元老で陸軍閥のボスである山県有朋に後任の陸軍大臣を推薦してもらうよう要請しました。当時は、軍部大臣現役武官制に基づき、現役の軍人以外は陸海軍大臣になれません。山県のような元老が適任となる人物を推薦することで、大臣が決まるのです。

元老とは、明治維新の功労者で年をとった政治家達で天皇を別にすれば、当時の政治体制の最高権力者の集まりで、天皇に代わって国の重大な決断を行う人達です。

 

しかし、元老・山県も上原の意見を支持しました。師団増設における妥協案を提示しました。

「西園寺殿、1年間の期限付きでも良い。せめて1師団だけでも増設してくれるか。」

西園寺はため息をつきました。

「陸軍のボスである山県殿までそんなことを・・・。呆れた。話にならない。」

これを機に陸軍と西園寺内閣の対立を深まりました。

 

陸軍は西園寺内閣に対し、嫌がらせをします。

なんと、陸軍は上原の後任としての陸軍大臣を推薦しないという抵抗をしたのです。

このまま陸軍大臣が現れなければ、西園寺内閣は総辞職しなければなりません。

結局、陸軍の協力を得られなかった第二次西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。

いや、むしろ西園寺が自ら政権を投げ出したといっても良いでしょう。

「私はもう総理を引き受けない。まったく陸軍には失望したよ。」

 

西園寺が辞めたことで、次の総理大臣は誰にするかという話になりました。

当時の首相は、今のように国会議員により選ばれるのではありません。元老が推挙した者に天皇から直々に大命が下されるカタチで組閣が始まる仕組みです。山県有朋松方正義大山巌井上馨などの元老は会議を開き、総理大臣を選ぶことになりました。

最初、松方にやってくれないかという話になりました。

「私はもう70歳の老いぼれだ。さすがに引き受けることは出来ない。」

次に、海軍大臣山本権兵衛に話がいきました。

「う~ん・・・私はまだ総理を引き受けられる器ではありません。」

(山本は後に総理大臣になります。)

 

結局、総理になる者が現れない。

しびれをきらした山県はこう言いました。

「こうなっては仕方がない。私なぞはもう年寄りで、時代遅れの部分があるが、私でよければやりますぞ。そうでなければ、我が長州直系の部下である桂太郎をもう一度引っ張りだします。」

同郷で大先輩である山県の提案に対し、桂は言います。

「先輩にご迷惑をかけるわけにはいきません。次の総理は私が引き受けます。」

桂は3度目となる総理大臣を引き受けました。こうして第二次西園寺内閣が潰れ、第三次桂内閣が誕生したのでした。

これが大正政変のプロローグとなります。

 

 

次の総理大臣を誰にするかということで、元老を中心に話し合いをしましたが、中々決まりません。仕方なく、山県が責任をとるカタチで内閣を組織しようとしたところ、山県の直属の弟子である桂太郎が救いの手を差し伸べました。

桂は総理大臣を引き受けた際、山県と話合いをしました。

「これからは衆議院の巨大勢力である政友会と上手くやっていかないとならない。2割~3割は譲らないと政治を上手く回していくことはできないぞ。」

桂は大変不利な状況で総理大臣になったといえます。というのも、この時の帝国議会は、貴族院衆議院があり、衆議院とは、選挙によって臣民(民衆)から選ばれた議員で構成されています。貴族院とは、1つは華族達、もう1つは昔からの古い役人や薩長藩閥の勅撰議員で構成されています。

桂は長州出身であり、薩長藩閥の貴族院の中心人物ですが、一方の衆議院には1番大きい政党として立憲政友会があります。しかも、この政友会の総裁はあの西園寺公望です。

衆議院を握っているのは政友会ですから、政友会が納得しないと予算も通らない、法律もつくれない。ですから、西園寺とは仲良くやっていかなくてはなりません。

「ならば、私も政党をつくりたい」

「桂よ。それは秘密にしないといけませんぞ。」

しかし、衆議院を牛耳っているのは立憲政友会立憲国民党です。この衆議院を何とかしないと予算も通らなければ、

かつて伊藤博文立憲政友会をつくったように桂も、衆議院に自らを支える新政党をつくりたいと願っていました。

桂も自らを支えてくれる政党をつくりたいと願うようになり、

 

 

 

今回内閣を投げ出した西園寺ですが、国民の間での人気は高いものでした。陸軍の要求を突っぱね、師団を増やすことを抑えたからです。

時代は確実に変わりつつありました。

日露戦争開戦時では、あれほど「強力な軍事国家」を支持していた国民は、日露戦争後の生活苦や治安悪化など社会問題を受け、今後はむしろ柔和なで平和な国家を求めるようになっていたのです。

大正時代とは、むやみに軍備ばかり増強してはいけない。もっと人々の生活環境の改善や平和な世の中をつくりたいと思う気運が高まった時代でもありました。こうした国際協調路線の気運が、後に総理大臣となる原敬の政策にも反映されていきます。

さぁ、第三次桂太郎内閣はどのように政権運営をしていくのでしょうか。後編に続きます。

 

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む 山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社