【植木枝盛】自由民権運動に影響を与えた思想家

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【植木枝盛自由民権運動に影響を与えた思想家」というお話です。

 

 明治政府は文明開化をスローガンに近代国家樹立のために急速な西洋化を図りました。日本の独立を守るには、西洋の文明を取り入れる必要があり、さもないと欧米列強の支配を受けることは必至の事態だったのです。

 ところで明治政府は、薩摩・長州の出身者による藩閥政治が行われましたが、建前上は公家出身者と武家出身者による合議制・話し合いが取られていました。しかし、内状は1~2人の独裁政治が行われていました。そこで、1870年代半ばから人々は国会開設と参政権を求めて自由民権運動が繰り広げます。

 今回はそんな自由民権運動で自ら思想を形成し、人々を共感させた思想家・植木枝盛(1857~1892)という人物を紹介します。自由民権運動と言えば、板垣退助をイメージする人が多いと思いますが、植木も同様に自由民権運動の中心人物として活躍しました。

板垣退助とともに自由民権運動の中心人物として活躍した植木枝盛は、明治政府の独裁政治に反発。福沢諭吉などの知識人から影響を受け、アメリカ独立宣言やイギリスのジョン・ロックの思想を研究。民主国家「日本」を確立するために国会開設と参政権を求めて全国を奔走しました。

 植木は1857年、土佐(高知県)に生まれます。16歳で大使を抱いて上京。海南私塾に入学するも軍人養成を目的とした教育に違和感を覚え、6カ月で退学してしまいます。退学後、独学で学問に励む植木ですが、その中心をなしたのが読書と‘新聞閲覧‘です。

 この新聞は1870年代に急激に普及しますが、当時の人々に新しい知識や言葉を提供しただけでなく、人々に意見や主張の持たせる啓発的な役割も果たしました。

 このように人々を啓蒙・啓発する目的で、1873(明治6)年、福沢諭吉をはじめとした先進的な知識人によって明六社という啓蒙団体が組織されました。

 

 しばらく東京で独学を続けていた植木は、1873(明治6)年12月、東京を出発し、東海道を通り、京都・大阪を見物し、土佐へ帰郷しました。

 翌年の1874(明治7)年早々、板垣退助後藤象二郎江藤新平らが「民撰議院設立の建白書」を左院に提出します。この建白書はイギリスが発行している『日新真事誌』という新聞にも全文掲載されました。これを読んだ植木は、政治に強い関心を持つようになります。

 同年3月、どうやら板垣退助というカリスマ的人物は土佐の出身者で、その板垣が土佐に戻ってきているという知らせが植木の耳にも入りました。板垣は土佐の同志を集め、立志社という政治団体を作り、人々に「自由」や「平等」、「権利」などを教えていました。

 その立志社が土佐の各地で討論演説会をしているという情報を聞いた植木は、立志社の演説会に出席します。この演説を聞いた植木は奮発します。政治に強い関心を持った植木は、『国会論』というタイトルの文章を作って村の各戸に回覧しました。

 

 1875年(明治8)年1月、植木は再び、東京に向かいます。着京した植木は勉学の傍ら、 明六社の演説会にも出席するようになります。演説に共鳴した植木は福沢の思想である『天賦人権論』を学びます。『天賦人権論』には「人は生まれながらに自由で平等である」という理論が展開されており、それまで封建制度身分制度が当たり前だった人々に強烈な印象を与えました。この明六社の演説内容は『明六雑誌』や各新聞によって人々のあいだに広がりました。

 

 しだいに、人々は新しい政治の在り方について意見や主張を持つようになります。特に若い青年達は、自らの意見を新聞へ投稿をしており、投書が多くの新聞に掲載されることで自らの知名度を高めていきました。植木もその一人です。

 

 当初、明治政府はこれらの意見を歓迎していました。近代国家樹立のために思いを語る若者の情熱は、明るい日本の未来を想像させるものだったのです。

 しかし、次第に政府の方針とは異なる意見や、独裁政治に対する批判的な意見も散見されるようになります。そこで1875年、政府は言論の自由に制限を加える讒謗律新聞紙条例を出し、反政府運動を弾圧します。

 

 人々から言論の自由を奪った政府に対し、植木は「猿人政府説」という題名の投書を報知社に送ります。これが編集人によって「猿人君主」と改題され、『郵便報知新聞』に掲載されました。

 「猿人君主」とは、政府が情報統制や言論統制をすることで、民衆が「見ざる、言わざる、聞かざる」の状態になってしまうことが述べられていました。

 

 かつて江戸幕府が倒され、明治政府が誕生。そこにはデモクラシーの精神と近代国家の樹立を目指す思いがあった。しかし、実情は支配者が徳川将軍家から薩摩・長州の出身者に代わっただけで、被支配者を徹底統制することは何も変わっていなかったのです。

  植木は新聞紙条例違反で政府に連行され、禁獄2カ月の刑に処せられます。

 

 出所した植木は既に有名投書家となっており、多くの人々から支持を得ました。そして同じ土佐出身の板垣退助と意気投合。土佐の立志社に身を置き、執筆と演説の2つの言論活動を展開していきます。こうして近代日本の課題をめぐって明治政府と民間が対立する風潮が激化してきます。自由民権運動の始まりです。

 

 自由民権運動とは国会開設と参政権を要求する運動ですが、日本が近代化するにあたって重要な課題は、国民国家「日本」を形成することでした。そこで人々に「国民」という同朋意識を共有させ、政治に積極的に参加する国民主体の国を創る必要があると説きます。

 何やら難しい説明のように感じますが、要するに各都道府県が一致団結し、「日本」という独立した国を創り、「民主主義の国」を創ろうということです。

 

 この時初めて「日本」や「国民」という言葉が誕生し、それを生み出したのは福沢諭吉です。

 江戸時代までは完全なる地方分権制度であり、「あなたは何人ですか?」と聞くと「薩摩人です。」などと答えるのが自然でした。しかし、日本や国民という概念が生まれたことで「あなたは何人ですか?」と聞くと「日本人です。」と答えるようになっていきます。また、国民が政治に参加するなんて従来ではありえなかったことです。

 

 これを民衆に自覚させるには演説しかないと福沢は言います。イギリスやアメリカでは「スピーチ」によって民衆に政治への関心や士気を高める手法をとっていました。福沢は「スピーチ」を「演説」と訳します。演説は自由民権運動の中心的な活動であり、板垣は演説で、植木は執筆によって人々に呼びかけました。

 

 1876年、西南戦争に敗れた不平士族や、経済的に余裕のある農民(豪農)達も民権運動に加わります。

 自由民権運動が各地で盛況を見せるなか、植木らは、自然消滅してしまった愛国社の再建に乗り出します。立志社は全国の同士に呼びかけるため、遊説員を派遣します。植木もその一人として大阪、兵庫、香川、徳島、愛媛、岡山、鳥取を訪ねます。

 

 そして1877年9月、再興愛国社第一回大会が大阪で開催されたのをきっかけに、自由民権運動はさらに熱狂します。1879年の第3回大会では遂に、自由民権運動の主張の大きな柱である国会開設の要求を全国の同士を結集して政府に対して請願することを決定しました。

 

 植木はアメリカの独立宣言やイギリスのジョン・ロックという思想家を勉強し、以下のような言葉を残しています。

「そもそも国とは、人民の集まるところのものにて、決して政府によって出来たものではない。君によって立ったものでもない。国とはまったく民によって出来たものじゃ。」

 

 国とは政府や天皇がつくったものではなく、民衆が集まってこその国であり、民衆が集まってこそ政府が生まれたのだということです。

 

 以後、植木は憲法草案の委員会の中心人物として活動します。この憲法草案こそ、国民国家「日本」のグランド・デザインの集大成として国自らの手で描かれたものなのです。憲法案には主権在民国民主権)が述べられており、政府が権力を濫用し、暴政をはたらくなら、国民は抵抗権を行使出来ると規定されていました。

 また、立憲君主制ではあるものの、天皇も国民と平等の存在とみなしており、民主制を保障するなら、当面は現行を維持してもよい。しかし、いずれは共和制をとるべきと主張しています。

 さらに、国民主権の国を創るには、国は出来るだけ小さくする必要があり、日本をいくつかの州に分けて自由独立を保障する連邦制をとるべきと述べられています。

 人権についてはきめ細やかな配慮がされており、特に警察の人権侵害の行為などには強い警戒心を抱いています。死刑制度も廃止されています。

 

 結局、伊藤博文がドイツの憲法を参考に天皇主権大日本帝国憲法を発布されたことで、植木の憲法草案は採用されませんでしたが、遥かに時を超え、現行の日本国憲法に大きな影響を与えていることは間違いありません。

 

 こうした自由民権運動の全国的展開を受けて政府は1881年、遂に10年後を期して国会を開設することを決めました。この頃、植木もその結成に尽力した自由党板垣退助を党首として結成されます。

 その後、植木は1890年の第一回帝国議会に向けて全国を奔走します。そして第一回衆議院議員総選挙に出馬、みごと当選し、国会議員としても活躍します。

 しかし、1892年の第二回総選挙を目の前にして、病に倒れ、その短い生涯を終えます。享年35歳。(毒殺説あり)

 民主国家の草案は、民間レベルで明治初期に既に存在していたとは驚きです。近代日本が今後の動向を模索する青年期を迎えると同時に、青年・植木もその人生を近代国家「日本」のために捧げたのです。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

日記に読む近代日本 2明治後期 植木枝盛日記 千葉功=編 金井隆典=著 吉川功文館