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【天保の改革】なぜ水野忠邦は悪魔外道と呼ばれたのか。

 こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【天保の改革】なぜ水野忠邦は悪魔外道と呼ばれたのか。」というお話です。

 

天保の改革でも質素倹約令が出されます。老中を罷免された水野忠邦の屋敷に人々が押し寄せました。彼の‘贅沢禁止令‘は異常で、江戸などの市中にスパイを放ち、庶民の贅沢を徹底的に監視するといういやらしいやり方でした。

 

  さぁ、今回は、江戸三大改革の最後の改革である水野忠邦による天保の改革について述べていきます。

 1843年、水野忠邦は老中を罷免されました。噂は、その日のうちに広がり、人々は彼の屋敷へ押しかけ石を投げ、以下のような罵声を浴びせました。

 

「ざまあ見ろ!この悪魔外道めが!!」

「お前のせいで、商売あがったりだよ。どうしてくれるんだ。」

「お前に公の仕事は向いてない。ニ度と老中には戻ってくるな。」

 

と散々な言われようです。

  騒ぎを聞きつけた江戸町奉行はこれを制止しようとするが、一向に乱暴はやまず、ついに屋敷の不浄門も倒され、まさに群衆が侵入せんばかりの形勢となりました。

 江戸町奉行は自分達では手に負えないと判断。近隣大名に応援を要請。すぐに武装した兵隊が派遣され、武力で民衆を威嚇。ようやく騒ぎは収拾しまいました。

 

 そんな中、ある兵隊が庶民の一人に言いました。

「確かに水野公のやり方は、強権的でした。心中察します。しかし、だからと言って、こんな事をして良いわけではありませんぞ。」

「ふん。お前さんに何が分かるだ。」

兵隊は冷静な態度で尋ねました。

「一体何があったのですか。」

「きいとくれよ。水野のやろう、強引なだけじゃない。いくら何でもやり方が卑劣だ。あいつ、江戸の市中にスパイを派遣しとったんじゃ。そいつが客として、うちの店に来たんだが、えらい豪勢な品物を注文してきて、わしは何のためらいもなく、その品物を出したんだが・・・。」

「まさか・・・・」

「そうじゃ。わしはその場で捕縛されたんじゃ。罰金刑だとよ。これ以上いやらしい戦法があるかいな。水野のやろう、生ゴミよりも腐った脳ミソしてやがる。今日のは、その時の報復だったんだよ。」

 

 忠邦は、庶民に対して強引な質素倹約令をだしました。そのやり方はかなり強権的で異常。金、銀はもちろん、べっ甲細工や絹織物や初物は贅沢だとして製造と販売を中止。さらに人々の奢侈(しゃし)を監視するためにナント幕府のスパイを全国の市中に派遣したのです。

 

 たとえば派手な服を着た女性は役人にその場で服をはぎとられ、丸裸にされたうえ、衆人を目の前にその羞恥と屈辱をさらされます。

 

 だが、さらに驚愕なエピソードがあります。それはスパイにスパイをつけたことです。まず、贅沢な服を着た美人スパイに町を歩かせる。すると当然、役人スパイは彼女を見つけ、捕まえようとします。その時、女は色香を使い、役人に賄賂を渡そうします。役人がこれを受け取った瞬間、免職処分となるのです。

 

 これは息苦しい。聞いただけでも胸糞悪い。まさに悪魔の所業だ。

 

 このように、水野の屋敷を襲った暴動は、庶民の欲求不満が一気に爆発したために起こったものだったのです。

 

水野忠邦天保の改革は、享保の改革寛政の改革に比べ、対外危機に対する政策に重点が置かれていることが大きな特徴です。しかし、その手段はかなり強引で強制的なものになっています。それが士農工商あらゆる層から反感を買い、天保の改革はわずか2年で中止されました。

 

 1841年、清(中国)とイギリスによるアヘン戦争が行われていたころ、大御所としてふんぞり返っていた11代将軍・徳川家斉の病死とともに、12代将軍・徳川家慶の要請のもと、老中・水野忠邦による天保の改革が断行されました。水野忠邦は、浜松藩主から寺社奉行大阪城代京都所司代とメキメキと頭角を現し、改革着手の7年前に老中へと昇りつめて以来、大御所家斉の死を待ち続けていたのです。

 

忠邦の天保の改革の内容は以下の通りです。

軍事政策    西洋砲術の積極採用

外交政策    薪水給与令

庶民政策    強制的な質素倹約令、出版統制令

農村対策    人返しの法

商業政策    株仲間解散

幕府の威信   12代将軍・徳川家慶の日光社参 

幕府財政再建  上知令

 

