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【日米和親条約】ペリーにハメられた!?ハリスによって日米修好通商条約を迫られる日本

 こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【幕末をストーリーで覚える】ペリーにハメられた!?ハリスによって日米修好通商条約を迫られる日本。」というお話です。

 初めに前回までストーリーを解説します。 

 1853年アメリカから東インド隊司令長官のペリーが来航しました。黒船と呼ばれたペリー艦隊の強硬な姿勢での条約締結の要請に驚いた幕府は、翌年返答するとしてアメリカ13代大統領フィルモアの国書を受け取ります。

 時の老中首座・阿部正弘は、決断が下せず、外様大名を含む全国の諸大名に意見を求めます。しかし、結局最後まで決断が下せず、かえって混乱を招いてしいました。

  ペリーは焦っていました。ロシアやイギリスよりも先に日本を開国させなくてはいけなため、1年後の約束にも関わらず、半年後に再び来航。

 しかし、日本からは、はぶらかされるばかりで中々条約締結に至りません。遂に折れたペリーは、通商条約を自ら取り下げます。代わりに妥協案を提案。日本はそれをあっさりと受け入れ、1854年3月3日、歴史に残る日米和親条約が締結されたのでした。

  では、本題に入ります。

 日米和親条約を締結したペリー一行は、本国・アメリカへと帰国するのであった。

帰りの船内ではペリーと2名の兵士が今回の成果について祝っていました。

兵士A 「いいんですか!?提督。通商条約を取り下げてしまって。まぁ、開国そのものは成功しましたけど。」

ペリー 「バカ、お前もジパングレベルか。俺は最初から通商条約なんて結ぶつもりはなかったんだよ。」

兵士A 「ええ!そうだったんですか。」

ペリー 「200年以上鎖国をやっていた奴らにとって通商はかなり高いハードル。最初からそんなハードルの高い要求を突き付けておけば、譲歩したときの要求が通りやすくなるだろう。チンピラや詐欺師の常とう手段だ。」

兵士A 「な、なるほど。」

ペリー 「今回の日米和親条約に基づいて、おそらく数年後に下田にアメリカ官使が駐在することになる。そのときに本命の通商条約を締結させるのさ。今度はこちらが長期戦に持ち込む番だ。」

 兵士B 「条文にもありますね。‘両国政府が必要と認めた場合、下田にアメリカ官使を駐在させることが出来る‘と。こんな条文、よくジパング側も了承しましたね。ジパングにはミカドを始め、外国人を毛嫌いする攘夷派の連中が多数派なのに。」

 ぺリ― 「ああ。俺が説得した。幕府の役人達は大国と崇めていた清がアヘン戦争でイギリスに敗れ去ったことが相当ショックだったみたいだ。今回はその心理状態を利用した。」

 兵士B 「アメリカが日本を列強の脅威から守るということですか。」

 ペリー 「その通り。‘おそらく今後、イギリスをはじめ外国が日本にアヘンを押し売りしてくるでしょう。反発すれば、間違いなく戦争を仕掛けてきます。我が国がそんな列強の脅威から日本を守ってさしあげましょう。そんな時、アヘン密輸の監視役としてアメリカ官使は絶対に必要です。‘ってな。」

 

兵士A 「頭良いですね。提督。というか悪知恵が働くというか・・・」

 

ペリー 「バカ言ってんじゃねーよ。お前らも軍人だったら、このくらいの頭の使い方してみろ。出世出来るぞ。」

兵士B 「実際会ってみて感じましたが、彼ら、我々の想像以上に外交下手ですね。」

ペリー 「ああ。そうだな。奴らの外人恐怖症はかなり重症だ。通商条約は必ず締結出来る。長期間の説得と強硬姿勢で臨めば奴らを丸めこめる。俺はそう確信した。」

兵士A 「私達はその突破口を開いたのですね。いや~英雄ですね。」

ペリー 「‘達‘ってなんだ。今回も全て俺の手柄だ。俺は有終の美を飾れる。」

兵士B 「提督、今まで本当にお疲れ様でした。」

ペリー 「おう。そんじゃ乾杯といくか!」

 

 

兵士B 「おいおい、ジパングの奴らが書いた提督の似顔絵、見たか?」

兵士A 「見たぜ。ありゃ、完全に野獣じゃねーかよ。」

兵士B 「そうか?そっくりだと思ったけどな。あの傲慢な鬼提督に。」

兵士A 「そうだな。あっはっははははははは!」

 

 

日米和親条約の主な内容は以下の通りです。

  1. 日本とアメリカの間に和親を結ぶこと。
  2. 下田箱館を開港し、アメリカ船に薪水、食料、石炭などを供給すること。
  3. アメリカの難破船の乗員を保護すること。
  4. 両政府が必要と認めた場合、下田にアメリカ官使を駐在させること。
  5. アメリカに最恵国待遇を与えること。 

 最後の最恵国待遇というのは、たとえば今後、日本が他の国と条約を締結した場合、その条件と同程度の権利がアメリカにも与えられるという不平等なものです。こうして、二百数十年続いてきた幕府の鎖国体制に終止符が打たれ、この後日本は相次いで来日したイギリス、ロシア、オランダとの間にも同様の条約を結ばざるを得なくなりました。

