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【主婦が抗議!】米騒動はなぜ起きたのか【寺内正毅】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださって、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【主婦が抗議】米騒動はなぜ起きたのか【寺内正毅】」というお話です。

今回もストーリーを展開しながら、「米騒動はなぜ起きたのか」について見ていきたいと思います。

産業革命の影響で米の生産量の減少、米の消費量の増加、さらにヒエや麦からお米を食べたいと思う人達も増えてきました。第一次世界大戦も重なり、米の値段はにわかに上昇していきました・・・・。そんな中、日本はシベリア出兵を開始。さらなる米価高騰を見込んだ米商店は米を買い占め、売り渋るという事態が発生。米が買えなくなったことに不満を持ち、立ち上がったのは、富山県の主婦達でした。米騒動シベリア出兵によって引き起こされたのです。

 

 1918(大正7)年、この年の春先から米の値段はにわかに上がり始めていました。

 なぜでしょう。

 それは農業に従事している人達の割合が減り、工業に従事する人達の割合が増えてきたため、米を生産する農家が減ったのです。

 明治30年代以降、日本にも産業革命が起こり、資本主義社会が急速に発展していきました。今まで手で作っていたモノを機械で作るようになり、大量生産が可能になりました。大量生産は、安価な商品・サービスを可能にし、大量消費社会を実現しました。

 その結果、都市部を中心に人口が増加していきました。

 さらに今までヒエや麦を食べる生活をしていた層がお米を食べたいと思うようになり、米の消費量が増えました。

 そして1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発。イギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国軍と、ドイツ、オーストリアオスマン帝国(トルコ)を中心とした同盟国軍が対立しました。日本は連合国側として参戦しました。人類史上類を見ないこの大戦争の影響でヨーロッパは混乱状態に入り、次第にヨーロッパからの米の輸入が途絶えてしまいました。

 

 このように農業から離れる人が増えたことによる米の生産量の減少、さらに米の消費量が増えたこと。そしてヨーロッパの先進諸国からの米の輸入が減ったことが重なり、米価の価格は高騰したのです。

 

 1918(大正7)年の秋には米が凶作になるのではないかという予測もされたため、米の取引所では米の価格がどんどん上がり始めました。

 1月は1石15円だった米価が6月には20円、7月には30円と、半年のあいだに2倍になるという凄まじい値上がりが発生してしまいました。当時の一般的な社会人の月収が18~25円だったので、これはとてつもない高騰ぶりです。(10升が1斗。10斗が1石)

 

 一方で、労働者の収入はあがりませんでした。当時は労働組合も未成熟であまりない時代ですから労働者の賃金は低く抑えられていました。そんな資本主義社会に不満を持ち、社会主義を提唱する人達が現れるなど労働問題も起きていました。

 第一次世界大戦は日本に大戦景気という大きな恩恵をもたらしました。しかし、その恩恵を享受していたのは資本家であり、労働者ではありません。

 今までは物価が安定していたため、賃金が一定でも困らなかった。

 しかし、米の値段は上がる一方なのに、所得は上がらない。

 家計はどんどん圧迫されていきます。

 

 そして、1918(大正7)年8月2日、日本は猛暑日でした。

 この日は第一次世界大戦の連合国側のイギリスやフランスからの要請を受けて、時の首相・寺内正毅シベリア出兵を決定した日です。実は戦争の当事国で、連合国側として共に闘っていたロシアで革命が起きたのです。

 レーニンを指導者とした革命軍(赤軍)と、旧ロシア帝政の将軍率いる反革命軍(白軍)が対立し、内戦が勃発しました。ロシアで赤軍に捕虜になっているチェコスロバキア軍を救出するという名目で日本はシベリアに軍隊を派遣したのです。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 その翌日、思いがけない事件が富山県で起きてしまいました。

 現在は富山市に含まれる西水橋町で、約200人の女性達(主婦達)が富山湾の浜辺に集まり、集会を開いたのです。夜になると、町の米屋や米を保有している資産家の家などに押しかけて強く訴えました。

「米を売りなさいよ」

「もっと安く売りなさいよ」

「米をよそに運び出すのはやめて。」

 彼女達は嘆願し、座り込みをやりました。

 彼女達は艀(はしけ)で働いており、沖合に停泊していた船に野菜や米を運び、逆に北海道などからくる魚や昆布を浜辺に陸揚げしていました。出稼ぎで漁にでかけたものの、不漁に泣く夫に代わり、主婦達は一家の生計を支えていたのです。その彼女達が米価高騰に対する不満から遂に抗議したのです。

