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【自由民権運動1】言論で訴える板垣、武力で訴える西郷

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【自由民権運動】言論で訴える板垣、武力で訴える西郷」というお話です。

 自由民権運動とは、板垣退助らが中心となって政府に対し、憲法の制定や、国会の開設を求める運動のことですが、いかにして起きたのでしょうか。

 1868(明治元)年早々に、明治天皇の名前で出した五ヶ条の誓文の中には、今後の政府の方針が発表されました。その第一条目に公議世論の尊重というものがありました。これは、「みんなで議論して、全てはその結果によって行おう」という議会(国会)政治を意味します。政府は発足当初から、議会の開設を約束していたのです。

 しかし、実際に成立した明治新政府は、薩摩・長州の出身者である一部の官僚達による独裁政治であり、公議世論を尊重する議会政治とは程遠いものでした。

 こうした明治政府の独裁政治に不満を持った士族達は、言論、若しくは、武力によって、政府に異議申し立てをするようになりました。

 

 今回は、初期の自由民権運動で、士族達による士族民権について、政府とどのような闘いを繰り広げたのかを、ストーリーを展開していきながら、自由民権運動について紹介していきたいと思います。

板垣退助らは、愛国公党という政党をつくり、政府に対し、憲法制定や参政権、国会開設を求める「民撰議院設立の建白書」を政府に提出します。これは新聞にも掲載され、多くの士族達が共感。全国に政治団体が生まれ、板垣らの立志社をはじめとした全国的政党・愛国社が誕生しました。

 

 明治時代になったことで、身分制度も撤廃され、四民平等が基本方針になり、「武士」も「士族「という身分に変更され、それまでの武士の給料であった「家禄」は、藩に代わって明治政府が支給するようになりました。地方分権から中央集権体制に移ったのです。

 しかし、この「家禄」、国家予算の実に30%も占めており、文明開化富国強兵を目指す明治政府にとっては、今すぐ支給を中止したいものでした。

 したがって、以後、明治政府は問答無用の武士階級解体政策を次々に断行していきます。

  1873(明治6)年、近代国家にふさわしいとのことで、徴兵令が発令され、具体的な徴兵の規則が制定されました。これによって、事実上、「士族」という階級はいらなくなってしまいました。

 政府のこうした一方的な武士階級の解体に不満をもった各地の士族達は 現れ始めます。

「政府のやろう・・・俺たちの存在を完全に否定しやがった・・・・」

 

 その頃、政府内部でも征韓論という対立が起きていました。

 この征韓論争に敗れた西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎らは政府を辞職します。(下野)いわゆる明治6年の政変です。

 

 征韓論争に勝利した大久保利通は新たに内務省を設置し、内務卿に就任します。内務省とは、大蔵、外務、司法、工部、陸軍、海軍などの全ての省庁を統括する巨大組織で、「官庁の中の官庁」と呼ばれていました。

 したがって、内務卿・大久保は反政府活動をする連中を捕まえて、警察や軍隊で弾圧する権限も持っているのです。大久保利通による独裁政治の誕生です。

 

 政府を下野した板垣や後藤は、大久保らの独裁政治を制限するために議会(国会)の開設を訴えることを決断しました。

 その前段階として板垣らは、欧米諸国の政治について調べていきます。板垣らは、福沢諭吉の『学問のすすめ』をはじめとした啓蒙書や翻訳された西洋の政治思想に関する書物を読み漁り、議会政治について学びました。

 どうやら、イギリスには伝統的に議会というものがあり、国王は議会の承認を得なくては政治を実行することが出来ないとされていました。大久保らの独裁政治を倒すには、この議会政治の確立が必要だと板垣らは考えました。

 

 翌年の1874(明治7)年早々、板垣、後藤、江藤らは東京に愛国公党を設立します。この愛国公党とは、日本最初の政党と呼ばれています。

 ついで板垣らは、「民撰議院設立の建白書」に署名し、左院に提出しました。

(左院・・太政官内におかれた立法上の諮問機関のこと。1875年、廃止。)

 この「民撰議院設立の建白書」を提出したことで、板垣らを中心とした言論による政府への異議申し立てが始まったのです。

 「民撰議院設立の建白書」とは、文字通り、「国民が選んだ議員によって、政治を行う国会(議会)を開設すること」をお願いするもので、国会を設立し、政府の独裁政治を制限することを狙ったものです。

 この「民撰議院設立の建白書」は、『日新真事誌』という新聞に全文掲載され、全国の不平士族の間で大きな反響を呼びました。

 大久保は、この『日新真事誌』の新聞社を弾圧しようにも、イギリス人が経営しているこの新聞社を弾圧出来ませんでした。なぜでしょうか。そうです。領事裁判権治外法権)が適用されたのです。

 

 ところで、政治とは、基本的に多数決によって決まります。政治では人数は多ければ多いほど有利なのです。

 愛国公党の中心人物である江藤新平は、郷土である佐賀に戻り、仲間達に愛国公党に賛同することを呼びかけました。しかし、佐賀では不平士族達が武力によって政府に反発する気運が強く、江藤はその総長に奉り上げられてしまいます。

