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【日米亀裂!】なぜ日露戦争後に日本とアメリカの仲が悪くなったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日米亀裂!】なぜ日露戦争後に日本とアメリカの仲が悪くなったのか」というお話です。

中国進出に出遅れたアメリカは国務長官ジョン・ヘイが提唱した中国に対する「門戸開放」「機会均等」を提唱し、中国進出の機をうかがっていました。そんな中、日露戦争が勃発。アメリカは講和会議の仲介に入る代わりに日本が獲得した満州の鉄道経営を共同で行うことを日本と約束しました。しかし、戦後、日本は満州を単独で統治。敵だったロシアとも手を組み、アメリカの参入を排除しようとしたのです。

 

 1894年(明治27)年に勃発した日清戦争で老大国・清は新興国・日本に敗北してしまいました。これによって清国(中国)の弱体化が世界に知れ渡り、欧米列強の中国進出のきっかけをつくってしまいました。日清戦争が終わったのは、1995(明治28)年ですが、それから5年のあいだに中国は欧米列強の植民地支配を受けます。

 

 列強各国は、中国本土における港湾の租借や鉄道敷設権を獲得。中国はあっちこっちから列強諸国に領土をかじりとられていく状態になってしまったのです。

 ロシアは1898(明治31)年、旅順と大連を租借し、旅順を軍事港湾として大連を商業港湾として利用します。さらにシベリア鉄道の支線を中国の領土に引っ張り、満州を突っ切って旅順・大連まで繋がる北清鉄道の敷設権を獲得します。イギリス山東半島威海衛九竜を租借。さらに新興国であるドイツ膠州鉄道の敷設権を得ます。

 1899(明治32)年にはフランスも中国の一番南、ベトナムに近い広州湾を租借しました。日清戦争に勝利したことで列強の仲間入りした日本も、福建省という地域を他の列強諸国に割譲しないという約束を中国に結ばせます。これは、手をつけるなら日本が先だぞというような意味です。

 このような中国分割の現象が日清戦争後、20世紀に入るまでに急激に進行していきました。

 

 皆さん、お気づきでしょうか。列強諸国の中で唯一、中国進出が果たせていない国があります。

 そうです。アメリです。

 アメリカは中国進出に出遅れ、何の足がかりもない状態なので、他の列強諸国が清国分割していく状況を、指をくわえてみていたのです。しかし、アメリカも我慢出来なくなりました。アメリ国務長官ジョン・ヘイは中国進出を図ろうと「門戸開放」や「機会均等」を提唱します。

「ある国が中国のどこかの地域をある国が抑えて、自分達の商品を輸入させたり、資金を投資して鉄道を敷設して抑えるということはいけない。貿易や投資について中国は各地を差別しないで、どの国に対しても同じように認めるべきだ。」

 このように中国進出の足がかりのなかったアメリカは、中国に対する門戸開放を唱え、中国進出において列強諸国は、すべてが平等であるべきだと宣言したのです。

 

 そんな中、列強諸国が揺れ動きました。

 1904(明治37)年、日本とロシアが戦争を起こしたのです。日露戦争の勃発です。さらにヨーロッパ諸国の勢力図も大きく変化しました。イギリスはロシアと手を組んでいたフランスに接近します。そして1904年4月、英仏同盟を結び、イギリスのエジプト支配と、フランスのモロッコ支配を互いに認め合いました。

 すると、新興国として勢力を伸ばしていたドイツは、フランスのモロッコ支配に反発し、ドイツとフランスの関係が悪化。こうしてイギリスとフランス陣営とドイツは対立関係に入りました。ここに後の第一次世界大戦の対立構図が出来上がりました。

 

 こうした列強諸国の激震をチャンスとみたアメリカは、そのドサクサに紛れて中国進出を果たすべく機をうかがっていました。

 そんな中、日本大使が、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト日露戦争の講和会議の仲介に入ってくれるよう依頼してきました。アメリカにとっては絶好のチャンスでした。まさに「飛んで火に入る夏の虫」です。

 ルーズベルト大統領は、講和会議の仲介に入ることを快く承諾しました。しかし、それは日本に対する好意や親切心からではありませんでした。見返りを期待していたのです。

 

