朱子学に対立する学問 陽明学とは。【大塩平八郎】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「朱子学に対立する学問 陽明学とは。【大塩平八郎】」というお話です。
4代将軍・徳川家綱の時代から7代将軍・徳川家継の時代を文治政治と言います。(1651年~1716年)この時代は様々な学問が栄えた時代です。
江戸時代を通じて奨励されていた学問は朱子学で、‘江戸幕府公認の学問‘として大きな勢力となりました。しかし、文治政治の治世、朱子学に疑問を持ち、朱子学に対立する学問が普及してきました。今回はその中の1つ、陽明学について述べていきたいと思います。
朱子学 | 陽明学 |
「理」と「気」を分離して考える | 「理」と「気」を一体として考える |
理気二元論 | 心即理 |
外面的な礼儀を重視 | 内面的な良心を重視 |
格物致知 | 至良知 |
慎しみなさい | 実行しなさい |
「理」を学びなさい | 「気」に従いなさい |
国家公認の学問 | 民間のみに普及した学問 |
陽明学とは、朱子学同様、儒教の一派で中国の王陽明が唱えたもので、朱子学に対立するカタチで日本でも普及しました。
朱子学の、特に林羅山の朱子学の基本概念は、「人は生まれがら不平等である」という上下定分の理を唱える思想です。
まぁ当然ですが、このような考えは現代人には到底受け入れられません。
おそらく、当時の人達の中にもこのような‘幕府公認の学問‘に疑問を持つ人がいたのでしょう。朱子学に対立する学問が芽生えたのがその良い証拠です。
江戸時代を代表する陽明学者といえば、中江藤樹や熊沢番山、大塩平八郎があげられます。
陽明学では、どうすれば人生を極めることが出来ると教えているのでしょうか。朱子学と陽明学のそれぞれの違いを説明しながら、述べていきたいと思います。
朱子学では「理気二元論」が唱えられており、理性的で規律ある心を表す「理」と、感情や欲望のような私利私欲を表す「気」の両者を完全に区別しています。
「理」と「気」は分離されているので、礼儀作法のような社会の規範やルールという「理」を徹底的に学び続けることで、「気」が「理」に一致していき、仁徳ある人間になることが出来ると教えています。これを格物致知と呼びます。
これに対して陽明学では、「心即理」が唱えられています。「心即理」を直訳すると、「こころ、すなわち、ことわり」という意味になります。そう、陽明学では、「理」と「気」は一体と考えており、「理」は私達の心の中に既に備わっていると教えています。
したがって、「理」を学ぶのではなく、「気」に従うことで仁徳ある人間になることが出来ると教えています。これを「至良知」と呼び、人間は生まれながらに良心をもっているという考えになります。
朱子学と陽明学の違いは、一言で説明すると、このような社会の規範やルールを「知らないから学ぶ」のか、「既に知っているから心に従う」のかといった違いです。
例えば、
「目上の人を敬うこと」
「責任感をもって仕事に取り組むこと」
「嘘をついたり、いじめたりしてはいけない」
このような規範を私達は学ばなくても又は、教えられなくても良心として備わっていると説いたのが、陽明学なのです。
陽明学の「気」に従うというと、欲望に素直になるという意味になり、あまり良い印象は持たれないかもしれません。しかし、現代の心理学では、欲望に素直になった方が人生は上手くいくと説いています。
例えば、「将来、医者になりたい」と考えるA君とB君がいたとしましょう。それぞれの動機を聞いた時、A君は、「人を助ける仕事に就いて、社会に貢献したいから」と言い、B君は「医者は高収入なので、カッコイイ車が買えるから」と言いました。
どちらが医者になる夢を叶えられるでしょうか。この場合、B君の方が夢を叶える可能性が高いです。夢は理屈で叶えることは出来ません。本人の欲望という心の底から湧きがってきた感情だからこそ、夢を叶える大きな原動力となるのです。
こう考えると、朱子学よりも陽明学の方がずっと近代的な考え方に近かったことが分かります。