 

 通商条約を結べなかったペリーですが、特に残念そうな様子はなく、むしろ予想以上の成果に大変喜んでいる様子だったそうです。以下は実際にペリーが残した日記の一部の引用です。

 

「まさか。これほど大きな結果を得れるとは。この日本遠征を資金面でさせているアメリカ国民のうち、どんな楽天家でも予想しなかったでしょう。」

 

 つまり、日本はペリーの心理トリックに完全にハメられ、しなくてもいい条件を受け入れてしまったのです。今も昔も日本は外交下手なのですね。

 

 ペリーが日本を去って2年後の1856年、日米和親条約に基づき、アメリカ使節タウンセンド・ハリスが駐日総領事として来日します。

 このアメリカ使官であるハリスには、先述の通り、日本とアメリカの間に通商条約を結ぶ権限も与えられており、そんなハリスは、下田に拠点を構え、日本を列強によるアヘンの密輸から守るという大義名分のもと、ペリーがやり残した仕事である日米間の通商条約の締結を目指すのでした。

 もともと商人出身のハリスは交渉には適任でした。幕府はまたしても外国の強硬姿勢に恐れおののき、さらに巧みな交渉術に丸めこまれてしまうのです。

  そんなことは知る由もなく、幕府の役人達は、アヘンの脅威から日本を守ってくれるハリスの存在を大変頼もしく感じていました。

 

 そんな中、清国ではアロー号事件が発生。それを口実にイギリスはフランスと手を組み、清国と戦争を開始。アロー戦争が勃発します。アヘン戦争に続き、幕府内はまたしてもショックを受けます。

  そんな役人達の心理をハリスは見逃すはずがありませんでした。すぐにハリスは、江戸城に乗り込み、大統領の親書を渡すにあたり、将軍に謁見することを幕府に要求します。何色を示す幕府に対し、ハリスは脅しをかけます。

 

 

「もし、この要求を拒否するようであれば、我が国の軍艦が江戸に直行する。他の列強諸国も加勢してくるだろう。日本も清国同様に列強からの侵略に永遠に苦しむことになるだろう。」

 

こうしたハリスの強硬姿勢に幕府は態度を改め、和親条約の範囲内でハリスの要求を検討することにしました。ハリスの主な要求は以下の2点です。

  1. アメリカの貨幣と日本貨幣を交換する時は同重量で行うこと。
  2. アメリカ人が日本で犯した犯罪はアメリカの法律で裁くという領事裁判権を認めること。

 

 この要求だけでハリスが満足してくれれば良かったのですが、やはりそうはいきませんでした。ハリスの目的はあくまで通商条約の締結。再び強硬姿勢で将軍への謁見を要請。幕府も遂にこれを許可せざるをえませんでした。

 

 この時の将軍は13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)です。家定は病弱で軽い身体障害もありましたが、言語ははっきりしていました。アメリカ人という観慣れない顔つきのハリスに恐れを抱きながら、こう告げました。

「遠方の国から使官をもって送られてきた親書に満足する。同時にそなたの口上にも満足する。両国の交際は永遠に続くだろう。」

将軍である家定は外国との交渉にもはや、お手上げ状態。

 

 この儀式の後、ハリスは阿部正弘に代わって老中首座となった掘田正睦(ほったまさよし)と会談。ハリスは日本にとってこの通商条約がいかに必要不可欠なものかを熱く語ったうえで、さらにこう力説しました。

「平和主義を理念に置く、我が国・アメリカは、強大な軍事力を持っていながら、イギリスやフランスのような卑劣で残虐な国ではない。我が国とさらに友好を深め、貿易を振興すれば日本の安全を保障する。」と。

 

 会談が続く中、堀田は思いました。

「国内で罪を犯した外国人を日本で裁判にかけるのは面倒なのでは。そんな手間が省けるのなら、条約を締結しても良いのではないか。」と。

 そんな安易な理由から堀田は条約締結の交渉を開始することを決断。いよいよ歴史に残る日米修好通商条約に関する条約交渉が始まったのです。

 日本はこれまで、ただの一回も他国との間に条約を結んだ経験がなく、法律、外交、刑罰などに関する知識が完全に欠如していました。ハリスはそんな日本人の無知につけこみ、条約締結の準備をどんどん進めるのでした。

 

 それと同時に堀田は条約の勅許、すなわち京都にいる時の天皇孝明天皇に条約締結の許可を得るために京都に上洛しました。

 しかし、それまでの江戸時代の外交権は幕府が独占している状態でした。なぜ、堀田は天皇に勅許を求めたのでしょうか。

実はこの頃、国内では、尊王攘夷運動が大流行していたのです。堀田は天皇からの許可を得ることで幕府内の反対派を含む尊王攘夷派の勢力を抑え込もうとしたのです。

しかし、これが完全に裏目に出る結果となるのでした・・・・・

 

 このように幕府が日米修好通商条約の締結を迫られていた頃、幕府は同時に病弱な家定に代わる将軍継嗣問題にも直面していたのでした。幕府は外交においても内政においても非常に大きな問題を抱えることになったのです。

 

つづく。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。次回をお楽しみに。それでは。