【明治維新】新政府の最初の課題とは?

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【明治維新】新政府の最初の課題とは?」というお話です。

 

  今回から明治時代を紹介していきたいと思います。戊辰戦争という内乱が続く中、発足された新政府の最初の課題とは何だったのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら、そんな新政府の明治維新について紹介したいと思います。

徳川将軍家から政権交代した明治政府はまず、武士階級の解体に取り組みます。版籍奉還は旧体制に限界を感じていた諸藩はすんなりと受け入れます。しかし、廃藩置県は一かハかのクーデターだったのです。

 

 

  戊辰戦争の中、新政府は1868(明治1)年早々、明治天皇の名前で五ヶ条の御誓文で今後の方針を発表しました。首都は京都から江戸に移され、同年10月、天皇江戸城に入ります。そして江戸は東京と改名され、江戸城も東京城と改名され、そのまま天皇の皇居として現在にいたります。

 

 さて、幕末の革命によって徳川将軍家から薩摩・長州の出身者による明治政府に政権交代しましたが、明治政府の喫緊の課題はとにかく近代国家を樹立することでした。

 しかし、憲法の制定、議会の確立、産業革命を取り入れ近代的な産業の勃興、各藩の藩札を廃止し、貿易に有利な日本国としての統一通貨の発行。さらに教育制度の充実や交通機関、病院など近代国家には欠かせない都市インフラの整備など、課題は山積みです。

  ですが、新たな「創造」をするには、まず旧体制を「破壊」する必要があります。歴史は、「破壊」→「創造」→「維持」→「衰退」のサイクルを繰り返しているのです。 

 「衰退」した江戸時代から明治時代という新たな「創造」をするには、まず破壊が必要です。

 

 では、明治政府が最初に行った破壊とは何でしょうか。そうです。武士階級の解体です。これが明治維新の本質的な部分となります。江戸時代は、全国に270近い藩が存在しており、それぞれの藩が独自の政治を行う完全な地方分権制度でした。

 明治政府は、まずこの藩というものを解体し、中央政府に権力を集中させなければ欧米列強と同じような近代国家への転身は出来ません。その中央の象徴とは天皇の君臨です。天皇は国民から厚い信頼と支持を得ており、その天皇をトップに据えることで、近代国家樹立を早急に推し進めようとしたのです。

 

  戊辰戦争終結した1869(明治2)年、明治政府は版籍奉還を全国の藩に命じます。これは諸藩に領土(版)人民(籍)天皇に返納させるという内容です。

 明治政府はいきなり藩を取り潰すのではなく、最初に領土と人民を返還させ、段階的に藩の廃止に移ろうとしたのです。したがって、旧藩主はそのまま知藩事という職に任命され、そのまま支配体制を継続しました。

 諸藩はこの改革を意外とすんなり受け入れます。おそらく、彼らも気付いていたのでしょう。旧体制のままでは国を守れないと。本来、武士の使命は、人民を守ることです。しかし、このままではその役割を果たせそうにない。ここは一度、領土と人民を返納し、明治政府に期待することが国を守ることに繋がると考えたのです。

 

 さぁ版籍奉還が完了したので、次は廃藩置県です。これは藩を廃止して、新たに県を設置し、中央から政府の役人(県令)を派遣するというものです。

 しかし、藩を廃止するというのは、やはり慎重に行くべきです。

 というのも、実はこの頃、明治政府はまだ常備軍を持っていなかったのです。言われてみれば、戊辰戦争で新政府軍として戦ったのは諸藩の藩兵です。彼は戦争が終われば、当然自分達の国に帰ってしまいます。

  さらに、江戸時代に軍制改革によって力をつけた藩もゴロゴロいます。このまま藩を廃止すると、軍事力を持たない新政府ゆえ、全国で反乱が起きた場合、明治政府は再起不能になるのは必至です。

 このように「第二の戊辰戦争」を危惧する役人は少なくありませんでした。

 

 しかし、政府の中心人物である木戸孝允大久保利通は、急進的で悲壮な考えを持ちます。

「このまま決断を先送りにして、政府が崩壊するより、いっそう大英断によって、一気に藩を潰し、それが失敗して瓦解したほうが良い。」

 学校の教科書では、サラッと書かれてある廃藩置県ですが、実は一かハかの賭けだったのです。

 

