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【第一次世界大戦】日本が参戦した真の目的とは【加藤高明】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【第一次世界大戦】日本が参戦した真の目的とは【加藤高明】」というお話です。

第一次世界大戦は言ってみれば、「ヨーロッパの揉め事」であり、日本ははっきり言って関係ありません。なのになぜ、日本は第一次世界大戦に参戦したのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら、「日本が第一次世界大戦に参戦した真の目的」を見ていきたいと思います。

日本は中国におけるドイツの権益を獲得するために第一次世界大戦に参戦しました。しかし、日本の参戦理由はもうひとつあります。ドイツやロシアから譲渡された中国領を引き継ぐのではなく、改めて日本に譲渡させるよう中国政府に圧力をかけるためです。こうして日本は中国に二十一ヶ条の要求押し付けました。

 

 第三次桂内閣がわずか50日で総辞職に追い込まれた大正政変や、山本権兵衛が総辞職に追い込まれるきっかけとなったジーメンス事件によって国民からの信頼を大幅に失った政府は、その信頼を取り戻すために引退していたものの、国民から人気の高かった老政治家を引っ張り出しました。

 その老政治家とは大隈重信です。こうして1914(大正3)年4月、第二次大隈内閣が誕生しました。大隈は2回目の首相になりました。

 大隈の首相就任からわずか3カ月後、ヨーロッパのバルカン半島サラエヴォオーストリア皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺される事件が起きました。

 間もなくオーストリアセルビアに宣戦布告。さらにオーストリアの盟友国であるドイツが軍事的支援をしました。一方のセルビアには後ろ楯であったロシアが支援をするカタチになりました。

 この対立はやがてビリヤードの玉が次々にぶつかりながらあちこちに転がるようにしてヨーロッパ全土に広がっていきました。第一次世界大戦の勃発です。

 

 間もなく、イギリスは日本に軍事的支援を要請。最初のきっかけはイギリスのグリーン駐在大使が戦争勃発直後の1914年(大正3)年8月7日に日本政府に電報を打ったことです。

「膠州湾を根拠地(基地)とするドイツ海軍の艦艇が中国近海やその周辺でイギリスの商船を襲撃してきたら困る、ついては、日本海軍の力で何とかしてもらいたい」。

 大隈内閣の決断は早かった。臨時閣議が開かれ、翌8日未明に「参戦」を決めました。

 日本はなぜ第一次世界大戦に参戦したのでしょうか。

 一般的に、日本は日英同盟に基づいて第一次世界大戦に参戦したとされています。しかし日英同盟によると、規定範囲はインドから東が対象で、今回はヨーロッパでの戦争は関係がなく、同盟上、日本に参戦義務はありません。また、グリーンの要請もあくまで局地的な「海軍力行使の依頼」に過ぎず、日本の参戦を申し入れたものではありませんでした。

 しかし、日本はイギリスと締結している日英同盟を拡大解釈し、「イギリスに軍事的な支援をするため」という口実のもと、第一次世界大戦に参戦します。

 日本はドイツの中国における権益を獲得するために参戦しました。

 第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツは中華民国(中国)山東半島およびその付け根の内陸部から成る膠州(こうしゅう)湾の青島(ちんたお)軍港や、南太平洋に浮かぶ島々(現在のサイパン島パラオ諸島など)を植民地としていました。

 元老・井上馨は ヨーロッパの列強諸国はこの未曾有の激戦のため、東アジアに関心を向ける余裕がなくなっていた状況を見て、中国におけるドイツの拠点を日本の手中に収めることを画策しました。

「これを機に我が国の中国進出を果たすのじゃ。この戦争はチャンスだ。大正新時代における天の恵みじゃ。」

中華民国・・第一次世界大戦の数年前に、300年近く続いた清朝が倒れ、新しく中華民国が建国されました。)

 

 こうした思惑から大隈重信内閣は、加藤高明外務大臣の主導で、日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦しました。日本は参戦という大義名分のもと、大正政変以来、懸念されていた2個師団増設と海軍拡張に踏み切ります。

 