 1874(明治7)年、佐賀の乱が起きます。しかし、政府軍はこれを鎮圧します。首謀者であった江藤新平は政府に処刑されてしまいました。

 

 同志である江藤を失った板垣と後藤は、郷土である高知に戻り、郷土の仲間達に呼びかけました。これに共感した片岡健吉や林有造らは、板垣らとともに立志社という政治団体をつくりました。立志社では、欧米の政治思想の講義や研究がされました。

「自由とは何か。」

「平等とは何か。」

「権利とは何か。」

 

 これらの思想は、従来の日本にはなかった画期的な思想で、高知では大きな反響を呼びました。立志社は次第に、高知の各地で討論演説会を開くようになります。

 この演説会に出席していた若手の植木枝盛は、演説を聞いて奮発します。そして政治に強い関心を持った植木は、今後、自由民権運動の理論的指導者として板垣らとともに活躍していきます。

植木枝盛の生涯については以下のリンクから)

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 「民撰議院設立の建白書」は新聞に掲載されたことで、全国の不平士族の間で大きな反響を呼んでおり、高知に留まらず、全国各地で立志社に似た政治団体が作られるようになっていました。たとえば、徳島の自助社(小室信夫ら)、福島の石陽社(河野広中ら)、熊本の植木学校(宮崎八郎ら)、大分の共憂社(増田栄太郎ら)などです。

 これらの政社の代表は、1875(明治8)年、大阪に集まり、日本最初の全国的政党である愛国社を結成しました。

漸進的に国会を開設することを条件に板垣退助らを政府に復帰させた大久保利通は、その機に乗じ、一気に士族階級の解体を進めます。これに不満を持った西日本の士族達は武力によって政府に反発。そして西郷隆盛西南戦争を引き起こすのでした・・

 

 このように士族達による自由民権運動が盛り上がりを見せる中、危機感を覚えた大久保は、大阪で政府を下野した板垣と木戸に会談を持ちかけます。(大阪会議)大久保は板垣と木戸に政府復帰を求めて話合いをしました。

 大久保は板垣と木戸の主張を受け入れ、「近い将来、憲法を制定して国会をひらく」ことを約束します。これを条件に板垣と木戸は政府に復帰してしまいます。

 愛国社はトップの板垣が抜けてしまったことで、自然消滅してしまいます。当時の愛国公党は組織としては弱く、板垣のようなカリスマ的指導者を養えるような財務体制は整っていなかったのです。板垣としても、愛国者に在籍するより、政府に在籍したほうが、食いっぱぐれもないので、安心だということです。

 

 そして同年、明治天皇は、順次、国会を開設していくことを約束した「立憲政体樹立の詔(みことのり)」を宣言されました。

 その前段階として、立法機関の元老院最高裁判所としての機能を持つ大審院、民意を聞くという名目で府知事、県令による地方官会議が開かれることになりました。

 

 一方で、大久保は、政府の独裁政治を非難するような印刷物や掲示物を配布したり、新聞や雑誌等に政府非難の文章を投書する民権派の連中を弾圧する法律をつくります。

 1875(明治8)年、政府は讒謗律・新聞紙条例を発令し、政府批判に関する掲示物の強制撤去や、政府批判に関する新聞の発行停止処分を行いました。

 

 ところで、大久保が妥協したのには、ワケがありました。

 前年、江藤新平を首領とする不正士族の佐賀の乱や、地租改正による農民の反対一揆、学制の反対一揆、徴兵令に反対する一揆など各地で反乱が続発していたのです。

 さらに、政府を下野した西郷が、地元・鹿児島県で、私学校をつくり、鹿児島士族達を中心に独自の鹿児島王国をつくりあげ、政府の言う事をいかない状態になっていました。

 そんな西郷がもし隆起すれば、全国の不平士族も隆起、それに呼応して国民も続々と立ち上がり、明治政府は崩壊してしまいます。

 ゆえに大久保は、土佐と長州のリーダー格である板垣と木戸を政府に取り込んでおきたかったのです。

 板垣と木戸を取り込んだ政府は、自信を持ち、一気に武士階級の解体に乗り出します。

 1875(明治8)年、政府は、富国強兵に伴う歳出(支出)削減のため、それまで士族達に給料として払っていた家禄の支払いを止めることを発表しました。秩禄処分です。

 また、帯刀を禁ずる廃刀令も出します。

 これら一方的な政府の断行に怒りを爆発させた不平士族達は、西日本全域で反乱を起こします。政府はこれを徴兵によって集められた農民兵で鎮圧します。

 そして、西郷隆盛率いる私学校の士族達が武力で政府と戦う西南戦争が起きたのでした・・・・。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 西南政争による西郷軍の敗北は全国に衝撃を与えました。戦いを専門としてきた武士達が農民兵に負けるなんて・・・・・。

 同時に、武力では政府に勝てないことを士族達は知りました。

 しかし、士族達は諦めません。「武力で勝てないのなら、言論で打ち勝とう。」という気運が逆に高まったのです。

 そういう意味では、むしろ、西郷の敗北は、言論による反政府活動を盛り上げるきっかけとなりました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

早わかり幕末史                 外川淳=著  日本実業出版

中江兆民植木枝盛               松永昌三=著 清水書院

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社