 シベリア出兵に伴い、軍隊への米が必要になり、ますます米は足りなくなります。すると、米価はさらに上昇していくでしょう。それを見越した米商人は米の買い占め、さらに売り渋りを始めました。このまま売らずに置いておけば、さらに米価が高騰し、大儲け出来るだろうと考えたのです。

 しかも鉄道の開通により、艀の仕事が激減するという地方独自の問題も発生しており、怒りが一気に爆発したのです。

 東京からみればいわゆる「地方のささやかな抵抗」ですが、この時代には珍しい女性達の直接行動とあって各新聞社は大々的に取り上げました。

「女房連が米価冒頭に大運動」(東京朝日新聞

 

 この時代はただでさえ、労働運動やストライキ社会主義の提唱などが多発する物情騒然とした時代です。まして米という食に対する切実な要望なだけに全国的な騒動に発展していきました。これが米騒動です。

 6日には隣の骨川町(現・骨川市)、8日は高松市岡山市へ飛び火し、9日は大阪で若者が米屋を襲撃するなど関西一円に広がりました。

 当時の都会の裏長屋などに住んでいる人達は、真夏の暑い時期ですから、都会の裏長屋に住んでいる人達は、家の中にいると暑くてたまらない。外に出てぶらぶらしている方が涼しいです。なので、みんな夕涼みと称して、外に出ていました

 そんな中、「あそこの米屋に押しかけろ」と誰かが音頭をとると、みんながわっと米屋に押しかけていくのです。

 最大の騒ぎになったのは12日の神戸市でした。完全に暴徒化した約250人が、神戸港に近い貿易商社「鈴木商店」本社に火をつけ、襲い、放火して全焼させてしまいました。鈴木商店は米屋ではありません。第一次世界大戦の最中、ヨーロッパで鉄などを買い占め、造船会社に高く売り、さらに、そこで造られた船をヨーロッパに高く売るなどして大きな利益を得ていました。

 こうなると米騒動というより格差拡大に対する庶民の怒りの爆発です。

 

 結局、全国の数百の町で騒ぎが起こり、暴動の広がりをおそれた寺内正毅内閣は軍や警察を動員して鎮圧にあたり全国で約2万5千人を検挙しました。さらに新聞の米騒動の報道禁止、外国産米を市場に放出するなどし、対応しました。

「一体誰がこんな騒ぎを計画しているのだ。指導者は誰だ。絶対黒幕を暴きだしてやる。」

 怒り狂う寺内に対し、元老の西園寺公望は言いました。

「落ち付きたまえ、寺内殿。これは計画的なものではない。米価が上がり、所得が低く、生活に苦しむ全国民共通の感情表現だ。」

 全国的に起きたこの米騒動を警察や軍隊で鎮圧するという強権的にしか事態収拾出来ない寺内内閣に対し、政党や世論の批判が強まりました。 

「どうも軍人政治家は暴力的で支配的な方法でしか事態を収拾出来ない。もう軍部の政治はうんざりだ。もっと庶民(平民)視点の政治が出来る人が欲しいものだ。」

 

 前年にはロシア革命が起きたばかりで、対外危機に立たされている寺内内閣は民衆から猛烈な非難を浴びました。これ受けて、元老で当時最高責任者であった山県有朋は寺内に責任をとって総辞職するよういいました。

 寺内内閣は、当時最高権力者である山県有朋と同じ長州藩山口県)の出身で、山県の直系の部下であり、立憲政友会と組んだその前の山本権兵衛と違い、政党とは距離を置く「超然内閣」でした。山県は政党嫌いで、寺内はそんな山県の意に沿う政権を行ってきました。にも関わらず、山県は寺内を突っぱねたのです。

 

 1918(大正7)年9月4日、寺内は正式に首相を辞任。寺内内閣は総辞職しました。

 山県は、次の首相を誰にするかと考えます。

「民衆の反発を抑えるためには、平民出身の原を総理大臣として担ぎあげるしかない」

 さあ、いよいよ平民宰相と呼ばれ、国民が歓迎する原敬が日本史に登場してきます。

こうご期待。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著  草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