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【自由民権運動3】なぜ「明治14年の政変」が起きたのか【大隈重信】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【自由民権運動3】なぜ「明治14年の政変」が起きたのか【大隈重信】」というお話です。

 自由民権運動とは、板垣退助らが中心となって政府に対し、憲法の制定や、参政権、国会の開設を求める政治運動のことです。

 今回は自由民権運動の第3回目ということで、その後、民権運動はどうなったのかを解説していきたいと思います。さぁ、国会開設は実現するのでしょうか。(第2回目は以下のリンクから)

 

 それまで士族(武士)層中心だった自由民権運動は、やがて豪農層や商工業者にまで拡大しました。これに危機感を持った政府は豪農層や商工業者への懐柔策や弾圧策を講じました。しかし、民権運動は収まることなく拡大を続け、遂に板垣退助を党首とした一大自由主義政党として「自由党結成の盟約」を議決したのでした・・・。

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民権運動の拡大を受けて、政府内部でも「国会開設はもはや無視できない」として各参議に意見が求められました。伊藤や井上など「国会開設は時期尚早」とする漸進派に対し、大隈重信だけは「国会開設は急務」とする急進的な国会開設を主張したのでした・・・。

 

 その頃、政府内はどうなっていたのでしょうか。

  1878年に内務卿・大久保利通が暗殺されたことで、伊藤博文が内務卿の後を継ぎ、井上馨が伊藤の後を継ぎ工部卿に、そして大隈重信は大蔵卿として明治政府を引っ張っていくことになりました。

 そんな政府内部でも、全国的に拡大していく民権運動を無視することが出来なくなりました。

 「もはや国会開設は避けて通れないのではないか。」

 そんな意見が政府内にも飛び交うようになったのです。

 

 そこで、政府は各参議に対して、国会問題に対する意見を求めました。伊藤博文井上馨山縣有朋山田顕義黒田清隆大木喬任ら各参議はいずれも国会開設は慎重に行うべきで、具体的な構想案を述べてはいませんでした。

 「民権派には、政府を倒そうとする過激な連中もいる。今すぐ国会を開くのはとても危険。軍事力強化(富国強兵)や経済の基盤(殖産興業)を万全に整えたうえで、段階的に開くべきだ。」

 と、国会開設には漸進的で時期尚早という意見が多数でした。

 

 そんな中、大隈重信の意見書がまだ提出されていませんでした。左大臣有栖川宮(ありすかわのみや)は大隈に意見書の提出を催促しました。大隈は有栖川宮に意見書を渡しながらこう言いました。

「私の意見書は参議の連中には内緒にして頂きたい。これをそのまま天皇陛下のお目にかけることにしてほしい」と。

 大隈の意見書にはこのように書かれていました。

 「国会開設の年月は具体的に公示するべきです。国民が実際に議員を選び、国民が政治 に参加させることは非常に重要です。議員内閣制度や憲法作成は天皇陛下の決定によって至急取り組むべきだ。1881(明治15)年末に国民の間で選挙を行わせ、議員を選び、翌1883(明治16)年には国会を開くべきである」

という急進的な内容でした。

 

 有栖川の宮は、大隈の意見書を伊藤らに内々に見せました。あまりに急進的な大隈の意見に伊藤らは、驚愕しました。大隈の意見書はまさに民権派の主張そのものだったからです。大隈は民権派と内通しているのではないかという疑惑の念が生まれました。身内に民権派がいるなど非常に困る。政府としては国民に主権を渡すなど何としても阻止したいところだったからです。

明治時代になって、未開の地であった蝦夷地は北海道と改名され、開拓史による北海道開拓が進んでいました。開拓史長官・黒田清隆は、北海道の各施設を関西財界の政商・五代友厚安く払い下げることを決定。しかし、この贈収賄事件は郵便報知新聞によって世論の反感を買うのでした・・・。

 ちょうどこの頃、明治政府は北海道の開拓を進めていました。

 開拓史とは、北海道の開拓を進める政府の機関で、開拓史長官は黒田清隆です。江戸時代までは、北海道は蝦夷地と呼ばれ、アイヌ民族が住む未開の地でした。蝦夷地との貿易は松前藩が担当しており、米は獲れなくても、シャケなどの海産物が豊富に獲れる地域でした。

 明治時代になって廃藩置県により、松前藩がなくなり、中央集権国家となったことで、北海道の開拓を政府が進めることになりました。札幌には札幌農学校(現在の北海道大学)が設けられ、アメリカからクラーク博士をお招きし、北海道開拓を始めました。例えばアメリカのような農業機械を使って大農式の農業を展開したり、牧畜や酪農によって牛乳やバターをつくることが出来るようになりました。さらにビール工場も建設されました。サッポロビールの発祥です。

 

 ところが、開拓史は10年間という期限付きの役所であり、明治14年はちょうどその期限でした。

 一方で北海道の開拓を中断するわけにはいきません。やりかけの仕事はたくさんあります。ロシアの南下政策も恐いので、北海道を本州同等の近代的な街にするために北海道開拓は継続されました。

