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【文明開化】人々の暮らしはどのように変化したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【文明開化】人々の暮らしはどのように変化したのか」というお話です。

  今回は文明開化を紹介していきたいと思います。

  そもそも文明とは何でしょうか。文明とは衣・食・住をはじめとした慣習・風俗・学問・思想など人間が文化的な生活をするために必要な様々な要素の集合体のようなものです。

  また、文明開化とは「文明」が「開かれた」という意味ですが、それまで鎖国政策によって閉鎖的だった日本の文化を、西洋を始めとした世界から文化を取り入れることで、近代的な生活水準の実現を目指したのです。文明開化は明治維新が行われているほぼ同時期に始まりました。

 ということで、今回は文明開化によって人々の生活はどのように変わったのかを、衣・食・住を中心にみていきたいと思います。

 

  戊辰戦争の中、新政府は1868(明治1)年早々、明治天皇の名前で五ヶ条の御誓文で今後の方針を発表しました。これには「それまでの攘夷思想を改め、知識を世界から取り入れる」という開国和親の方針も含まれていました。

 しかし、翌日に民衆に対して発布された五傍の掲示ごぼうのけいじ)には従来の儒教道徳を尊守し、キリスト教邪宗(悪い宗教)として禁止する江戸時代までの思想統制が継続されました。すなわち、五ヶ条の御誓文と五傍の掲示真逆の法令なのです。  これには、明治政府の悲願である近代化の一方で、徳川政権時代のような天下泰平の支配体制を継続させたいという2つの相反する矛盾した葛藤が垣間見えます。

(攘夷・・・外国を毛嫌いし、国内から追放すること。幕末の日本でさかんに叫ばれました。)

日本の文明開化の象徴は、やはり丁髷(ちょんまげ)を切り落とす散髪です。散切り頭となり、頭がさびしくなった明治初期の男性達は、世界の様々な種類の帽子をかぶるようになりました。

 

  まず、「衣食住」の「衣」から見ていきましょう。

 文明開化の象徴的な出来ごとは、1871(明治4)年に公布された「斬髪勝手」です。これは「散髪してもかまわない」という意味ですが、それまでの丁髷(ちょんまげ)を切り落としても良いというものです。明治政府には丁髷文化をなくしたいという思惑がありました。実は丁髷、在日の外国人からは好奇な目で見られ、しばしば冷笑の的として取り上げられていました。

  しかし、人々はなかなか断髪しようとしません。実は丁髷とは、武士、農民、職人、商人などの身分や職業によって異なり、また先祖代々伝わってきた家紋のようなものであり、人々が個性を表すアイデンティティの象徴だったのです。

 ところが、1873(明治6)年、明治天皇が散髪すると、庶民も進んで丁髷を切るようになっていきました。散発の普及率は、明治5年の10%から徐々に増していき、明治8年には20%、明治10年には40%、明治12年には70%となりました。

 

 丁髷を落としたことで頭がさびしくなった男性達は帽子をかぶるようになりました。その帽子はシルクハットやトルコ帽、パナマ帽、ナポレオン帽(ヘルメット帽)など世界から入ってきた様々な種類があります。ナポレオン帽とは、よく昔のアフリカ探検隊などが暑さや危険を避けるために厚くて硬い兜状の帽子のことです。こうして街中には帽子に洋服という完全な洋風姿の男性や、着物に帽子という和洋折衷式の男性など、実に個性的な風貌をした男性が入り混じっていました。

 

 冬になると、人々は首を冷やさないようにマフラーというものをするようになりました。

 当時、このマフラーの影響なのか季節を問わず、ハンカチを首に巻くという変なファッションが流行します。当時の新聞各社は「なんとも奇妙な格好だ。最近の若者ときたら・・・」と批判的な記事を掲載しています。さらに人々は防寒とファッションも兼ねて肩掛けやマントのような「ショール」も流行りだします。

 それにしても、「最近の若者ときたら・・・」という言葉は今も昔も変わらない年配者の常套句だったようです。

 

人々の食生活も徐々に西洋化してきます。牛鍋(ぎゅうなべ)、ビール、アイスクリーム、ラムネ、コーヒー、紅茶などが普及してきます。

 

  ここからは人々の食生活の変化について見ていきます。積極的に西洋に門戸を広げたことで、未知の飲食物が庶民に広がりました。

 例えば、「牛鍋(ぎゅうなべ)」というものです。もともと牛の肉など口にしなかった日本人ですが、牛肉を砂糖と醤油で煮るという独自の調理法で日本人の大好物として定着しました。そんな牛鍋のオトモには・・・・やっぱり「お酒」ですか。くぅぅ~いいねえ~。

 瓶ビールは、幕末に日本にやってきた西洋人が日常的に呑むために自国から持ち込んでいたようです。しかし、それでは量が足らず、明治に入ってから、どうしてもビールが飲みたいという在日外国人によって日本製のビールが造られるようになったことが普及のきっかけです。

 

