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【八月十八日の政変】なぜ薩摩と会津が手を組んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【八月十八日の政変】なぜ薩摩と会津が手を組んだのか【一橋慶喜】」というお話です。

京都で勢力を伸ばした長州藩は、三条実美(さんじょうさねとみ)ら過激派の公卿と手を組み、攘夷を実行します。過激派はこのような基本計画のもと、天皇の大和行幸を計画します。攘夷にはやり、討幕を目論む長州藩を危険視した薩摩藩会津藩が手を組み、「八月十八日の政変が勃発。行幸は計画のみに終わり、長州系の志士や過激派の公卿は京都を追放されるのでした。こうして長州藩薩摩藩に強い恨みを持つようになるのでした・・・

 

  幕末の動乱期は、幕府を補佐し、開国路線を推進する佐幕開国派と、天皇中心の国家体制(尊王)を主張し、外国を打ち払う攘夷路線を推進する尊王攘夷の2つの政治思想の対立が起きていました。佐幕開国派には会津藩などの保守派の親藩譜代大名が。尊王攘夷派には薩摩藩長州藩水戸藩、越前藩といった外様大名を含む雄藩がそれぞれつき、互いに牽制し合う関係にありました。

 

 桜田門外の変大老伊井直弼が失脚した後の佐幕開国派は久世・安藤の連立政権が誕生します。しかし、天皇に無勅許で通常条約を締結し、外国の圧力にあっさり屈する佐幕開国派に対し、尊王攘夷は反感を持っていました。したがって、坂下門外の変での安藤が失脚すると、佐幕開国派はその権威を最低ランクにまで失墜させてしまいました。

 すると、今度は薩摩藩主である島津久光文久の改革によって、佐幕開国派は完全に潰え、幕府は尊王攘夷派が主導権を握るようになりました。

 

 ところが、その尊王攘夷もやがて2つの勢力に分かれるようになってしまいました。

 1つは薩摩藩のようなあくまで幕府の組織体制を維持したまま、人事面において一橋慶喜松平慶永のような自分達の意向に沿う人物を登用する尊王攘夷公武合体(穏健派)。 

 もう一つは、長州藩のような幕府そのものを倒し、全く新しい国家体制を築こうとする尊王攘夷過激派です。

 公武合体路線を進む薩摩は、そんな急進的な長州藩を危険視するようになります。

 

やがて公武合体推し進める幕府・薩摩と、討幕を推し進める長州・朝廷という対立構造が激化してくるようになります。

 

  薩摩藩島津久光が江戸で文久の改革を行っている頃、尊王攘夷の過激派である長州藩は京都で勢力を伸ばし、三条実美ら過激派の公卿と手を組み、朝廷内を牛耳っていました。

 1863年4月、京都に上洛した江戸幕府14代将軍・徳川家茂は朝廷から攘夷実行を執拗に迫られていました。しかも、単に実行するという曖昧な返事ではなく、具体的に何月何日から攘夷を行うのかを答えるよう要求され、ついに家茂は五月十日と決めました。もちろん、その日付に根拠はありません。家茂の苦し紛れの返答です。

  同年5月に早くも長州藩は下関の関門海峡を通る外国船を砲撃しました。(長州藩外国船砲撃事件)攘夷決行です。ところが、他藩はその攘夷に加勢する気配がなく、結果として長州藩単独の暴走行為のようなカタチになってしまいました。

 

 納得がいかない長州藩は、今度は天皇の権威を利用して全国の諸藩に攘夷実行の命令を下そうと考えました。

  そこで、久坂玄瑞桂小五郎などの長州系の志士や三条などの過激派の公卿は、孝明天皇の大和(奈良県)への行幸天皇の外出)を計画しました。目的は天皇神武天皇陵や春日大社を参拝して攘夷を祈願するというものでしたが、本音は、天皇を京都から大和に移すことで自分達の手中におさめようという魂胆です。

 その上で、天皇の意向として全国の諸大名に攘夷実行の命令を出そうとしたのです。そして、もし幕府が天皇の意向に背いた場合、容赦なく征討するとう討幕思想がありました。

 

 しかし、孝明天皇には攘夷の意思はあっても討幕の意思はありませんでした。つまり過激派の連中は天皇の権威だけを利用し、「天皇のご意向」として幕府を倒す大義名分を立てようとしたのです。孝明天皇はそんな過激派の暴走をさすがに危険視するようになります。しかし、三条らは8月13日を天皇行幸日として強引に決定してしまいました。

 

天皇は信任の厚い皇族・中川宮朝彦親王にその不満をもたらします。

公武合体派の中川宮は天皇の真意を知ると、京都政界から過激派の一掃を策しはじめました。

まず、中川宮は長州藩に危機意識を持っていた薩摩藩に接触。事情を説明しました。さらに古くから徳川家に忠誠を誓い、前年に京都守護職を務めていた会津藩にも接触し、事情を説明しました。

事情を聴いた会津・薩摩の両藩は、中川宮の提案に同意。こうして会津・薩摩が手を組み、クーデターを起こし、長州藩兵や過激派の公家を京都から追い出す計画が内密に決定されました。

そして8月16日、孝明天皇から直々に「兵力を持って国家の害を取り除くべし。」とする勅状が出され、決行日は18日の未明に行われることになりました。

 

18日午前1時を集合時間とし、中川宮ら公卿が京都御所に参内し、門番にこう命令しました。

「大和行幸天皇の本意ではない三条実美ら過激派の公卿」9つの門を厳重に閉鎖。これらの門は、薩摩、会津、および京都所司代を務める淀藩の兵が守ることになり、いずれも武装してつめかけた。

ところで会津藩では、前年に藩主・松平容保京都守護職に任じられて以来、1000人の兵を京都に駐屯させていた。それが毎年8月に国許の藩士1000人と交替することになっていたのだが、政変のため、11日に帰国の途についたばかりの1000人が京都に呼び戻されていました。

これによって、一時的に京都の会津藩兵は2000人を擁することになりました。長州藩側は2700の兵力があったから、会津の人員倍増は公武合体派にとって大きかった。

午前4時には朝議が行われ、尊王攘夷の過激派公卿の参内禁止や長州藩兵による御門警備の解任が決定された。

 

異変に気付いた三条らは急いで御所に向かうが、9つの門は閉ざされており、中に入ることが出来ない。

長州藩兵も持ち場である御門に駆けつけたが、薩摩・会津の兵が厳重に固めていてどうにもならなかった。両軍は門前でにらみあい、双方とも大砲、小銃、槍をかまえて一触即発の状態のまま対峙を続けました。

そんな中、朝廷から長州側に退去命令が下されました。

「わかった。我々は引き揚げる。しかし、貴藩がいまのように銃口を我々に向けたままでは部門の習いで引き下がるわけにはいかない。出来ればここは双方ともに引くというカタチにしてもらいたい。」

薩摩はこれを了承し、兵士達に武器を収めさせた。

引き揚げた長州側の久坂玄瑞桂小五郎真木和泉らは密かに軍議を開き、決断します。

「ここはひとまず長州に撤退し、態勢を整えた上で再起をはかるしかない」

こうして翌日19日、三条ら7人の過激派の公家を長州藩兵が護衛するカタチで京都を去り、長州に向かいました。この一連の事件は「八月十八日の政変」とよばれていますが、7人の公卿が失脚した事件でもあるので「七卿落ち」とも言われています。

 

この事件によって、公武合体派は、尊王攘夷の過激派の連中を京都から一掃することに成功したのでした。

以後、長州藩は薩摩に対し、ぬぐいがたいうらみを抱くようになったのでした・・・。

以上。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。