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【吉田松陰】テロリストと呼ばれた幕末の変革型指導者(後編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【吉田松陰】テロリストと呼ばれた幕末の変革型指導者(後編)」というお話です。

  前回に引き続き、吉田松陰という人物を取り上げ、変革型指導者についてみていくことにしましょう。

 

 吉田松陰は、幕末を代表する変革型指導者であることは間違いありません。変革型指導者とは、現状維持や改善・改良をするのではなく、抜本的に組織を変えるリーダーのことです。以下、変革型指導者の6つの特徴を列挙します。

(1)自ら変革の推進を行う。(率先推進)

(2)現状に向きあい、果敢に立ち向かう(勇気がある)

(3)一貫した価値基準で動く(価値基準や信念がはっきりしているため、迷いがない)

(4)人にやる気を起こさせる。

(5)生涯に渡って学び続ける(自己啓発に貪欲である)

(6)ビジョンを追う。(夢を描き、夢を語り、みんなと共有出来る。)

 

 1851年に長州藩を脱藩し、東北に旅に出た松陰に対し、長州藩は何らかの処罰を与えなくてはなりません。翌年の1852年、長州藩は松陰を脱藩の罪で士籍を剥奪し、家禄を没収しました。今風にいうと武士という職業をクビになったということです。松陰自身は実家に送り返され、親族による保護観察付きの居候をすることになりました。

 

 1853年、松陰は下田にアメリカ東インド隊司令長官・ペリー率いる黒船が停泊しているという情報を入手します。松陰は黒船を一目見ようと下田に急ぎました。

「海外の科学技術はかなり進歩している。」

 松陰だけでなく、江戸の庶民は時代のうねりを強く感じました。「和魂洋才」を掲げた松陰は、海外の技術を学習するべく海外渡航への関心を一層強めたのでした。

 

 そして翌年の1854年、ペリーが2回目の来航した際に、松陰は密航を企てます。地元漁民から小舟を借り、ペリーの乗る黒船に向かって舟をこぎ出したのです。そしてペリー率いるアメリカ艦隊に願い出ます。

「書物を読むにつれ、欧米の文化、産業のなりたちを知り、ぜひ、世界中を見聞したいと思うようになった。海外への憧れは断ち難い。祖法を犯すことは百も承知だが、どうか私の情熱に免じて貴艦に乗りこませて頂きたい。」

 しかし、アメリカ艦隊は松陰の嘆願を拒否。

 さらに乗ってきた小舟が流されたことで証拠隠滅が出来なくなった松陰は幕府代官所へ自首。松陰は連行され、下田奉行所は松陰を牢獄へ閉じ込めました。牢獄は長く横に寝ることも出来ない天井の低い牢獄で、下田奉行所はみせしめのための屈辱を与えたつもりですが、松陰には明確な目的と大義のある行動だったため、一点の曇りもありませんでした。むしろ彼は晴れ晴れとした気持ちで堂々としていました。

(3)のように松陰には「和魂洋才」という明確な価値基準を持って行動しているため、決断や行動に迷いがないのです。

 

その後、松陰は長州藩に送り返され、藩は彼を野山獄へ幽閉しました。

 

 この密航未遂事件では松陰の他に、彼の師匠にあたる蘭学者佐久間象山連座として投獄されました。幕府内では、松陰と佐久間象山の処刑が提案されましたが、時の老中・阿部正弘はこれに反対。おそらく自首を評価したのでしょう。

 

 投獄された松陰はなんと獄中で囚人達に講義を始めます。

 獄中においては人間誰しも生きることに絶望します。しかし、松陰は学問について囚人達に説きます。

「教養のない者は、とにかく読書をせず、表現力がないから暴力や犯罪を繰り返す。人間は言葉を知り、それを自身に言い聞かせることで自身の感情を制御することが出来るのだ。」

 現代ですら、ここまで言える人はそうそういません。まだ心理学が発達していない当時でも松陰はここまで人間の心理を見抜いていたのです。

 

 囚人達は最初、聞き流していましたが、松陰の熱心な講義に対し、しだいに日本の危機感を感じるようになり、講義に耳を傾けるようになりました。やがて囚人達はどんどん勉学に励むようになり、松陰も理解出来るまで親切丁寧に指導した。

 松陰は(4)のように、人にやる気を起こさせるのが得意です。人は情熱を持つ人に惹かれるものなのです。その結果、一人では成し遂げられないことが可能になるのです。

 例えるなら、童話・桃太郎です。イヌ・サル・キジの3匹は桃太郎の情熱に惹かれ、死ぬかもしれない鬼退治に向かうことを決めたのです。人に頼るのではなく、人から頼られる人になることで、あなたの元に強力な助っ人がついてくる。そして、この後、いよいよ松下村塾を開き、自分の弟子(仲間)を持つようになるのです。

