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【新撰組誕生】なぜ新撰組が組織されたのか【松平容保】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【新撰組誕生】なぜ新撰組が組織されたのか【松平容平】」というお話です。

 時の老中・堀田正睦(ほったまさよし)朝廷の政治介入のきっかけをつくって以来、政治の中心として江戸から京都に注目度が高まるようになりました。京都の町では長州藩を代表とする尊王攘夷が勢力を拡大。自分達と主義主張が異なる人物や外国人を殺害する「天誅(てんちゅう)」と呼ばれるテロ行為を開始するのでした。

 

  1854年、日本はペリー来航を機に日米和親条約を結び、それまでの鎖国制度が破られ、開国をしました。しかし、貿易開始については先送りにされました。

 そして1858年、タウンゼント・ハリスが在日アメリカ公使として下田に到着。ハリスは幕府を相手に貿易開始のための日米修好通商条約の締結交渉を開始しました。

 時の老中・堀田正睦は世論には通商条約締結に反対意見が多いことを理由に、朝廷から勅許(許可)を得ることで国論を一致させるという苦肉の策を思いつきました。

 

 しかし、これが完全に裏目に出る結果となりました。しかし、孝明天皇は大の外国人嫌いで、条約への承認を与えようとはしませんでした。

 こうして堀田が条約勅許問題で失脚した後、1858年、大老に就任した伊井直弼は朝廷の反対を押し切って独断で通商条約を締結してしまいました。

 これに尊王攘夷一橋派は猛反発。正睦の苦肉の策は、何の成果も収めないばかりか、幕府の権威を大きく低下させ、公家勢力を政局の中心に押し出す結果を招いてしまったのです。

 

 ここから京都の町は、政治の中心として一気に注目を浴びるようになりました。

すると、尊王攘夷を唱える志士達は、公家と接近することで自分達の考えを朝廷の意思にしようと暗躍を始めます。

 諸藩の下級武士や豪農、商人などあらゆる層から尊王攘夷を唱える志士が生まれ、彼らは京都の町で、自分達と主義主張が異なる人物や外国人、そして幕府側の人物に対し、「天誅(てんちゅう)」と呼ばれる「人斬り」を始めました。「天誅」とは天に代わって誅罰を加えることを意味するいわゆる「テロ行為」であり、彼らは自身の思惑を「天の意思」と勝手に決めつけ、自分達のテロ行為を正統化しました。

 

 中でも尊王攘夷の旗頭として台頭してきたのが、長州藩です。松下村塾出身の久坂玄瑞(くさかげんすい)、明倫館で吉田松陰の思想を強く受けた桂小五郎木戸孝允は朝廷内を尊王攘夷の思想で染め上げ、京都の町は長州藩が支配しているような様相を呈したのでした。

  このような朝廷工作と、テロ行為によって、京都の治安は瞬く間に悪化してしまいました。

 京都の治安回復のため、幕府京都守護職という役職を新設します。任命されたのは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)です。容平は会津藩兵だけでは京都の町を守りきれないと判断し、江戸近在の一流の剣術を持つ浪士を募集。尊攘派の取り締まりを専門とする「特別警察隊」を組織します。こうして生まれたのが新撰組です。

 

  幕府は京都の治安を回復するため、京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)をその役職に任命しました。会津藩とは古くから徳川家に忠誠を誓ってきた親藩であり、その藩主である容保は幕府配下の京都守護職には適任でした。

 こうして1862年12月、容保は上洛し、会津の知事を行うと同時に、京都守護職としても活動を開始しました。

 

 当初、容保は京都でテロを働く志士達に対話路線により、局面を打開しようとしました。しかし、志士達は聴く耳を持たず、活動は収まる気配がありませんでした。そこで容保は、自藩の会津藩兵を京都に派遣。彼らに以下のように命令しました。

「洛中(京都市内)の巡回を命ずる。テロ行為を繰り返す連中を一人残らず捕縛せよ。奴らは頭の狂った連中だ。反抗した時は問答無用で斬殺せよ。」

 しかし、志士達は会津藩兵の警戒網をくぐり抜け、「天誅」を繰り返す結果となり、成果を上げることが出来ずにいました。

 そんな中、容保においうちをかける出来ごとが起こります。

 朝廷を牛耳る久坂玄瑞らが幕府に対し攘夷実行の許可を申し出たのです。14代将軍・徳川家茂は、やむなく以下のように答えます。

「翌年、和宮降嫁のお礼言上のために上洛する。返答はその際に。」としました。

和宮とは、孝明天皇の妹であり、家茂の妻です。2人は公武合体作戦のために政略結婚をしていたのです。)

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

  朝廷の権威は異様なまでに強くなり、対する幕府は腰が引け、朝廷に寄り切られていく状態でした。

 

 容保は焦ります。テロ行為が横行している京都の町に将軍・家茂を上洛させるなどあまりに危険な行為です。容保は会津藩兵だけではゲリラ的なテロ活動を阻止することが出来ないと判断し、京都市内の尊攘派の取り締まりを専門とする「特別警察隊」を組織することを決めました。新撰組の誕生です。

 

 よく誤解されていることですが、新撰組とは幕府側の部隊であり、幕府が新設した京都守護職のもとで、特別警察隊として尊王攘夷派を取り締まり、京都市中の治安維持のために働きました。

 容保は江戸近在の浪士を募集し、集まった浪士は230人余り。その中には後に歴史に名を残す近藤勇土方歳三沖田総司永倉新八などの姿がありました。

 彼らは剣術にかけては誰にもひけをとらない遣い手で、自分の腕を将軍警護という名誉ある仕事に役立てられることを喜びました。

 新撰組は1863年3月に結成され、同士を統率する局長には近藤勇が就任。副局長には土方歳三が就任しました。

 隊の象徴ともいうべき隊旗には、赤地に白く「誠」の一字を染め、彼らの偽りのない心が表され、制服としてつくられた浅葱(あさぎ)色の羽織には袖と裾の部分に白い山形模様をあしらいました。

 近藤も土方ももともと武士ではなく、農民の出身であっため、武士に対するあこがれは人一倍強く、自身に対しても隊士達に対しても真の武士であることを求めようとしました。こうしてつくられたのが、「局中法度(きょくちゅうはっと)」と呼ばれる隊規です。

 こうして、新撰組は将軍上洛に先駆けて京都に先発されるのでした。

 

 以後、新撰組尊攘派の志士達と死闘を繰り広げるのですが、問答無用の取り締まりは長州藩をはじめ多くの反発と軋轢を招く結果となりました。

 

 これが幕府と長州藩の全面戦争へと発展していくのでした・・・・。

以上。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。