ここで、天保の改革の本質は一体どこにあるのかを考える必要があるのです。

 

物事の本質を掴むときの注意点として、以下の2点が挙げられます。

1.目的と手段を間違えないこと。

2.原因と結果を間違えないこと。

 

手段よりも目的を。結果よりも原因を。それぞれ調べ上げ、ハッキリさせる必要があります。

 

 江戸の三大改革には、他に徳川吉宗享保の改革松平定信寛政の改革がありますが、天保の改革はその両者と比べ、対外危機に対する政策に重点が置かれていることが大きな特徴です。つまり水野忠邦天保の改革における最大のミッションは「国を守ること」です。

 「列強の脅威が近づいている時に国内で内乱などしている場合ではない。国が一致団結して、列強の侵略から国を守る」。これが天保の改革の本質になります。

 

 それを理解したうえで改革の内容について見ていきましょう。

 

 まず、対外政策から見ていきます。

 軍事政策においては、西洋砲術の演習を実際に行わせるなどの西洋砲術の積極採用が行われました。これが直接的な欧米列強への対抗策であり、全国の諸大名には西洋諸国に対抗出来るだけの軍事力を高めることを命じ、幕府自らは西洋唯一の交易国・オランダから西洋式の大砲や銃砲を積極的に輸入します。

 

 そんな中、アヘン戦争で大国であるはずの清(中国)が劣勢である情報を聞き、幕府は列強侵略の危機感をさらに増幅させました。

 さらに、オランダから、イギリスが日本へ通商交渉のために日本へ軍艦を派遣し、日本側の対応次第では武力に訴える計画をしているという情報が入ります。

 この情報を得るや幕府は、イギリスとの戦争を避けるため、幕府は直ちに国船打ち払い令を撤回します。代わりに薪水給与令を発令します。これは、外国船が近づいてきた場合、燃料や食料、飲料水を与え、穏和に帰ってもらうように対応することを命じたものです。

 薪水給与令は天保の改革外交政策の代表例となります。

 

 庶民層に対しては上記のように全てにわたって倹約を命令しました。享保の改革寛政の改革のような‘奨励‘ではなく、‘強制‘である点が大きな違いです。

 天保の改革ではとにかく「贅沢は敵」とされ、忠邦は、社会の余剰生産すなわち、人間が生きるために必要な分の余りは贅沢や娯楽に使われるべきではなく、飢饉のための備えや軍事費に使われるべきであるとしたのです。

 

 また、享保の改革寛政の改革では、将軍や老中自らが、質素な食事や服を着るなど、徹底した歳出抑制がされました。しかし、天保の改革時は、緊縮財政ではとても対応できず、貨幣を大量発行することで生じる出目(益金)によって幕府財政を立て直す構造に転落していました。つまり歳出を抑制するのではなく、歳入を大幅に増やすという強引なやり方。

 

その結果、物価高騰は加速。深刻なインフレを引き起こしました。

 

 

 また、この時代になると、全国的に政治や社会を批判したり、風刺する言動が数多く生まれます。幕府からすれば、列強の侵略がすぐそこまで来ている状態で、内輪モメは絶対に避けたいところ。そこで幕府は徹底した思想統制に乗り出しました。その手段も、出版統制令幕府機関による出版物を出版前に検閲するというやはり強権的なやり方。幕藩体制が限界に来ていることや、外国の技術に比べ、国内の技術はかなり遅れていることを世間に知られないようにしたのです。

 そのため、政治批判の本は出版禁止。外国情報を流布する本も禁止。さらに好色本(エッチな本)や人情本も禁止されるなど風俗統制も行われました。

  さらに「芝居が本となりて世の中が芝居の真似をする」という理由で、町人文化の象徴でもある歌舞伎や落語、浄瑠璃、物まね、講談などの庶民の娯楽も禁止されました。

 

 

 農村対策においては人返しの法が出されます。天保の飢饉によって食料と職を求めて農村から都市部へ流れ込んできた農民を農村へ強制的に返したのです。寛政の改革でも旧里帰農令というカタチで農民を農村へ返えす政策を行いましたが、強制ではなく、奨励でした。

  貧困農民の都市部への流入は、農村の荒廃だけでなく、都市部での打ちこわしの激化などの治安悪化も大きな問題となりました。

 そこで農民を農村へ返すことで農村人口を増やし、荒廃した農村復興を目指すとともに都市部での貧困層による打ちこわしを防ぐという都市問題と農村問題の両面を解決するという狙いがありました。

