日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【地租改正】明治時代の税制改革をわかりやすく

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【地租改正】明治時代の税制改革をわかりやすく」というお話です。

 

「おい、聞いたか。今度よぉ、年貢制度が変わるんだってよ。」

「うそ!?また年貢が上がるのか」

「違うよ。今度は、米じゃなくて、お金で納めろって。しかも、納めるのは藩主様じゃなくて、新しいお上になるらしいぞ。」

「本当か?新しいお上さんが、遂に俺達のために改革してくれたんだ。よくわからないけど、お米が手元に残るなら、俺達の生活も楽になるなぁ」

「そうだな。今まで、白米なんて、ろくに食えなかったし」

「こりゃぁ、楽しみだ。」

 

 幕末の革命によって、政権は、徳川将軍家から薩摩・長州の出身者による明治政府に代わるという歴史的な政権交代が実現しました。

 1868(明治元)年早々に発足した新政府の課題は、「文明開化」、「富国強兵」をスローガンに近代国家を樹立することです。しかし、憲法の制定、議会の確立、近代的な産業の勃興、教育制度の充実、交通機関、インフラ整備など、その課題は山積みでした。

 1871(明治4)年の「廃藩置県」によって、新政府は一応、日本全土を一律に支配下に置くことが出来ました。江戸時代の地方分権国家から、中央集権国家が確立したのです。

 しかし、新政府の主要財源は、江戸時代から続く年貢であり、いまだに農民から税として「」を納めさせていました。

 お米は、農作物である以上、年や季節によって、豊作だったり、不作だったりします。それに伴い、米価が高騰したり、暴落したりと安定しません。

 主要財源が年貢のままでは、政府の歳入を安定させることが出来ません。

 

 新政府のスローガンには「富国強兵」がありました。

 これは、文字通り、「国を富ませて、兵を強くする」という意味ですが、明治政府は、短期間で近代的な工場を建設し、国内の近代産業を発達させ、経済力をあげ、そこから吸い上げた財源をもとに、近代的な軍隊を組織し、列強諸国に対抗しようとしました。

 そのためには欲しいのは、「不確実なお米」ではなく、「確実なお金」です。

 

そこで、政府は大規模な税制度に着手しました。その代表例が地租改正条例です。おおまかな流れは以下の通りです。まずは、流れをしっかりつかみましょう。

                               地租改正

ねらい

政府の財源安定

                               準備段階

・1871年、田畑勝手作を許可

・1872年、田畑永代売買の禁を解除

       地価を定めて土地所有者に地券を発行

                1873年、 地租改正条例公布
土地所有者は地価の3%を地価の税率として、 毎年政府に現金で納める
                                   結果

・地租改正反対一揆が発生。   1877年、政府は地租を3%から2.5%に引き下げる

・近代的統一税制が確立。

  ひとつずつ見ていきましょう。

 地租改正の準備段階として以下のような取り決めがされました。

 1871(明治4)年に公布された「田畑勝手作を許可」とは、それまで禁止されていた米以外の作物を自由に栽培しても良いという取り決めです。

 また、1872(明治5)年には、「田畑永代売買(たばたえいだいばいばい)の禁止」が解禁されます江戸時代までは、「田畑永代売買の禁止」が定められており、土地を勝手に売ったり、買ったりしてはいけないという決まりがありました。しかし、明治政府はこれを解除します。これによって、「土地を自由に売ったり、買ったりしても良いよ」という決まりが出来ました。

 つまり、いつまでも農民の自由を束縛するのではなく、我々も西洋のように文明国家にふさわしい自由な制度を始めようということです。

 そして、1872(明治5)年、農民達に地券が発行されました。地券とは、農民達が所有している土地を調査し、その土地の公定地価を定め、その数値が記載されたもので、土地所有者全員にその証明書として発行したのです。

 

 公定地価とは、まもなく公布される地租改正における、地租算定の基準となる価格のことです。「公定」とは、「固定」を意味しますが、明治政府は、農民が所有する土地に「固定された土地の価格」を定めたのです。現代でいう「固定資産税」のことです。

 

 さぁ、これで地租改正条例公布に伴う準備は整いました。

 全国のすべての農地に公定地価を定めた政府は、1873(明治6)年、満を持して地租改正条例を公布しました。その内容は、公定地価の3%を毎年、現金で納めさせるという税制度です。

 

  ここで、「公定地価」について、もう少し詳しく掘り下げてみましょう。

 この公定地価とは、「土地の価値」のことを意味しますが、「売買価格」ではなく、「土地の広さ」や「過去の収穫量」などを‘総合的‘に判断して定められました。

  なぜ、政府は土地の売買価格を地価としなかったのでしょうか。

 先程、「土地を自由に売ったり、買ったりしても良いよ」という決まりが出来たと述べましたよね。

 そうなると、例えば、収穫量の多い土地なら、欲しい人が多いので、価格は上がります。逆に収穫量が少ない地域なら欲しい人は少ないので、価格は下がります。

これだと、収穫量の増減によって、価格も変動してしまいます。このような売価価格を地価としてしまうと、政府の歳入も安定しません。

 

 とにかく政府は、安定した歳入(収入)が欲しいのです。収穫量によって歳入が変動したり、売買価格によって歳入が変動するなんてことは嫌なのです。そのためには、「土地の価値」を変動しない数値を決めてしまい、その数値の100分の3の数値をお金で納めさせたのです。

 

 これによって、政府は毎年の歳入(収入)を安定化させることに成功。また、それまでの年貢(米)の管理や換金する手間も省けたので、政府にとっては非常に有効な改革でした。

 

 では、この改革によって、実際に田や畑を耕していた農民達の負担は、年貢時代と比べて軽くなったのでしょうか。先程、新政府に対し、期待していた農民達の会話を聞いてみましょう。

 

「いや~現金で納めなきゃいけないから、米をイチイチ換金しに出かけないとならん。全く面倒くさい。」

「そのくらいならまだ許せる。俺の地券、見てくれよ。」

「あれ?お前の土地が広くなってる。どうしたんだ。」

「ひどいぜ。奴ら、この広場は、俺の所有物だって勝手に決めつけて、俺の土地を広くしちまったんだ。」

「どういう意味だ?」

「それがな、今まで誰のものか分からなかった土地が、いきなり俺の所有物になっちまったんだよ。土地が広くなった分、税金も高くなっちまったのよ。」

「ありゃりゃ。政府のやつ、徹底的してるな。」

「あの広場は、俺の土地じゃねーよ。祭りのときにみんなで使う公共のものだ。」

 

 どうやら農民達の負担は大きくなってしまったようです。

主な原因は、先程の農民達の会話でに出て来た通り、今まで所有権の曖昧だった土地や入会地(いりあいち)は、課税の対象外でした。しかし、政府は土地の測量作業を徹底することにより、全ての土地の所有者を明らかにし、その全てを地価算定の対象とし、税を課していったのです。

(入会地・・・村人の共有する山林などのこと)

 

 農民達は、地租改正に対し、反対一揆をおこしました。政府は、この要求を一部認め、1877年、地価の税率を3%から2.5%に引き下げました。しかし、根本的な改正ではなかったため、農民達は引き続き、過大な負担を強いられることになってしまいました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

早わかり幕末維新                外川淳=著  日本実業出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社