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【自由民権運動2】なぜ民権運動は全国に拡大したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【自由民権運動2】なぜ民権運動は全国に拡大したのか」というお話です。

 自由民権運動とは、板垣退助らが中心となって政府に対し、憲法の制定や、参政権、国会の開設を求める政治運動のことですが、いかにして起きたのでしょうか。今回は自由民権運動の第2回目ということで、なぜ民権運動は全国に拡大したのかを見ていきたいと思います。

 それまで士族(武士)層中心だった自由民権運動は、やがて豪農層まで取り込み、運動は全国規模に拡大していきます。(第1回目は以下のリンクから)

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 西南戦争で西郷軍が敗北したことで、士族達は言論による政治活動に専念するようになりました。民権運動には、やがて豪農も加わり、商工業者にも拡大しました。これに危機感を持った政府は豪農層や商工業者の懐柔策を考えるのでした・・・。

 

 1876(明治9)年、西日本の各地で士族反乱が多発する中、地租改正条例という政府の一方的な改革に不満を持った三重県岐阜県の農民達が大規模な反対一揆も起こるようになりました。

 士族反乱と農民一揆が結託して大規模な反乱になることを恐れた内務卿・大久保利通は、危機感を覚えます。

「まずい・・・。もし、農民達が民権運動にでも加勢すれば、税金の当てがなくなるだけでなく、明治政府そのものが崩されてしまう。それだけは絶対阻止しなくては・・・。」

 政府は、農民達の地租軽減要求を受け入れ、地租を3%から2.5%に引き下げました。これによって、農民達を手なずけ、政府サイドに取り込もうという狙いです。

 

 しかし、こうした農民達を政府サイドの取り込もうとする作戦は、完全に裏目に出る結果となるのでした・・・。

 

 翌1877(明治10)年、鹿児島の西郷隆盛らと政府による西南戦争が勃発しますが、西郷軍は敗北。全国の士族層に衝撃を与えました。

 あの西郷隆盛でさえ政府に負けた西南戦争は、もはや武力では政府に勝てないことを知るきっかけとなりました。一方で、「武力で勝てないのなら、言論で打ち勝とう。」という気運が逆に高まるきっかけでもありました。

 西郷の敗北を受けて、不平士族達は、皆こぞって言論による活動に加勢するようになりました。

 

 さらに、政府の予想に反し、西日本を中心とした各地の豪農層が民権運動に参加するようになりました豪農達にとって地租軽減が実現したことは、「政府に言論で訴えれば、要求は通るのだ」という成功体験を逆に植え付ける結果となったのです。

 それだけなく、この頃、政府は西南戦争の軍費捻出のため、不換紙幣を大量に発行しており、あらゆる物価が上がるインフレが進行しており米価も上がったことで豪農達に経済的な余裕の出来たのです。

 以前は、国家の政策によって消えゆく士族達を救済する目的で創られた高知の立志社ですが、豪農達も、立志社のような政治団体(民権政社)を各地で創りはじめたのです。

 

 1877年6月、立志社社長の片岡健吉は、京都の行在所(あんぎょうしょ)に向かい、天皇に国会開設の建白書を提出しました。いわゆる立志社建白書のことです。

 建白書には、政府の失政を痛烈に批判した内容が書かれており、その弊害を改めるためには国会開設は急務だということを天皇に要求したものになっていました。

 さらに、自由民権運動の3大綱領が初めて理論化され、従来の国会開設と不平等条約の撤廃に加え、新たに地租軽減が加わりました。すなわち、それまで士族層中心だった自由民権運動は、新たに豪農層に拡大していったのです。

 

 大久保は、京都の天皇に提出された立志社建白書を受理することなく葬り去った。その一方で、民権運動の拡大に対する危機感は高まりました。

「士族どもは、極論、全員抹殺すれば事は解決する。しかし、豪農をはじめとした農民達は、我々に税金を納める大事な人々だ。彼らを何とか民権運動から引き離さなくては政府の運営は成り立たなくなる。」と。

 

 そんな中、民権運動はさらに都市部の商工業者にも拡大していきます。建白書を受理しなかった政府に対抗して、片岡ら立志社の社員達が建白書を印刷し、全国の豪農層や商工業者に配っていたのです。立志社植木枝盛などの社員達を遊説員として各地に派遣。全国の民権政社に大阪に結集するよう呼びかけました。

 