 作戦は、護身のための親兵を用意し、全国の知藩事を皇居に集め、明治天皇から直々に「廃藩」を宣言してもらうというものでした。

 親兵には、当時最強の軍事力を誇る薩摩(鹿児島)の兵を味方として迎える必要がありました。そのためには、薩摩の西郷隆盛に協力を依頼する必要があります。しかし、西郷は明治政府に愛想を尽かし、既に鹿児島に帰っていました。

 同じ薩摩出身の大久保は西郷と蟠(わだかま)りがあるため、期待出来ません。木戸は部下である山縣有朋を鹿児島に派遣し、西郷を説得します。

 薩摩藩藩士達から絶大は人気を誇っていた政府の要請を西郷はあっさり受け入れます。おそらく、藩の廃止は時代の流れだと認識していたのでしょう。

 

 1871(明治4)年、作戦は決行されます。西郷は鹿児島から兵を率いて上京。木戸も自ら長州へ戻り、兵を引き連れてきました。そして板垣退助率いる土佐軍も到着。こうして薩・長・土3藩による8000人の連合軍が東京に集結。これらの軍事力を備えた上で、同年7月、皇居に集められた知藩事達の前で明治天皇は「廃藩」を宣言しました。

 こうして明治政府は政治的な統一を成功させました。

 

明治政府は引き続き、武士階級の解体に取り組みます。四民平等によって武士という身分がなくなり、秩禄処分によって武士の給料であった「家禄」も廃止されます。そして廃刀令によって武士の特権的象徴だった帯刀も禁止されるのでした・・・

 

  この後、いよいよ「武士」という職業そのものが解体されます。

 政府は基本方針として四民平等を示します。近代国家樹立のためには国民は皆、平等である必要があるとして、それまでの士農工商身分制度を撤廃しました。

 しかし、武士の解体と同時に、誰かが代わりに武力で国防や治安維持に務めなくてはいけません。大村益次郎は徴兵制を構想します。この近代国家らしい構想は山縣有朋が中心となって1872(明治5)年、明治天皇の名前で徴兵告諭が発布され、国民の義務として国を守る兵役を負うべきだと示します。そして1873(明治6)年の徴兵令で具体的な徴兵の規則が制定されました。

 

 これによって事実上、武士という身分は消えたわけですが、明治に入っても、武士達には「士族」という新たな身分が与えられ、藩に代わって明治政府から「家禄」という給料をもらっていました。いわゆる‘失業保険‘のようなものです。

 しかし、政府にとってこの家禄の支出は財政圧迫の原因であり、国家財政の30%にも及んでいました。これ以上、彼らを養うことは出来ません。

 

 1876(明治9)年、政府は遂に士族達への「家禄」を廃止します。これを秩禄処分といいます。代わりに5~14年分の家禄を一括で支給し、その間に何とか生活を成り立たせるように促しました。

 また、同年、刀を差して外を歩いてはいけないという廃刀令も出されたことで、遂に武士の特権的象徴であった帯刀が禁止されました。

  こうした旧武士に対する冷たい仕打ちをしたのが、同じ武士出身である木戸や大久保だったことは、何とも皮肉なことです。

 

 多くの士族達はこれら一連の法令を全て受け入れた。そして新しい時代に自らが自立するためにそれぞれが歩き始めた。この潔さが明治の富国強兵の原動力になったことは間違いありません。

 しかし、中には急激な時代変化に追従出来なかった士族達もいました。彼らは政府に対して不満を強め、1876年以降、各地で反乱を起こします。その代表的な反乱は、士族達の不満を引き受けた西郷隆盛が引き起こした西南戦争です

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  こうした1868(明治1)年~1876(明治9)年の一連の政治的な変化を明治維新と呼びます。

 

 一方、明治政府は「西洋の文明を取り入れること」をスローガンに文明開化も実行に移します。

 ということで、次回は文明開化についてご紹介します。

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 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史          斎藤孝=著  東京堂出版

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史  河合敦=著  祥伝社

教科書よりやさしい日本史             石川晶康=著 旺文社