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【公武合体】時代の犠牲となった皇女・和宮【安藤信正】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【公武合体】時代の犠牲となった皇女・和宮安藤信正】」というお話です。

 老中・安藤信正桜田門外の変で伊井直弼が暗殺されたことで、地に落ちた幕府の権威を対立する朝廷と友好関係を築こうと公武合体運動を推進します。その具体策として政略結婚が行われ、孝明天皇の妹・和宮親子(かずのみや ちかこ)は将軍・家茂へと降嫁するため、婚約者だった有栖川宮との婚約を破棄されてしまうのでした・・・

 

 

  幕末の動乱期は、幕府を補佐し、開国路線を推進する佐幕開国派と、天皇中心の国家体制(尊王)を主張し、攘夷路線を推進する尊王攘夷の2つの政治思想の対立が起きていました。

 1860年、大老伊井直弼桜田門外で暗殺されると、幕府の実権は老中の久世広周安藤信正による連立政権が誕生しました。久世は割と尊王攘夷に理解を示すハト派なのに対し、安藤は直弼の意志を継ぐ強固なタカ派でした。主席老中の座には久世がついたものの、政権の実権は安藤が握っていました。

 この久世・安藤政権が推し進めたのが、公武合体運動と呼ばれるものです。

 

 公武合体とは、朝廷(公)と幕府(武)が友好関係を築くことによって両者の対立を解消し、政局の安定を図ろうというものでした。これが成功すれば、尊王攘夷が幕府に反抗する根拠はなくなってしまい、幕府は確実に強化されるということになります。

  公武合体を実現する具体策として孝明天皇の妹である和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を、江戸幕府14代将軍・徳川家茂に嫁がせるという計画が立てられた。いわば政略結婚である。家茂とは、かつて将軍継嗣問題一橋慶喜との対立に勝利し、14代将軍に就任していました。

 

 この幕府側からの降嫁の申し入れを、孝明天皇は断固反対。というのも、和宮には、既に皇族の有栖川宮 熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王という婚約者がいたのです。

  しかし、公卿の岩倉具視が説得にあたり、どうにか天皇の承諾を得ることに成功します。岩倉は、天皇家と将軍家が和解することで、朝廷が国政に介入することが出来ると考えており、この公武合体は絶好のチャンスだと見たのです。

 

 ただし、和宮降嫁には条件がありました。それは、孝明天皇の悲願である攘夷を数年以内に必ず実行するということです。攘夷と言っても、諸外国と結んだ通商条約をいまさら破棄することなど現実には不可能であったが、幕府はとりあえずこの条件を呑んだ。今は、公武合体の実現が何よりも第一と考えたのでした。

 

 こうして、政略結婚の犠牲となった和宮は、有栖川宮との婚約を解消し、武家という見知らぬ世界に嫁いでいくのでした。

 愛する婚約者と別れを告げ、悲しみをこらえて将軍・家茂に嫁ぐことを決心した和宮は、兄である孝明天皇への手紙に、涙ながらにこう記している。

「天下泰平のため、誠に嫌々のこと、余儀なくお受け申し上げ候」

 

 こうして1860年、天皇家と将軍家の婚礼は正式に決定し、和宮の婚礼は、1861年に行われることが決まりました。

 

しかし、こうした和宮の降嫁と幕府の公武合体作戦に対し、尊王攘夷の志士達は猛反発。

 

 尊攘派は、幕府は天皇の妹を人質にとったのだと痛烈に非難するほどに至りました。それに加え、久世・安藤が孝明天皇を退位させ、幕府のいいなりになるような新天皇を即位させようとしているとの噂も上がりました。これを信じた他の尊攘派の志士達も激昴しました。

  尊攘派の志士達は、桜田門外の壮挙を再現しようと、久世・安藤のうち、安藤の暗殺を計画しました。

 

 1861年、まだ和宮の婚儀が整っていないこの日に襲撃は決行されました。江戸城坂下門外待ち伏せ尊攘派の志士達は、安藤の行列を確認すると、直弼の時と同じ方法で襲撃を行いました。しかし、襲撃側の人数が少なすぎたことが原因で、安藤の50人の行列と斬り合った末、襲撃側は全員が死闘を遂げてしまう。(坂下門外の変

 安藤は背中に軽傷を負う程度で済みましたが、これが後に問題となります。

 

 まもなく、和宮と家茂の婚礼が行われ、和宮は家茂の正室として江戸城の大奥に入りました。孝明天皇和宮が、江戸城・大奥にあっても天皇御所と同じような生活環境を保てることを幕府に認めさせており、幕閣達は和宮の御所風を容認していました。

 しかし、大奥の御局(おつぼね)達はそうはいきませんでした。御局達は、和宮を忌み嫌い、自分達の流儀で彼女をしつけ直そうとしました。

 

 和宮は憂鬱な日々を過ごします。

 

 そんな彼女に味方したのが夫・家茂です。家茂は非常に温厚な性格で、都から嫁いだ和宮に心を配っていました。よって政略結婚による結びつきでしたが、結婚後の2人には次第に愛情が生まれました。

 しかし、1866年に夫・家茂は病死してしまうため、2人が夫婦であった期間ははわずか4年ほどでした。和宮の悲劇はどこまでも続いてしまいます。

 

 そして1862年の坂下門外の変で背中に軽傷を負った安藤ですが、背中の傷は武士にあるまじき「後ろ傷」ということで、安藤は非難され、同年、安藤は老中を辞任に追い込まれます。

 安藤が失脚したことで、久世も力を失い、久世・安藤政権は一気に崩壊してしまいました。公武合体運動によって何とか幕府の支配体制を再強化することが出来た幕府は、坂下門外の変によって、またしてもその権威を失墜させてしまいました。

 

 こうして幕府主導による公武合体運動は頓挫し、和宮の降嫁も、結果的にほとんど意味をなさないものとなってしまったのでした。

 

 桜田門外の変坂下門外の変という政権担当者が続いて2人も襲撃される事件が起きれば、身の処し方のうまい人間であれば、幕閣の中心に立つことが馬鹿らしく思えてくるでしょう。以後、老中という要職には野心はあるが政治力のない者、人の良さだけが取り柄の者、政治力はあっても責任感のない者などリーダ―シップに欠ける人物ばかり就任するようになります。幕府の権威失墜の流れはもはや、誰にも止められなくなってしまいました。

 

 一方の和宮は、夫・家茂と死別した後も生き続け、明治10年(1877年)、32歳で病死しますが、その際、自分の墓に亡き夫。家茂の写真を埋葬するように遺命したそうです。

 

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。