 日露戦争に勝利した日本に対し、ロシアから中国北東部と満州の利権を獲得した暁には満州を日本と共同統治したいと提案しました。具体的には満州にある長春・旅順口間の鉄道を日米共同経営とすることでした。

 時の首相・桂太郎は、そんなアメリカ側の提案を了承し、鉄道王と呼ばれたアメリカ人のハリマンとの間で満州の鉄道の共同経営の覚書きを取り交わしていました。

 アメリカ国民は日露戦争中、日銀副総裁・高橋是清の依頼によって日本の公債を購入し、戦費を工面してくれました。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 ルーズベルト大統領はこれを恩として日本に提案し、約束を取り付けたのです。

 

 日露戦争の講和会議はアメリカのニューハンプシャー州にあるポーツマスで行われ、日本は旅順・大連の租借権をロシアから譲り受けます。長春・旅順口間の鉄道の経営権を獲得するなど日本は様々な権利を獲得しました。そして、間もなくロシア軍は満州から撤退しました。

 これでアメリカは日本と満州を共同統治する権限を得ることができました。遂にアメリカは中国進出を果たすかに思われました。

 

ところが・・・・。

 

 ポーツマス条約を結んで帰国した全権大使の小村寿太郎外務大臣は、これに大反対。「ロシアから獲得した満州利権は日本が単独で経営する。なぜアメリカが入ってくるのだ。彼ら関係ないだろう。」

 確かに日本は日清戦争に勝利したことで、せっかく獲得した遼東半島を返還せざるをえなくなりました。しかも、それを要求したのは全く関係ない第3国のロシアだったということを経験しているのです。

 

 小村は桂首相の反対を押し切り、アメリカの満州統治権はないと手のひらを返したのです。日本はポーツマス条約によって得た中国北東部、満州の植民地的経営に乗り出しました。旅順・大連の租借権を得たことを前提に日本はこの地域を関東州(かんとうしゅう)と名付け、その支配のために関東都督府(かんとうととくふ)を置きました。

 アメリカは約束通り、日本との満州の共同統治について提案しました。

「約束通り、満州長春・旅順口間の鉄道の共同経営を行いたいのだが。」

 日本はこの提案を拒否しました。

 アメリカ政府は不満を持ちます。

「おいおい、話が違うじゃないか。」

 このことはアメリカの各新聞も大大的に発表し、アメリカ国民も大激怒しました。

こうして日本とアメリカは満州をめぐって対立するようになりました。日本は長春・旅順口間の鉄道経営を単独で行い、南満州鉄道株式会社(満鉄)を半官半民で発足しました。日本は遂に満州進出を果たしたのです。

 それだけでなく、日本は満州から撤退したはずのロシアと手を組むようになります。1907(明治40)、1910(明治44)、1912(明治45)、1916(大正5)年の4度にわたる日露協約を結び、満州における両国の権益を取りきめました。日本は日露協約を結ぶことで、アメリカの満州進出を封じ込めたのです。

 

 以後、日本は東アジアの強国となり、急速にその勢力を拡大し、国際政局で大きな影響力を持つようになります。ここに国際社会において列強諸国と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の目標はひとまず達成されたといえるでしょう。

 それと引き換えに、日本はアメリカからの強い反感を買うようになります。アメリカ国内では黄禍論(イエロー=ぺリル)が吹き荒れ、日本人移民に対する差別が酷くなっていきました。アメリカへの日本人の移民は明治初年(19世紀後半)から始まり、ハワイなどを経由して多数の日本人移民がカルフォルニアなどに流入していきました。

 日本人移民は、勤勉なうえ生活習慣がアメリカ人とは大きく異なっており、しかも白人社会と交わろうとしない。

 このような政治的な情勢のみならず、根本的な性格の違いによる違和感もあり、アメリカ国民の日本人移民に対する嫌悪感が募るようになった。それを一気に沸騰させたのが、今回の満州問題です。

 

 以後、アメリカは日本が中国に勢力を伸ばすごとに強く非難するようになります。これが第二次世界大戦で日本とアメリカが太平洋で死闘を繰り広げる遠因になったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社