 

 1年後、釈放された松陰は、1855年、またも実家預かりの身となりました。このような境遇下で松下村塾を開き、久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋といった明治の英傑達の育成を始めます。

 松陰の熱い講義を受けたいと入門希望者が殺到しました。

 松下村塾には試験がない代わりに松陰は入門希望者にこのように尋ねたようです。

「お前さん、学問に目的意識があるか」と。

 多くの入門希望者は「読み書きの知識を身につけたい」と答えます。しかし、松陰は学んだことを実行しなさい。読書得た知識を持ち合わせても使わなくては何にもならない。と諭しました。松下村塾の教育方針は実学です。「知識は知っているだけでは、単なる生き字引にしかならない。知識は実際に行動に移して初めてその価値を発揮する。そうして自分の人生をより良くしていくのです。」

 松陰自身も、一生を通じて学び続けています。(5)のように松陰は自己啓発で貪欲で、自らはどんどん成長しています。

 授業料が無料であるにも関わらず、多くの塾生が謝礼を持ってきたようです。

 

 1858年、幕府は天皇の勅許(許可)を得ずにアメリカと日米修好通商条約を締結しました。天皇中心の国づくりを謳っていた松陰は大激怒。こんな天皇を蔑ろにする行為に我慢出来ず、すぐ時の老中・間部詮勝に条約破棄を迫り、拒んだら討ち取る計画を立てます。そして、長州藩に襲撃計画のために武器弾薬の借用を申し出ます。

 当然ですが、長州藩はこの申し出を拒否。そして極めて過激な発想を持っている危険人物として松陰の身柄を確保。幕府へ引き渡したのでした。

 1859年、松陰は幕府の役人から徹底的な訊問を受けます。「至誠」の心を持った松陰は包み隠さず天皇中心の国づくりと、幕府に条約破棄を直訴しようとしていた旨を自白。遠島(島流し)の刑に処するところを大老伊井直弼は独断により斬罪が下されました。そして、松陰は小伝馬町の牢獄屋敷において斬首の刑に処せられたのでした。享年29歳。これが世に言う「安政の大獄」です。

 直弼は、自身に刃向かう者を処断して権力を強化することにより、幕府を中心とする政治体制の立て直しを図っていたのです。

 ところが、この幕府の独断は、有識者の反感を買い、桜田門外の変で直弼が暗殺されるという事件を引き起こしてしまうのでした。

 

 熱血先生である松陰ですが、一方で血気盛んなテロリストという意見もあります。何度注意しても暴走行為をやめないので、大老・伊井直弼の安政の大獄でしょっ引かれただけの男であると。

  なぜ吉田松陰はテロリストと呼ばれているのでしょう。松陰は幕府という官僚体質の組織を嫌い、天皇を中心とする新しい国家体制を創ろうとしたからです。松陰が軽視したのは、‘手続きを踏む‘ということです。松陰の行動力は抜きんでていますが、何をやるにも正しい手順を踏んで行動しなければなりません。これは幕府や藩サイドからすれば、「破天荒」、「暴走族」と思われても仕方のないことでしょう。

 

 しかし、「松陰はテロリストである」とは保守派の一方的な意見であり、松陰のとった行動や手段にのみにしか注目しておらず、本質的な部分を見ていない。

 保守派とは、言い換えると既存の体制から恩恵をもらっている人達のことを言い、大体は支配する側の事を言います。この場合、幕府や諸藩です。彼らからすれば、松陰ほど厄介な奴はいません。松陰のような改革や変革を目指す志士は、なので、松陰は安政の大獄で斬首に処されたのです。まさに‘厄介払い‘です。

吉田松陰の目的は何でしょうか。一言でいうと、近代化です。もう少し詳しく言うと、富国強兵です。富国強兵とは読んで字のごとく国を富ませて兵力を強化するということですが、多くの方がおご存じのように明治時代に実現します。(6)にあるように松陰は明確なビジョンを持っていました。そしてそのビジョンを彼の意志を継ぐ塾生達と共有していたのです。

 松陰は現実から目をそむけ続け、その一方で、日米修好通商条約という不平等条約をあっさり結び、属国路線を選んだ幕府の不甲斐なさに怒りを覚えたのでしょう。現状維持に甘んじた国や組織は衰退する。旧体制はいつまでも維持出来ない。現代の日本は、国も国民も変化を求められているのです。これについてはまた別ブログで。

 

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。