また、朱子学は慎むことを重視しているのに対し、陽明学は実行することを重視しています。
朱子学においては、林羅山が徳川家康の命によって、元来の朱子学を日本風にアレンジ。すなわち、徳川将軍家にとって都合の良い、民衆を支配・管理しやすいように創り変えました。つまり、「上下定分の理」を徹底的に教えたのです。
「人は生まれながらにして、不平等なのだ。なので、身分をわきまえた行動をしなさい。不平・不満は慎みさない」という教えです。
陽明学では人間は生まれながら、良心を持っているという「至良知」教えていました。したがって、「自分が心の中で疑問に思ったことは、堂々と主張して良いのだよ。」という行動を促す考えになっているのです。
陽明学の教えの中に「知行合一」というものがあります。これは知識とは、行動が伴わなくてはその意味を成さない。という教えであり、疑問に思ったことを、ただ思うだけではダメで、行動に移してこそ、その疑問の価値が発揮されるのだということです。
以上、朱子学と陽明学の違いを述べてきましたが、実はこの学問・思想の違いが原因で引き起こされた反乱があります。それが1837年に起きた大塩平八郎の乱です。
この時、松平定信の寛政異学の禁によって、朱子学以外の学問は全て禁止されていました。したがって、朱子学は幕府公認の学問なのに対し、陽明学は大塩平八郎のような陽明学者が私塾を開き、塾生に細々と教えるに留まるという民間にのみ普及した学問でした。
平八郎は心を洗う塾・「洗心塾」という私塾を開き、塾生に陽明学を教えていました。以前は大阪町奉行所の管轄の与力という職業についていました。町奉行とは現代の警察のことで町奉行がキャリア組なら、与力はノンキャリア組。つまり巡査のようなもの。イメージ的には「街のお巡りさん」。
そんな正義感が強い平八郎が一体なぜ挙兵するに至ったのでしょうか。
実は、1832年から6年間に渡って、天保の飢饉が起こったのです。これは全国規模の飢饉で、平八郎の住む大阪でも餓え死にする人々が現れ、その惨状は深刻なもので、正義感が強く、長いこと公の仕事に携わってきた平八郎は黙っていられず、塾の書籍や自分の持っていた書籍を売り払い、お米を買い、餓えに苦しんでいる人達に分け与えました。
しかし、それだけではとても追いつきません。
そんな中、大阪の米が江戸に送るために買い占められているという衝撃的な情報が平八郎の耳に届きます。
実は1833年から39年に東北を中心に起きた天保の飢饉の際、江戸でも庶民の不安から打ちこわしが起きています。それを教訓に、なんと幕府は大阪の米を始め、全国の米の買い集め、江戸の住人に炊き出しをしていたのです。
「江戸の住人を救うために、大阪の米すら江戸の送る・・・・・。こんな事、絶対に間違えている。」
陽明学者の平八郎は、こんな幕府の身勝手な行動に怒りを覚え、大阪町奉行所に自分の考えた救済策を上申します。自分が疑問に思ったことを行動に移したのです。
しかし、朱子学を奨励している幕府からすれば、「身分をわきまえよ。お上に意見するとは何事だ。まさか乱心したのか」と愚弄したのです。
当然、平八郎の上申は却下。その後の再三にわたる上申にも大阪町奉行は黙殺したため、遂に平八郎は挙兵。「貧民救済」を掲げて反乱を起こしたのです。これは 幕府は衝撃を受けます。
さらに、これに触発れるように同年、生田万(いくたよろず)の乱も起きています。生田万もまた、国学者という朱子学に対立する学者の一人でした。
その後も、能勢一揆(大阪府)や佐渡一国一揆など、幕府に対する反乱が続発します。
そして、海外では1840年に清とイギリスによるアヘン戦争が勃発。清が劣勢であるという衝撃のニュースも入り、対外危機も一気に高まります。
1787年以来、将軍の座に居座り続けた11代将軍・徳川家斉の死とともに、ようやく政権運営の権利を得た老中・水野忠邦が12代将軍・徳川家慶の元、天保の改革を断行するのであった。
こうして幕府は、国内の反乱と対外危機への対策に乗り出すのであった。
以上。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。