  通りには何やら「氷」の目印が掲げられた店が並び始めます。「氷屋」です。その柱には「アイスクリーム銭4銭」と書かれています。アイスクリームは1869(明治2)年に横浜馬車道に「あいすくりん」という名称で売られたのが最初で、当初はシャーベット状のもので、現在の氷アイスに近いものだったようです。

しかし、このアイスクリーム、結構高価であり、一般庶民には中々手の届くものではありませんでした。庶民は「氷水」で我慢したようです。

 この「氷水」ですが、最初はただ氷を砕いて水の中にいれて出されるに過ぎませんでした。それから鉋(かんな)で削るようになり、雪片のようにしてコップに盛り、砂糖をかけて出すようになりました。その後、様々な和みをいれ、氷あられ、氷蜜、氷レモン、氷ブドウ、氷白玉、氷イチゴ、氷ラムネなど氷薄茶など「氷水」の種類が増え始めます。

 

 ラムネはペリー来航と同時に日本にやってきました。「レモネード」が日本人には「ラムネ」と聞こえてしまったようです。初めて飲んだ日本人はゲップが出て、ビックリしたそうです。この奇妙な飲み物は、日本人には敬遠されました。しかし、1877(明治10)年にコレラ菌が流行したことで、人々は水の代わりにラムネを飲み始めたことから、徐々に浸透していきました。

 

 来客の際のおもてなしにも変化が見られます。旅館などでは来客にお茶を出しますが、そのお茶は、取っ手のついた洋風のコーヒーカップでスプーンも差しこまれています。中身はもちろんコーヒーで、明治10年代にはイギリス領インドから紅茶が豊富に輸入され、紅茶も人々の間で楽しまれました。

 コーヒーの最強のパートナーといえば、やっぱり牛乳(ミルク)でしょう。牛乳は当時、「コーヒーに混ぜたる滋養液」とよばれ、人々の健康飲料だったようです。牛乳は毎朝、牛乳配達が大きなブリキカンに入れ、小さなブリキカンに小分けして配って回ったようです。

 街の様子も西洋化してきます。代表的なのは東京銀座で、火に強いということで煉瓦造が注目を浴び、公官庁施設を中心に西洋風の建築物が建てられるようになりました。

 

 さぁ、文明開化によって街の様子はどのように変化したのでしょうか。街路にはガス灯、家々にはランプがともり、人力車馬車が街路を走るようになりました。

(人力車は日本発祥であり、現在のタクシーのような役割を果たしていたそうです。)

  建築物も西洋化が始まります。幕末の開港後、外国人居留地にはすでに西洋風の建物は存在していましたが、居留地以外では、日本建築ばかりでした。

 明治に入ると、銀座の公官庁施設を中心に、煉瓦造りの西洋建築が続々と建てられるようになります。そして、1872(明治5)年に銀座で大火災が発生したことがきっかけで、煉瓦造の耐火性が注目され、政府は都市不燃化計画を推進します。

 

 そこで、東京府は、板葺(いたぶき)屋根の取り壊しに関する通達をだします。しかし、行政の勝手な通達で家を壊されることに住民は不満を持ちます。しかし、木造が火に弱いのは紛れもない事実。その対策は急がれるも、中々進みませんでした。

 そんな中、明治24年に岐阜県・愛知県一帯に大地震が発生。煉瓦造の建物はもろくも崩れ去るなか、日本古来の木造は、地震に強く、気候や風土に適した建築物だと見直されることにもなりました。

「火に強い煉瓦、地震に強い木造」ということでしばしば意見が対立しますが、1923(大正12)年9月1日関東大震災によって、火にも地震にも強い鉄筋コンクリート造が日本でも注目を浴びるようになるのでした。

 

東京府・・・現在の東京都。廃藩置県後、東京府京都府大阪府の3府の1つとされました。)

 

 この他にも、思想や学問の面でも、西洋の新しい知識や言葉が人々に知られるようになります。さらに「自由」、「平等」、「権利」などそれまでの日本にはなかった素晴らしい概念も取り入れらます。人々の無知を切り開き、新しい知識の普及を牽引した組織が1873(明治6)年に組織されました。明六社です。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 同年、江戸時代までの旧暦(太陰太陽歴)を廃止し、欧米同様に太陽歴が採用されています。旧暦の1872(明治5)年12月3日を、太陽暦の1873(明治6)年1月1日とした。また、1日を24等分して1時間とする定時法や、日曜の休日制も導入されました。

 この明治6年は日本の近代化において画期点となった年でした。この年は、徴兵令の発令や、地租改正による税制の抜本的改革も行われ、先ほどの五傍の掲示で禁教だったキリスト教禁令も廃止されています。

 

 このような、一連の文化的な変化を文明開化と呼びます。明治維新によって、武家社会を壊し、東京を中心とした中央集権国家を確立すると同時に、今回見てきたような西洋の文明を取り入れようとする気運も着実に高まっていったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

文明開化がやってきた チョビ助とめぐる明治新聞挿絵 林丈二=著  柏書房

風刺漫画で日本近代史がわかる本           湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史            鳴海靖=著  山川出版社