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【イギリス革命1】イギリス宗教各派をしっかり理解しよう

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【イギリス革命1】イギリス宗教各派をしっかり理解しよう」というお話です。

 

 市民革命とは権力を欲しいままに行使しいている国王に対し、国民が立ちあがることです。このような革命は18世紀以降フランスやアメリカなど各国で見られるようになります。イギリスはその先駆けだったのです。

 

 日本には宗教に関心がある人が多くありません。したがって「宗教や思想の違いごときで戦争なんて・・・」と思う方も多いかもしれません。しかし、海外では宗教とは日常生活に大きな影響を与えている非常に重要なものなのです。

 その人が信仰している宗教を否定するのは、その人の人格を否定することにもなりかねないのです。自分の拠り所としていたものを否定されたり、奪われたりする苦しみは堪え難いものがあるのは想像出来ると思います。

 

 イギリスの市民革命を理解するにあたって、イギリスの宗教各派を整理しておく必要があります。

 現在のイギリスはイングランドウェールズスコットランド北アイルランドからなる連合王国です。しかし、当時はそれぞれが全く別の国でした。

 今回はイギリス市民革命の第1回目ということで、イギリスの宗教各派をご紹介します。全部で4つあります。カトリック(旧教)を含めたプロテスタント(新教)の3宗教ですなお、当時はイギリスという国名はなかったため、イギリス国教会ではなく、イングランド国教会として紹介することにします。

 

カトリック

イングランド国教会

ピューリタン

プレスビテリアン

 

イギリスの歴史的な流れに沿って、それぞれの宗教についてご紹介していきます。

            プロテスタント(新教)

イングランド国教会

ピューリタン

プレスビテリアン

監督制度(主教制度)

会衆制度

長老制度

イングランドを拠点

イングランドを拠点

スコットランドを拠点

ヘンリ8世が設立

大陸から渡来

大陸から渡来

イングランド独自の派閥

カルヴァン派

カルヴァン派

カトリック

 キリスト教イングランドに渡来したのは、6世紀末にローマ教皇・グレゴリウス一世が、アウグスティヌスと約40人の修道士を宣教師としてイングランドに派遣した時です。

 イングランドに上陸した一行は、キリスト教カトリックの布教活動を行います。やがて、その活動はイングランド全域に広がり、13世紀にはカトリックイングランドに定着し、イングランドカトリックによって政治的にも宗教的にも支配されることになります。このカトリックの影響を断ちきり、ヘンリ8世が新たに設立した宗教が次に紹介するイングランド国教会でした。

 

イングランド国教会

イングランドは1485年にヘンリ7世によって統治され、テューダー朝が誕生しました。ヘンリ7世の子供であるヘンリ8世は、1534年に国王至上法を発布し、イングランド国教会(以下、国教会)を設立します。ヘンリ8世はもともと熱心なカトリックであったはずなのに、なぜカトリックと断絶してしまったのでしょうか。

 

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  ヘンリ8世の死後、息子や娘達が後を継ぎます。ヘンリ8世の後を継いだエドワード6世は、1549年に一般祈祷書を制定し、国教会プロテスタントとして正式に体系化されました。

 しかし、1553年に即位したメアリ1世は、イングランドに再びカトリックを呼び寄せます。たとえば、カトリック国のスペイン王子であるフィリッペと結婚するなど国内の情勢を不安定にさせました。

 その後、1558年に即位したエリザベス1世統一法を制定することで国教会を確立。不安定な情勢にピリオドを打ち、安定をもたらしました。

 国教会の特徴は監督制度であり、国王をトップとした完全身分制ピラミッドが敷かれていました。これはカトリックの影響を強く受けてた結果であり、儀式もカトリックが色濃く残っていました。

 

ピューリタン清教徒

 16世紀初頭、スイスのカルヴァン宗教改革を起こし、カルヴァン派の宗教が誕生しました。カルヴァン派はその後、ヨーロッパ全土に広がり、フランス、オランダと広がっていきました。

 イングランドでも、メアリ即位後に大陸に亡命していたプロテスタントがエリザベスの治世に帰国します。彼らはピューリタンと呼ばれ、カルヴァン派の影響を強く受けていました。やがて、このカルヴァン主義はスコットランドにも伝来しました。

 カルヴァン派は国によって呼び名が違うので、ちょっとやっかいです。フランスではユグノー、オランダではゴイセン、イングランドではピューリタンスコットランドではプレスビテリアンと呼ばれました。

 

「質素・勤勉・禁欲」を美徳とするピューリタンは、クリスマスで賑わうカトリックを批判。さらに、イングランド国内には本来の聖書に基づかない祈祷・礼拝・式典・実践が横行しており、それらを「ピュアリファイ=清める」必要があると考えました。これがピューリタンの由来です。

 エリザベス1世はカトリックピューリタンなど非国教徒には寛容な姿勢を示したため、イングランドの均衡は保たれていました。

 しかし、エリザベス1世の死後、スコットランド国王であったジェームズ1世がイングランドと共同統治というカタチで国王に即位します。ジェームズ1世は国王をトップとするイングランド国教会に魅力を感じ、イングランド及びスコットランド国教会一色に染めることで自らの地位を高めようとします。

 このような国王の国教会強制に国内のピューリタンは不満をつのらせます。

 ピューリタンの最大の特徴は会衆制度であることです。ピューリタンは国教会のような国王を頂点とする身分制ピラミッドを強いる監督制度に強く反発。教会は身分制度などなく、万人祭司の精神で国王からは独立した存在であると主張しました。

 

プレスビテリアン

 先述の通り、こちらもカルヴァン派の宗教であり、ヨーロッパ大陸から伝来した宗教ですが、スコットランドを拠点に発展していきました。

 プレスビテリアンの特徴は長老制度であり、彼らもピューリタン同様に監督制度に強く反発し、彼らは一般信者の中から経験の深い指導者を長老とし、その長老が教会を運営するべきであると主張しました。

 1625年、ジェームズ1世の死ぬと、彼の息子であるチャールズ1世が即位しました。しかし、チャールズ1世もまたイングランド及びスコットランドに国教会の強制をします。

 

これに反発したスコットランドプレスビテリアンは1637年、反乱をおこすのでした・・・。

 

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

ピューリタン革命と複合国家 岩井淳=著 山川出版社

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

対話で入門 西洋史  赤阪俊一=著   森話社

日本人のための世界史入門 小野野敦=著 新潮新書

教科書よりやさしい世界史  旺文社