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血統重視?能力重視?次期将軍は慶福か?慶喜か?【徳川家茂】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「血統重視?能力重視?次期将軍は慶福か?慶喜か?【徳川家茂】」というお話です。

次期将軍を誰にするか。血統を重視するなら徳川慶福。能力を重視するなら一橋慶喜。慶福を推す保守派の大名を南紀慶喜を推す改革派の大名を一橋派として両者は対立しました。日本の将来を左右する将軍継嗣問題に決着をつけたのは大奥でした。

 

 日本がアメリカ公使・タウンゼント・ハリス日米修好通商条約締結を迫られていた頃、幕府では、次の将軍は誰にしようかという問題で悩んでいました。いわゆる将軍継嗣問題です。

 12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)はペリー来航直後に没し、子の徳川家定(とくがわいえさだ)が13代将軍として後を継ぎますが、家定は病弱で子供もいなかったため、養子をとる必要がありました。

 その候補としてあがったのは、家定には血統的に近い徳川慶福(とくがわよしとみ)と、前水戸藩主の徳川斉昭の子である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)でした。

 この2人の候補にはそれぞれをかつぐ大名が現れます。阿部正弘のもとで発言力を得た薩摩藩長州藩土佐藩などの雄藩は改革派として慶喜推します。一方、保守派の譜代大名や旗本は家定に血縁的に近い慶福を考えていました。慶喜をかつぐ改革派を一橋派、慶福をかつぐ保守派を南紀として両者は1856年頃から対立するようになりました。

 さて、14代将軍はどちらになるのでしょうか。ということで、一橋慶喜徳川慶福の人格や政治手腕を徹底比較してみました。

一橋慶喜

 

徳川慶福

徳川家では傍流の水戸家

血統

11代将軍・徳川家斉の孫

良好

健康

病弱

側近以外は理解者なし。 慶喜自身も疑い深いため、人を信頼出来ない。

人格

年長の家臣への謙譲の精神をもつ 性格も穏やか

幕臣の多くが不信感を持つ。 慶喜自身も信頼出来る家臣が少ない

統率力

基本的には全て家臣任せ。

大局的なものの見方が出来る 会議では得意の弁舌を駆使。

政治力

特に政治信条はない。

西洋の文物に好奇心を抱く 西洋の国家体制にも興味を抱く。

先見性

当時としては平均的。

 慶福はまだ12歳の少年で、しかも健康面に問題がありました。一方の慶喜は慶福よりも9歳年上の21歳。しかも「家康の再来」と称されるほどの切れ者でトップにふさわしい実力の持ち主でした。

  もちろん、天下泰平の世であれば、血筋優先ということで問題なく慶福にすんなりと決まるところですが、ペリー来航以来の国難にあたり、難局に対応出来るような英才をということで慶喜を推す声も少なくありませんでした。

  この南紀一橋派の対立は、朝廷のいる京都にまで波及します。1858年、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)は、西郷隆盛を京都に派遣し、江戸幕府14代将軍に一橋慶喜を指名する勅許をもらおうとします。しかし、対立する南紀の阻止によって、失敗に終わります。

  一方の南紀大奥を利用してこの将軍継嗣問題を解決させようとします。この時、南紀派の中心人物として最も積極的に活動していたのは、後に大老に就任する伊井直弼でした。直弼は、次期将軍の任命は現将軍・家定の専権事項であり、病弱で大奥に閉じこもりがちな家定の心を動かすには、大奥の実力者への贈賄攻勢が効果的だと考えます。

 大奥の女性達の間では、イケメンである慶喜は大変好印象を持たれていました。しかし、その父親である斉昭には嫌悪感を抱いていました。斉昭は幕府財政を圧迫している大奥を徹底縮小することを断固として主張していたため、将軍が慶喜になれば自分達の地位が脅かされるため、大奥は南紀に傾きつつありました。

  これをチャンスとみた直弼は将軍継嗣問題を一気に優位に持ち込むため、大奥を通じて将軍・家定に働きかけます。大奥には多額の金品が女達にばらまかれました。

 これが大成功。

 将軍・家定直々のお声がかりとして直弼は、大老に就任することになりました。

 大老とは老中よりも上の役職で、臨時に設置される幕府の最高権力職で、将軍と同等の権力を持っています。

 この地位に直弼が就いたことで、将軍継嗣問題は南紀の勝利に終わりました。こうして将軍・家定から幕閣に対して次期将軍は慶福にするとして内々に発表されました。

 

 まもなく、将軍・家定は死去。慶福徳川家茂(とくがわいえもち)として13歳という若さで江戸幕府14代将軍に就任しました。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。