 しかし、当時の明治政府は財政難に陥っていたので、黒田は、北海道の開拓事業を民間企業に払い下げることにしました。

 関西で貿易会社を経営していた政商の五代友厚は、開拓史長官・黒田にこう言いました。

「我々が開拓史の事業を引き継ぐ。その代わり、払い下げの金額は無利子30年賦で出来るだけ安い価格で払い下げてほしい」という

黒田と五代は同じ薩摩藩の出身で、以前から深い親交がありました。黒田と五代はどんどん話を進め、払い下げ金額は38万円という非常に安い金額になりました。ここに藩閥勢力による贈収賄事件が発生したのです。(開拓史官有物払下げ事件

以上のことは政府内でも正式に決まりました。

 

 ところが・・・・・。当時の新聞社「郵便報知新聞」が、この開拓史官有物払い下げ事件を社説で大々的に取り上げました。

 世論の払下げ反対運動は急速に高まりました。

 「民衆の税金で建設した北海道の各施設を安く、しかも同郷の人間に払い下げるなんてとんでもない。これこそ藩閥専制政治の弊害のあらわれだ!!!」

 国会開設論がやかましくなっていた民権運動は、さらにヒートアップしました。

各地では演説会が開かれ、政府と政商の醜悪な関係に対する非難の声が飛び交いました。

明治政府は、開拓史官有物払い下げ事件の世論への暴露は大隈の仕業ではないかと疑惑の念を向けます。そして国会開設も含めて明治14年の政変が発生。明治政府は、国内の騒ぎを一気に片付け、朝鮮や清などの対外政策に向けた軍事力向上を目指すのでした。

 政府内部では、払い下げ問題が世間に暴露されたことに驚きを隠せませんでした。特に肩身の狭い思いを強いられている開拓史長官・黒田はこう言いました。

 「エライことになった・・・・。しかし、なぜバレたんだ?これは政府内の極秘事項だ。一体誰が密告したのだ。これは明らかなルール違反じゃないか。」

  実は、郵便報知新聞の経営者は、沼間守一(ぬまもりかず)という人物で、大隈と深い親交のある人物でした。沼間は後に、大隈を党首とした立憲改進党の党員になります。(後述)

 

 岩倉や伊藤は、「払い下げ事件を世論に暴露したのは、もしかして大隈ではないか。」とその疑惑を向けました。伊藤は、井上馨山田顕義、そして黒田清隆と手を組んで、大隈追放の計画を立て、岩倉も計画実行を承認しました。

 

 1881(明治14)年10月11日、伊藤と西郷従道西郷隆盛の弟)は大隈邸を訪れました。そして大隈に辞表の提出を促します。

 「大隈殿、もはや政府内で、貴殿の居場所はなくなった。気の毒だが、政府を辞任頂くよう申し上げる。」

 大隈はしばらく考えてから答えました。

「わかった・・・・明日12日に辞表を天皇のもとへ提出する・・・・」と

 

 翌12日、大隈が辞表提出のために参内しようとしたが、守衛に入門を拒否されます。この日、東京市中は厳戒態勢が敷かれていました。軍隊はいつでも出動できる状態で、警察は市中をパトロールしているという何とも物々しい雰囲気に包まれていました。

 こうした中で、天皇から直々に、大隈の罷免と、開拓史官有物払下げの中止が発表されました。そして、1890(明治23)年を期して国会を開設するという国会開設の勅諭が発せられました。

憲法は、あくまで政府側が作成し、欽定憲法として公布する。この趣旨に逆らう者は、厳罰を持って臨む。」

 以上が明治14年の政変です。政府は、国内で起きている騒ぎを一気に片付けたのです。こうして岩倉・伊藤を中心とする薩長藩閥勢力が確立し、彼らが主導となって今から9年間のあいだに立憲体制を樹立することを正式に発表したのでした。

 大隈の追放と同時に、大隈派の政府高官も一斉に辞任しました。彼らは、先程の沼間守一ら民間の知識人と結託し、大隈を党首とした立憲改進党の結成を決めるのでした・・・・。

 

 しかし、なぜ明治政府は、国会開設に妥協し、国内の騒ぎを全て収束させたのでしょう。実はこの頃、朝鮮では不平等条約である日朝修好条規締結による物価の高騰などによって、反日感情が強まっていました。さらに朝鮮の内乱や日朝関係の悪化を恐れた清国は、東アジアの秩序を守るために朝鮮に介入し、日本を警戒するという情勢でした。

 こうした国際情勢の中から、日本政府は、国内の騒動を全て収束させることで、「今後は朝鮮の支配権をめぐって清国と戦争をせざるを得ない状況になるかもしれない」と軍備拡張に力を注ぎたかったのです。

 翌1882(明治15)年、朝鮮で壬午の乱が勃発します。そして12年後には、政府の予想通り日清戦争が勃発するのでした・・・・。

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以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 上               中村隆英=著  東京大学出版会

中江兆民植木枝盛             松永昌三=著  清水書院

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著  旺文社