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【ポーツマス条約】なぜ日本はロシアから賠償金を獲得出来なかったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【ポーツマス条約】なぜ日本はロシアから賠償金を獲得出来なかったのか」というお話です。

  今回もストーリーを展開しながら「なぜロシアは賠償金請求に応じなかったのか」を見ていきたいと思います。

 今回の登場人物は、日本の総理大臣は桂太郎外務大臣小村寿太郎、元老の伊藤博文、ロシアの皇帝はニコライ、全権大使はヴィッテ、そしてアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領です。

日露戦争講和条約であるポーツマス約では、日本はロシアに樺太の割譲と賠償金の支払いを要求します。しかし、ロシアのニコライ皇帝は賠償金の支払いには断固反対。ルーズベルト大統領の説得により、日本は賠償金の支払い要求を放棄する代わりに樺太の南半分をロシアから譲りうけることで妥結しました。

 

 1904(明治37)年2月に勃発した日露戦争は3月に満州にある奉天での会戦を迎えました。60万人の日露の大軍が激突しました。日本軍は奉天を陣取るロシア軍を包囲して殲滅しようと動いたところから本戦に突入。10月になると、ロシア軍は余力を残しながら撤退をはじめ、戦いは日本軍の勝利に終わりました。

 しかし、日本軍にはロシアを追撃する体力は残っていませんでした。陸軍は武器も兵士も底をつき、完全に疲弊してしまいました。

 日本政府としては、この勝利を機に何とか停戦協定に持ち込みたかった。というのも、日本は兵力の欠乏だけでなく、イギリスやアメリカの富豪から多額の借金を重ねているため、これ以上戦いを続けると国が荒廃してしまいます。

 

 しかし、ロシア皇帝のニコライは、停戦協定の講和にまったく応じようとしなかった。というのも、ロシアにはヨーロッパ方面に100万人の兵士がスタンバイしており、なおかつロシア海軍バルチック艦隊が極東へ刻々と向かっていたからである。

 

 翌1905(明治38)年5月、対馬湾に入ったバルチック艦隊東郷平八郎率いる連合艦隊と激突。東郷の指導力により、バルチック艦隊を全滅させることに成功しました。これを日本海海戦と言います。

 ニコライ皇帝の期待はことごとく粉砕されました。これによって、ニコライ皇帝もさすがに講和に傾くようになります。

 

 日本政府は今度こそ停戦協定に持ち込もうと、日本海海戦後のわずか4日後、ワシントンの日本公使が当時のセオドア・ルーズベルト大統領に講和の話合いの斡旋(仲介)を申し入れました。これは元老・伊藤博文からの命令でした。

ルーズベルト大統領に日本の立場を説明して講和の斡旋を依頼してくれ」

 

 一方、日本国内では「戦争を継続せよ。遼東半島を奪った憎きロシアを完膚なきまでに叩き潰すのだ。」という声が高まっていました。

 

 同年6月、依頼を受けたルーズベルトは、日露両政府に講和会議を開くよう勧めました。会議の場所を決めようとしても、すっかり犬猿の仲になっていた日本とロシアで意見が合わず、仲介役のアメリカが自国のポーツマスで開くよう提案しました。日露両政府は同意したことで、日露戦争の講和会議が開かれました。

 

 同年7月、外務大臣小村寿太郎は、アメリカのニューハンプシャー州に到着。日本の勝利が決定的となった日露戦争の講和について、ロシアと交渉するのでした。

 

 同年8月9日、小村はロシア全権大使のヴィッテと交渉を開始。日本は様々な権利を獲得しました。

1.ロシアは日本の韓国に対する指導、保護、監理する権利を認める。

2.日露両軍は満州から撤退する。

3.ロシアが中国から租借した旅順・大連(遼東半島)を日本に譲る

4.ロシアが満州に敷設したシベリア鉄道の支線である東清鉄道の南部支線(長春~旅    順口間)の経営権を日本に譲る

5.ロシアは日本の沿海州・カムチャツカの漁業権を認める

 

