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【安藤昌益】封建社会を批判し、ユートピア社会を提唱した学者

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【安藤昌益】封建社会を批判し、ユートピア社会を提唱した学者」というお話です。

 江戸時代は様々な学問が発達した時代です。その代表例は儒学とよばれるもので、

 孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学

 孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学

 さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。

 

 古学派に属し、古文辞学の創始者である荻生徂徠は、『論語』の教えはという政治の在り方を示したものであると説き、それは、「世を経(すく)い、民を守る」という経世済民の術であり、経済の活性化こそが天下安泰の世を実現するために必要であると唱えました。

 

 やがて、荻生徂徠の系統から太宰春台という人物が現れ、彼は著書「経済録」で経済の重要性を日本で初めて提唱。経世論者の先駆けとなるのでした。

 江戸時代も中期になると都市部だけでなく、農村にも徐々に貨幣経済が普及してきます。すなわち、物々交換からお金でモノを買うという機会がどんどん増えてきたのです。封建制社会ではあったものの、生活物資が増え、人々も便利で快適な生活を求め、それらの生活物資を買い求めたことで、欲深い商人達が物価を上昇させていきました。これらは元禄文化といわれる好景気な時期です。

 

 それに伴い、18世紀後半になると学問や思想においても、経世論を唱える学者が登場してきます。

 1781年、工藤平助は著書・『赤蝦夷風説考』で当時蝦夷地と呼ばれていた北海道との貿易を主張。時の老中・田沼意次はこの書籍に感銘を受け、蝦夷地開拓に乗り出そうとします。ところが、1787年に田沼に代わって老中に就任した松平定信はこの計画を却下。

 さらに1786年に林子平は著書・『開国兵談』で日本の外国への侵略の備えが不十分であり、富国強兵の必要性を説きますが、定信は幕府への批判だとし、弾圧を加えます。

「近代国家の樹立」を目指す田沼に対し、定信は「伝統的国家への回帰」を目指そうとしていたのです。

 

工藤も林も「近代国家の樹立」を主張していますが、反対に「伝統的国家への回帰」を主張した学者もいました。定信が好きそうな人です。

 

それが安藤昌益という人物です。昌益は著書・『自然真営道(しぜんしんえいどう)』で農業を重視し、ユートピアのような平等社会を構想しました。

ということで今回は安藤昌益(1703~1762)の思想について紹介します。彼が生まれた1703年頃は元禄文化の全盛期であり、日本中が平和で賑やかになっていた頃です。秋田藩に生まれた昌益は、当時の武家社会を徹底的に批判し、農業を中心とする無階級社会を理想としました。

昌益は「武家社会は差別と搾取の世界である。全ての人が農業に従事し、差別のない平等社会への回帰を求める。」

 

江戸時代は士農工商という身分制度がはっきりしており、林羅山徳川家康の命によって、儒学の中の朱子学を体系化し、「人は生まれながらに尊卑の差があるのだ。」という上下定分の理という価値感を人々に徹底的に植え付けました。

したがって、江戸時代は平たくいうと「差別の世界」です。

また、全人口の7%を占める武士は残り93%を占める農民、職人、商人が汗水垂らして得た米やお金を「禄」という現代でいう給料のようなカタチで貰っていました。

したがって、江戸時代は平たくいうと「搾取の世界」です。

実際に全人口の87%を占める農民は、朝から晩まで重労働を課せられる割に満足に飯が食えない状態でした。

昌益は自らが生きた江戸時代のありのままが見えていました。これらの点は紛れもない事実です。

 

 

しかし、昌益は大きな間違いを起こしています。

「全ての人が農業に従事し、~」という点です。

かつて存在した弥生時代のような身分制度がなく、差別のない自給自足の生活をしていくことを提唱しています。

しかし、時計の針を逆戻しするような生活はどんな時代においても不可能です。

 

例えば、現代人に対して、「環境問題が深刻なので、これからは工場を閉鎖し、商売を辞め、車や電車も捨て、コンビニやレストランもなくし、毎日農業に励む自給自足の弥生時代のような暮らしをしていきましょう」と促しても絶対に無理です。今更現代人が、そんな暮らしを出来るはずがありません。

時代は課題を抱えながらも、より便利に、より快適に、より平和になってきているのです。

これは時代を超えて共通する「原理原則」なのです。

 

昌益はそれを知っていたのかどうかは定かではありませんが、江戸時代は非常に平和な時代でした。少なくても戦国時代よりかははるかに平和です。さらに、江戸時代中期(18世紀)になると、お金という最も便利な道具が開発され、商品作物が豊富につくられ、以前よりおいしいものや便利なものが出てきたわけです。そんな時代に農業回帰とは少し強引な考えですね。

こんなユートピア世界は当時の江戸時代にはハッキリ言って受け入れられませんでした。

しかし、20世紀初頭に日本が社会主義国家を求める風潮が起こりましたが、その頃、彼の思想は社会主義共産主義につながるものがあると再評価されます。

1927年にレーニンがロシア革命を起こし、1931年にソビエト社会主義共和国連邦という国が

成立したのです。

 

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。