 しかし、理屈では成立しても実際に出来るかというと疑問です。食料がなくて江戸に出て来て、ようやく職と住を得た農民を農村へ返すのは非現実的でした。したがって、人返しの法によって実際に農村へ帰らせたのは、江戸に出て来て数年しか経っていない単身層のみにとどまりました。

 

 商業政策では、物価の引き下げを目的とした政策が行われました。

 物価の問題は享保の改革でも、「米価安の諸色高」とよばれ、米価が大暴落し、その他の商品の物価が上がり、その不均衡に焦点が当たっていましたが、天保の改革では、あらゆる物価が跳ね上がっていました。それは家斉政権(大御所時代)の時に大量に行われた貨幣改鋳が原因であり、深刻なインフレが起きていたのです。

 

 そこで、忠邦はあらゆるものの価格引き下げを命じます。しかし、インフレが起きている経済状態で強引に価格の引き下げを行うと何が起こるのでしょうか。

 まず、職人の賃金や手間賃、加工費が下落し、町人の生活をおおいに苦しめます。その結果、とんでもない価格破壊に対応するために、寿司や豆腐などの商品はみるみる小さくなっていきました。

 

 さらに忠邦は、価格高騰を本来ならば、もっと安く売れる商品を同業者集団である株仲間が値下げをせずに高く売っているからではないかと考え、株仲間の解散を命令します。

 

 株仲間とは幕府お墨付きの商人への優遇措置ですが、この株仲間がその威力を発揮するのは、買い手の需要が減り、売り手の商品が過剰供給になった時です。供給が需要を上回った時、消費者はより安い商品を買うようになるので、供給者同士で熾烈な価格競争が起こります。しかし、株仲間という組合に所属している同業者同士が団結し、価格を一定にすることで価格競争をなくし、商人の儲けも、ある程度保証したのです。

 

 株仲間は徳川吉宗田沼意次の頃に積極的に公認されましたが、その目的は、専ら価格統制に重点が置かれ、商人達に一定の価格で販売させることで極端な価格高騰や暴落を防ぐための政策でした。

 

 そもそも物価高騰の最大の要因は家斉の大御所時代に行われた大量の貨幣改鋳でした。幕府の財政自体もこの改鋳による出目によって維持されおり、貨幣改鋳を中止することも出来ない状態でした。そんな状態で株仲間を解散させたところで物価の引き下げなど期待出来るはずがありません。案の定、物価を下げることは出来ず、単に商人達の反発を招いただけでした。

 この経済オンチの悪魔外道、卑劣なだけでなく、頭も悪いと来たもんだ。

 

 

 さらに、将軍の権威回復も急がれました。11代将軍・徳川家斉による大御所時代に行われた三方領地替えによって、諸藩の強い不満を買いました。幕府はすぐにこれを撤回するも、幕府の権威弱体化と諸藩との亀裂は深いものとなってしまいました。幕藩体制の再強化は必須です。

 幕府は何とかこの亀裂と将軍権力の回復を狙って、67年ぶりに12代将軍・徳川家慶の日光社参を行います。20万~30万人におよぶ大規模な行列は将軍の権威を全国に、そして世界に示そうとしたのです。

 

この社参が終わるや、幕府はいよいよ上知令という最重要政策を行うのでした・・・・

 

 上知令とは、不足する幕府財政を補てんするため、江戸城大坂城周辺の年貢収入の多い領地をもつ大名や旗本からその領地を取り上げる政策です。

 しかし、上知令にはもっと深刻かつ重要な目的がありました。それは反乱です。そう、幕府が最も恐れたのは、江戸や大坂周辺に領地をもつ旗本や大名による幕府に対する反乱だったのです。

実は江戸や大坂周辺の旗本や大名すらも幕政批判をするような有様になっていたのです。

 こんな統制と忠誠心が欠如した危機的な状況で、江戸湾に外国船が入って来たら、大混乱を招くどころか、いとも簡単に列強の支配を受けてしまいます。

このような脆い状態となった江戸城大坂城の周辺の支配を強めることで、海岸防備とともに列強の植民地支配を防ぐことが上知令の最大の目的だったのです。

 

 しかし、この上知令は全くの逆効果を招いてしまいました。年貢収入の多い2大都市近郊に領地を持つ大名や旗本からは強い反発を受けてしまいました。

 

 このように天保の改革は農民や商人だけでなく、支配者層からも反発を招く結果となってしまったのです。

 

 みかねた将軍・家慶は改革の続行を断念。同時に忠邦も解任されてしまいます。

 こうして天保の改革はほとんど成果をあげることなく、終幕を迎えたのでした。

以上。

 

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮でした。それでは。