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【明六社とは】文明開化をリードする明治の啓蒙思想家達

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【明六社とは】文明開化をリードする明治の啓蒙思想家達」というお話です。

明治政府は 文明開化をスローガンに日本を西洋化をすることで近代国家樹立を目指しました。そんな文明開化を思想の面から人々をリードするべく啓蒙団体が結成されました。明六社です。彼らは『明六雑誌』を通して人々に『天賦人権論』を発表。この思想は後の自由民権運動で強く叫ばれるようになります。

 

  1873(明治6)年、アメリカから帰国した外交官・森有礼の提案により西洋の学会にならって明六社が創設されました。明治6年に創設されたから明六社と言います。覚えやすいですね。 

 「明治維新」による中央集権国家の確立と同時に、日本は国をあげて西洋文明の摂取に取り組みました。いわゆる「文明開化」です。

 

 この明治初期の偉人達を勉強していると、いつも思うのですが、ものすごい危機感が伝わってきます。とにかく一刻も早く近代国家を築きあげ、西洋列強に対抗して日本の独立を保とうと必死です。そのくらい日本の文明は遅れており、いつ植民地にされてもおかしくない状態だったということです。

  そのためには従来の価値観や考えを捨て、西洋の文明を取り入れるしかないと考えられました。

 明治政府は「文明開化」をスローガンに日本を西洋化することで、近代国家樹立を目指しました。明六社とはそんな文明開化を思想の面から推し進めるために集結した啓蒙思想家の団体です。

 啓蒙思想とは何でしょうか。

 啓蒙とは、「蒙(くら)きを、啓(あき)らむ」という語源から来ています。これは「めくらな人々に光を照らすこと」を意味し、人々が絡め取られている過去の常識や偏見、迷信を取り払い、理論的、理性的、科学的に物事を解釈するように導くことです。

 江戸時代の鎖国政策によって日本独自の文化が芽生え、元禄文化化政文化など日本が世界に誇る町人文化が生まれたことは確かです。しかし、いつまでもそれに固執するわけにはいきません。日本を独立国家として存続させるには、西洋の先進的な知識や技術、思想などを取り入れることは必至です。明六社啓蒙思想家達は、日本の文明開化のリーダーなのです。

(ここでいう「めくら」とは目の見えない人ではなく、物事の道理や価値などがわからない人のことを指します。)

 

 そんな明六社の社員には既出の森有礼を中心に、福沢諭吉西周(にし あまね)などの多数の洋学者が勤務しており、彼らは『明六雑誌』の発行や講演会、談話会などで西洋文明の新しい学術や、知識、思想などを広げました。(啓蒙活動)

 

 『明六雑誌』とは、明六社が発行している雑誌ですが、彼らの啓蒙活動に大きな役割を果たしたのが、新聞・雑誌・出版事業の発達です。新聞はすでに幕末から存在していましたが、1870(明治3)年、日本最初の日刊新聞として『横浜毎日新聞』が発行されたのをはじめ、同年代に『東京日日(にちにち)新聞』、『読売新聞』、『郵便報知新聞』、『朝日新聞』などが相次いで出版されました。その多くは政治問題を取り上げて評論するものばかりで、現在のような経済や社会に関する情報はあまり掲載されていませんでした。

 

 明六社が一貫して庶民に伝え続けた思想は、「天賦人権論」です。この思想は、福沢諭吉がアメリカで「平等」という概念を発見したことをきっかけに、他の啓蒙思想家達にも受容されました。そのくらい画期的な思想だったのです。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 そんな「天賦人権論」とは、「人間は生まれながらにして自由・平等であり、幸福を求める権利を持っており、これは国家や天皇から与えられたものではなく、人間が生まれた瞬間から既に持っている権利で、いわば天から与えられた権利であり、国家も侵すことが出来ない固有の権利である。」と主張しています。

 この思想は1870年代半ばから展開されてくる自由民権運動のなかで強く叫ばれるようになります。

 

 疑問に思った方もいるかも知れませんが、そもそもなぜ日本に啓蒙活動をリード出来るような洋学者が多数いたのでしょうか。

  実は、ペリー来航以来、旧幕府は蘭学弾圧を撤回し、必至で蘭学を奨励し、人材育成をしていたのです。当時の西洋の唯一の窓口はオランダのみだったため、蘭学になっています。森を除く、福沢や西などの多数の洋学者は、幕末から幕府の蘭学機関に勤務し、幕臣として蘭学の研究、教育、蘭書の翻訳にあたりました。この下地があったからこそ、日本は明治時代になってすぐに啓蒙活動による文明開化に乗り出すことが出来たのです。

  しかし、1875(明治8)年、政府は、新聞紙条例を制定するなど自由な言論を取り締まるようになります。明六社の活動は徐々に衰退していき、同年11月に『明六雑誌』も廃刊となりました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

もういちど読む 山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社