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【日清戦争】勝利した日本が失ったものとは

 

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【日清戦争】勝利した日本が失ったものとは」というお話です。

 

 日本と清は朝鮮をめぐって対立し、1894年、両者は日清戦争に突入しました。

  日清戦争の舞台となった国はどこか知っていますか。

 「日清戦争」という言葉に惑わされて、日本か中国、どちらかが戦場になったと思いがちです。日本ではないことは確かだから中国ではないか・・・。

 確かに、黄海戦線や威海衛開戦など海軍同士は中国沿岸部で衝突しました。

 しかし、陸軍が主に清国と衝突したのは朝鮮半島です。

日清戦争とは、日本と中国の間に位置する朝鮮半島で行われました。

 

 1894年に勃発した日清戦争は結局、8カ月の戦闘の後、日本の圧勝で終了します。日清戦争に勝利した日本は、何を得て、何を失ったのでしょうか。

 日本は清国を朝鮮から撤退させ、朝鮮を独立国と認めさせたうえで、清国から遼東(りょうとう)半島澎湖(ほうこ)諸島、台湾を奪取しました。

 日本側の損失は、戦死者は約1400人(ただし、病死者は約1万2000人)。近代的な大量殺りく兵器が投入される少し前の時代だったので、それほどダメージはありませんでした。

 一方、清国側の損失は、人的被害もさることながら、大国だと思われていた清国が実は非常に弱体化していることを世界中に知らしめてしまったことです。

 

 日清戦争の戦後処理として両国は下関で講和条約を締結します。1895(明治28)年の下関条約です。日本側の全権大使は伊藤博文陸奥宗光です。ここで決められたことは大きく3つあります。

  1. 朝鮮半島を清国の支配から解放し、完全な独立国とすること
  2. 清国が日本に対し、賠償金として2億両(約3億円)を支払うこと
  3. 遼東半島澎湖諸島、台湾を日本に割譲すること

 これは敗北した清国にとっては、大変屈辱的な条約であり、勝利した日本にとっては大変好条件な条約でした。

 特に賠償金が支払われたことは非常に大きく、日本は銀本位制から金本位制に移行することが出来るようになりました。お金とは、もともと、金や銀を担保として発行されるもので、当時のアジアは銀本位制で、西欧は金本位制でした。もちろん、金の方が、価値が高いので、日本は経済的な意味でも欧米諸国の一員になることが出来ました。

 

 日本国民にとって、これほどおいしい話はありません。日本側にも戦死者が出たとはいえ、国内は戦場になっていませんから、国民の大半は「無傷」だったのです。それでいて、多額の賠償金が手に入り、経済が活性化し、自分達の生活水準も向上したのですから、この成功体験は忘れられないものになりました。

 つまり、「戦争に勝てば、儲かる」、「戦争に勝てば、豊かな生活が手に入る」という経験を当時の日本国民は肌で感じることが出来たのです。

 

 しかし、物事にはプラス面がある一方で必ずマイナス面があります。日清戦争の勝利は日本にプラス面をもたらしましたが、同時にマイナス面ももたらしました。

 日本は日清戦争の勝利で何を失ったのでしょうか。

 よく歴史学者日清戦争日露戦争の成功体験が、後の第二次世界大戦の悲劇を生んだと述べています。本質的にはそうですが、今回の日清戦争に限って言えば、中国における尊敬の念です。

 日清戦争前と日清戦争後で、明らかに日本国内には清国を見下すような風潮が強くなってきました。

 それまでの日本の歴史を見てみると、日本は中国を大国とみなし、畏敬の念を持っていました。飛鳥時代には遣隋使遣唐使が、平安時代から鎌倉時代には日宋貿易が、室町時代には日明貿易が、鎖国をしていた江戸時代も通商をしていたのはオランダと中国です。

 伝統的に日本と中国は対等な関係を築き、貿易をしてきました。その過程で、日本は中国からたくさんの思想や学問を取り入れました。今日、私達が使用している漢字も全て中国から伝わってきたものです。

 

 日清戦争に勝ったことで、日本は今後、清国に対してやけに強きに出ていきます。

 なぜ日本は清国を見下すようになったのでしょうか。

 日清戦争に勝ったから・・・。

 確かにそうです。ですが、人間のある心理がそれを強めたのです。

 

 ここで少し、人間の心理について触れてみます。

 他人を見下す人には、ある共通点があります。それは強い劣等感を持っていることです。他人を見下す人は、必ず別のどこかで劣等感を感じている人です。

 誰かから劣等感を与えられた人は、誰かに劣等感を与えてしまうのです。

 これは競争社会である現代においても、こういう人は非常に多いです。劣等感を持っている人は常に誰かと競争しており、自分は誰より劣っていて、誰より優れているかということを絶えず気にしています。

 

 これはバランスを取るためです。物事はプラスとマイナスが釣り合って中和が取れているのです。

 上を見上げた人は、必ず、下を見下さないとバランスが取れなくなるのです。

 では、明治以来、日本は何に劣等感を持っていたのでしょうか。

 そうです。西洋列強です。

 西洋の文明に比べ、自国の文明は100年以上の遅れがあり、日本はそのギャップに強い劣等感を感じていたのです。だからこそ、日本は開国以来、欧米列強に追いつくために、がむしゃらに、だけど謙虚に西洋文明を吸収してきました。列強は脅威であると同時に憧れの存在でもあったのです。

 開国以来、西洋列強を常に見上げ続けてきた日本が、ここにきて見下す存在を必要としてきました。日清戦争での勝利で清国はその的にされてしまったのです。

 

 明治時代に入って、日本は競争社会に突入しました。世界における順位を意識するようになったのです。「西洋に追いつく」精神の一方で、自国より文明の進んでいない後進国を劣った国として見下すようになってしまったのです。

 

 しかし、私は、競争社会を否定しているわけではありません。私達が今現在享受しているこの便利で豊かな生活は、全て競争社会によって創りだされたものなのです。競争社会は、文明を発達させます。確実に。

 

 江戸時代は、競争社会とは無縁の社会でした。人々は士農工商の強固な身分制度に組み込まれ、立身出世への道は閉ざされていました。人々は中立な目線で他人を見ることが出来、どこかのんびりとした雰囲気がありました。確かに、貨幣経済が農村にも広がったり、便利な商品も生まれたりしましたが、そのスピードも緩やかなものでした。

 

 ところが、明治時代に入ると、それまでの身分制度が撤廃され、四民平等となりました。「貧しい家に生まれても、一生懸命勉強すれば、高級官僚にだってなれる」という立身出世への道が開かれたのです。したがって、人々はそれぞれがライバルとなり、こぞって勉強し始めました。その結果、日本国民の教育水準や知識水準はめまぐるしい勢いで上昇していったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史       斎藤孝=著  東京堂出版

父が子に語る近現代史            小島毅=著 トランスビュー

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著 旺文社