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【18世紀イギリス】産業革命の光と影

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【18世紀イギリス】産業革命の光と影」というお話です。

 18世紀にイギリスで起きた産業革命は、人々の暮らしを大きく変えることになりました。それまで手工業に近かった生産手段が機械に切り替わって、資本主義社会が発達しました。

 なぜイギリスは世界に先駆けて産業革命を起こすことが出来たのでしょうか。

 それは光と影の2つの理由があります。

 まず、光の部分から見てみましょう。

 自然科学と科学技術への関心がニュートンに代表される科学者に限らず、ワットなどの職人など人々の間に高まっていました。そしてその関心は、発見や実験を通して新しい機械や道具を発明していくことが社会基盤としてあったからです。

 産業革命を推進した要素として重要なのが、ニューメコンが発明し、ワットが改良した蒸気機関です。とりわけ綿工業の分野で取り入れられ、紡績機などが実用化されました。

 1733年にジョン=ケイによって発明された飛び杼(とびひによって、布を織る速度をそれまでの約2倍にすることが出来ました。それによって材料である綿糸の需要が高まりました。これを受け、石炭の火力で作動する蒸気機関を組み合わせて、糸を紡ぐ紡績機の技術革新が進みました。

 

 このような生産技術の革命によって社会には大量の商品が供給され、庶民でも買えるような値段で売られ、大量消費社会が興隆しました。

 

 産業革命の恩恵は機械や機具の発明による大量生産や大量消費だけではありませんでした。スティーブンソンが開発した蒸気機関車フルトンが発明した蒸気船などが実用化されたことにより、鉄道・運河・道路の交通網が発達しました。これによって大量の物資や人員を短時間で各地に輸送することが出来たことです。

 1825年にはイングランドの北東で40キロメートルの鉄道路線が開通し、その5年後には綿工業の中心地であるマンチェスターと貿易港であるリヴァプールの間に最初の旅客鉄道が開通しています。

 

 産業革命前の1600年と産業革命が一段落した1820年の推定国内総生産を比較すると、イギリスは6.0倍と他国のそれより抜きんでています。同期間の経済成長率は、ポルトガル3.7倍、フランス2.3倍、ドイツ2.1倍、オランダ2.1倍、スペイン1.7倍、イタリア1.6倍です。

 

 では、影の理由について見てみましょう。

 発明した機械や道具を実用化し、工場を建設し、商品を大量生産するシステムを構築出来るくらいの財力が蓄積していたことです。

 この財力は奴隷貿易を含む三角貿易によって生み出されていました。

 三角貿易とはヨーロッパの港とアフリカ大陸の西海岸、それに西インド諸島やアメリカ大陸の三拠点を結んで行われた貿易のことです。

 

 イギリスもこの三角貿易に積極的に参加しています。イギリスからアフリカ西海岸へ向かう船は奴隷確保のための武器や弾薬を供給。武器と交換するように多くの奴隷が船に乗せられ、西インド諸島へ向けて出発します。西インド諸島へ運ばれた奴隷はサトウキビ農園で重労働を課せられます。奴隷と交換するように砂糖やタバコをイギリスへと輸送されました。

 当時、砂糖は「白い金」と呼ばれるほどイギリスでは爆発的に売れ、多くの投資家や事業家は奴隷貿易とサトウキビ農園に出資していました。

 当時、イギリスの植民地であったアメリカ大陸では砂糖、タバコ、綿花などのイギリスへの輸出用の商品作物を生産するプランテーション事業が発達。これに比例するように奴隷の数も増していきました。

 

 イギリスはヨーロッパの中でも特に奴隷貿易をさかんに行った国で、その始まりは1562年、アフリカ大陸のシエラレオネから301人の奴隷を西インド諸島に運んだ時です。

 その後、1588年、イギリスがスペイン無敵艦隊を排撃して制海権を確保、さらに1661年の英蘭戦争によってオランダからニューヨークを獲得するとさらにその数はさらに増して行きました。

 

 当初、西インド諸島やアメリカ大陸で行われるプランテーション事業には先住民を使っていました。しかし、先住民が逃亡されると、仲間や武器をかき集め、反撃してくるリスクがありました。そこで、土地に不慣れな異国の人種であるアフリカ人を連れてくることにしたのです。

 アフリカ西海岸からアメリカに運ばれたアフリカ人は200トンほどの船に400~800人が押し込まれる劣悪な環境でした。そのため、到着時には8人に1人が死亡していました。

 この奴隷貿易は18世紀末まで続きました。

 2世紀半にも及んだ奴隷貿易の被害者の正確な数字は不明です。しかし、17世紀後半からイギリスで奴隷貿易が禁止された年までの統計は存在します。

1662年から廃止年までに約341万5500人アフリカ人が船で輸送されています。

そのち、航海中に死亡しなかった296万4800人が奴隷として売却されています。

このような大量のアフリカ人の搾取はアフリカ文化の絶大な喪失であったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

これならわかる アメリカの歴史 石出法太・石出みどり=著 大月書店

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

教科書よりやさしい世界史  旺文社