 そして1878年、大阪で愛国社再興第一回大会が開かれます。高知の立志社を中心に岡山、福岡、三重、福井、愛媛、鳥取など西日本を中心とした民権政社の代表がぞくぞくと集まりました。士族層が中心だった初期の政社に対し、新しく出来た政社には、農工商各層の参加が目立ち、民権運動は質的に大きく発展していました。

 こうして板垣退助の政府復帰とともに自然消滅していた愛国社がここに復活したのでした。

 

 こうした民権運動の拡大を受け、政府の危機感は最高潮に高まります。大久保は対策を考えます。

「何とかして豪農層や商工業者を民権運動から引き離さなくては・・・・」

 大久保の命により政府は、群区町村編制法、府県会規則、地方税法という新しい地方制度を実施します。(三新法)。三新法に関する詳しい詳細は当記事では割愛しますが、とにかく豪農層や、商工業者を懐柔し、民権運動から引き離すことが目的です。

 特に府県会規則とは、一言でいえば、「府や県レベルでは、もはや議会政治を行っても良いですよ」という規則で、地方の豪農や地主などの有力者に権限を与えてしまうものでした。

 これら三新法の制定によって政府は地方の豪農層の懐柔を図ったのです。

自由民権運動は全国的に拡大していき、愛国社は国会期成同盟に発展。対する政府は、大久保利通が暗殺されたことで画策尽き、遂に集会条例という一方的な弾圧策に打って出ます。しかし、民権派の過熱は止まりません。民権派はやがて「自由党結成の盟約」を取り決めるのでした。

 

 1879年3月、愛国社再興大会の第ニ回大会が同じく大阪で開かれました。この大会では18県21社が参加しました。

 そして同年11月、第3回大会が開かれます。この大会では、初めて関東・東北の民権政社が参加するようになり、自由民権運動はいよいよ全国的な運動に発展しました。この大会では、各政社は全国各地に遊説員を派遣し、愛国社の組織拡大に努めること、そして次回大会までに各政社が国会開設願望書を作成することなどが取り決められました。

 

 対する政府は、1880(明治13)年4月、遂に集会条例という言論弾圧の法律を制定します。これによって民権派の政治上の演説・集会・結社は全て禁止されました。

 この集会条例は1875年の讒謗律・新聞紙条例以来の大弾圧であり、警察などを動員して民権運動を圧迫しました。政治上の演説や集会が禁止されては、政治運動そのものが成り立たなくなってしまいます。1878年の大久保利通暗殺事件によって、カリスマ的な政治家を失った政府は、その勢力を失ってしまいました。画策尽きた政府は、もはや独裁的に民権運動を抑えつけるという暴挙に出たのです。大久保の後を継いだのは、伊藤博文井上馨大隈重信です。

 

 政府が集会条例の制定の準備をしているほぼ同時期、大阪では、愛国社再興大会の第4回大会が開かれていました。この大会では2府22県、8万7千人余りの署名と各政社の代表者114名が参加し、新しく国会期成同盟を発足させることが決定しました。全国的な政党・愛国社は国会期成同盟という全国的な巨大政党へと発展したのでした。この大会では国会開設の請願書を政府に提出し、国会開設が決まれば、次は憲法制定会議を開くように政府に訴えることを決議しました。

 この決定を受けて、翌4月、片岡健吉や河野広中らを中心に2府22県、8万7千人余りの署名とその代表者97名の名を持って国会開設請願書が政府に提出されました。しかし、政府は、「人民の請願の権限はない」と受理することを拒否しました。片岡と河野はこうした政府の人民無視を痛烈に批判し、請願書とともに各地の人民に報告しました。

 

 対する政府は、国会期成同盟の発足を「待ってました!」と言わんばかりに集会条例を発令。国会期成同盟は発足と同時に解散するという事態が起きてしまいました。

 

 しかし、民権運動の熱は冷めることはありませんでした。いや、むしろ弾圧されたことで、その熱気は急上昇しました。一時的に解散した国会期成同盟はすぐに復活。1880年11月には、第2回大会が開催されました。

 この大会で民権派の理論的指導者である植木枝盛は、政府が「人民に請願権なし」と国会開設の請願書すらも拒否した以上、もはや単なる請願運動では効果はないと主張します。植木は、どのような国会をつくるか、どのような憲法をつくるかを具体的に提起し、国民全体の力で国会開設を勝ち取るべきだと力説。そして、遂に政党結成を呼びかけるのでした。こうして全国の民権派は一大自由主義政党として「自由党結成の盟約」を議決したのでした・・・。

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

中江兆民植木枝盛               松永昌三=著 清水書院

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社