 こうした日本の積極的な姿勢を知ったイギリスのグレイ外相は驚きます。

「おいおい。ちょっと待て。日本にはそこまで要求していないぞ。」

 この戦争で、日本が我が国に借りを作れば、今後イギリスに何かあるたびに日本がしゃしゃりでてくるかもしれない。

 イギリスは勢いを増す日本を警戒します。日本がこのまま そうなれば東アジアだけでなく、南太平洋のイギリス領であるオーストラリアやニュージーランドも横取りされるかも知れない。

 イギリスは日本の参戦を拒否します。さらに最初のグリーン駐日大使の要請も取り消すと言い始めました。しかし、加藤しくこく食い下がります。

「日本軍の行動範囲は山東半島や膠州湾周辺に限る。間違ってもイギリス領には派兵しない。」

 これを条件に日本はドイツに宣戦布告。日本はイギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国側で正式に第一次世界大戦に参戦しました。

 

 日本軍が行ったのは、まず日本海軍は膠州湾に艦隊を停泊。あっとういう間に制圧してしまいました。

  

 9月2日には日本陸軍はドイツが中国大陸の本拠地としていた山東半島に上陸。十月には青島(ちんたお)を完全に占領。翌11月、ドイツは日本に降伏しました。

同時に日本海軍も赤道以北のドイツ領南諸島サイパン島やの一部を制圧しました。

 

ドイツは本国やヨーロッパ周辺での戦争に手を焼き、東アジアに十分な兵力を送ることが出来なかったのです。

 

 日本が第一次世界大戦に参戦した目的は実はもう一つありました。

 ドイツ権益の獲得とは異なるものでした。日本が中国に持つ諸々の権益を改めて日本に譲渡するよう中国政府に圧力をかけることでした。つまり、かつてドイツが清国(中国)に結んだ租借権を日本が引き継ぐのではなく、改めて日本は中華民国(中国)に租借権を結ばせ、長期にわたる領土の租借権を獲得しようとしたのです。

 

 日本が列強から譲り受けた租借権は今回のドイツだけではありません。

 かつて日本は日露戦争でロシアに勝利し、旅順と大連を含む遼東半島(りょうとうはんとう)の権益をロシアから譲り受けました。これも同様にロシアが清国(中国)と結んだ「1898年から25年間」という租借の期限は引き続き有効とされるため、1914年から9年後の1923年には日本の租借権は失効され、中華民国(中国)に返還しなくてはいけません。

 第一次世界大戦によってヨーロッパの支配が弱まったことを利用した日本はこれらの権益について古い条約をいったんリセットし、十分な有効期限を持つ新しい条約に切り替えたのです。

 

 対戦はヨーロッパを主戦場とする未曾有の激戦であったため、ヨーロッパの列強諸国は東アジアに関心を向ける余裕を失っていました。それをいいことに大隈重信加藤高明外務大臣が中心となって中華民国袁世凱政府に対し、ニ十一ヶ条の要求を突き付けました。その内容は、山東省でのドイツの利権の継承、満州における日本の利権拡大のほか、かなり無茶な要求が数多く盛り込まれていました。

 当然、袁世凱は何色を示します。

 そこで日本は以下の条件を引っ込めます。

「中国政府に日本人の財政顧問、軍事顧問を招く」

「必要な地の警察を日中合同とする」

 といった要求を引っ込めたうえで、再度要求を突き付けます。

 日本は戦争も辞さない構えを見せ、中国に最後通牒を出します。

 

 列強が干渉してくれることを期待していた中国 しかし、イギリスなどはむしろ日本と妥協するよう進言してきたため、袁世凱は仕方なく日本の要求を受け入れたのです。

 この強引なやり方に中国の人々は大いに反発し、要求を受諾した5月9日は、国恥記念日と呼んで中国国内での反日運動を煽った。

 

 日露戦争によって中国の南満州の権利を得た日本、そして今回の第一次世界大戦によってその権益をさらに拡大させました。明治維新から半世紀、日本は列強諸国の技術や文化をがむしゃらに吸収してきました。ここに来て、日本は遂に列強諸国と肩を並べる帝国主義国家になったのでした。 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

子供に伝えたい 日本の戦争           皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

5つの戦争から読み解く日本近現代史       山崎雅弘=著 ダイヤモンド社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社