 この他にも日本は様々な権利を獲得します。以上の条件は、曲折はあったものの妥結しました。

 最後まで残ったのは樺太と賠償金の支払いでした。しかし、ヴィッテは両条件とも拒否。交渉は暗礁に乗り上げていました。

 ヴィッテの言い分はこうだ。

「ロシアは戦いに負けはしたが、屈服はしていない。」

 実はヴィッテは本国を出港する際、ニコライ皇帝から「一銭の賞金も譲渡してはならぬ」と釘を刺されていたのです。

 ヴィッテは宿泊中のポーツマスのホテルを勘定を済ませ、9月5日発の汽船を予約。帰国する姿勢をみせるなど挑発行為に出ました。

 

 これに対し、小村も強硬な姿勢で臨みます。小村は日本の首相・桂太郎

「講和決別の可能性。戦争継続やむなし。よってポーツマスを引き揚げる」

 という電報を打ちました。

 しかし、桂は小村に何とか講和を継続するよう命じました。

 

 小村はヴィッテに譲歩案を提示しました。

樺太の割譲と戦費賠償は何とか考慮して頂きたい。そうしてくれれば、他の要求は撤回しても良い。」

 先述通り、日本はイギリスやアメリカの富豪から多額の借金を抱えています。ロシアに何とか戦費を賠償させ、借金返済に充てなければ、日本は債務国になってしまいます。

それだけではありません。

 このまま戦争を続けると、冬が来てしまいます。冬のロシアは極寒の地であり、兵士が大量に凍死してしまう危険性があります。雪国専門部隊であるイヌイットの援軍が加勢してきます。かつてナポレオン軍も、ロシアの冬によって壊滅しています。

 地政学的に言っても、大陸で戦う場合、長期戦では大陸国に勝機があり、島国の日本は必ず負けます。つまり、日本はこのままロシアを深追い出来ないのです。

 小村は何とかこの講和会議で、停戦に持ち込なくてはなりません。小村はロシアの強硬姿勢に焦り始めます。

 

 実はロシアのヴィッテ自身も今回の交渉を収束させ、戦争を終わらせたいと考えていました。というのも、この当時、ロシア国内ではロシア革命が起き始めており、各地で反乱や暴動が頻発していたのです。このまま交渉が決別してしまえば、国内情勢だけでなく、対外危機にも対応しなければなりません。ヴィッテは実に冷静なものの見方が出来ていたのでした。

 

 しかし、小村もヴィッテも「国家の名誉」を背負っている以上、安易に妥協案に甘んじるわけにはいきません。

 交渉が平行線のまま続く日露の交渉に見兼ねたアメリカのルーズベルト大統領は日露両元首に親書を送り、説得に入ります。

 ロシアのニコライ皇帝にはドイツのウェルヘルム2世、フランスのルーヴィエ首相などが動員され、説得に当たった。

 日本の明治天皇にも、

「ロシアから巨額の賠償金を取るために戦争を続けるのは誤りである」

と勧告し、譲歩を迫ります。

 

 日本政府は御前会議を開き、樺太の割譲と賠償金を放棄してでも講和成立は急務だと結論に至ります。そしてアメリカの小村に

「何としても講和を成立させよ。」

 と最終電報が打たれました。

 こうして最後の講和会議である8月29日、最後に残された樺太の割譲と賠償金問題は、日本が賠償金支払い要求を放棄し、ロシアが樺太の南半分を日本に割譲することで妥協が成立。

 そして9月5日、日露戦争開戦から1年7カ月後、ポーツマス条約が正式に調印されたのでした。

 

 これに対し、日本国内では「戦争に勝ったのに、一銭も取れないとは何事だ。」と講和破棄を求めた民衆の暴動が起きました。強気の小村でも妥協しなければならないほど、日本は戦争で疲弊しきっていたのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

坂の上の雲』の時代                     世界文化社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社