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【徳川歴代将軍】3代将軍 徳川家光という人物

 こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【徳川歴代将軍】3代将軍 徳川家光という人物」というお話です。

 

 今回も番外編ということで、わたくし本宮が、江戸時代にタイムスリップして徳川歴代将軍をそれぞれインタビューしてきたので、報告をしたいと思います。

 

 第二回目は江戸幕府3代将軍・徳川家光様についてです。

 

  はじめまして。江戸幕府3代将軍・徳川家光です。

私は「生まれながらの将軍」と呼ばれています。確かに物心ついた時から、「あなたは将軍なのだから。」と言われ続けてきました。英才教育も受けています。

 なので、常に命令口調でハッキリと物を言います。相手を威圧する術は幼い頃から心得ています。

 江戸城の最終工事もようやく終わり、江戸幕府の組織体制を完成させました。

 

 祖父である家康公を神のように崇拝しています。なので、祖父の遺骸が眠る日光東照宮を壮麗な建物に改修しました。多数の部下を引き連れ、何度も社参(墓参り)をしています。

 

 おじいちゃんから話を聞いています。

 おじいちゃんの生きた時代はいわゆる「戦国時代」であり、子供がお父さんを殺す、弟が兄を殺す、部下が上司を殺すといった身分や上下関係を覆し、実力ある者がのし上がるという下剋上が蔓延していたそうです。その結果、戦乱が絶えず、血で血を洗うような恐ろしい社会になってしまったようだ。

「そんな社会にしてはイカン。」

とお爺ちゃんから口をすっぱくして言われ続けました。当然です。そんな恐ろしい時代、絶対に嫌です。

 

 なので、逆らう奴らは身内だろうと、疑いだろうと処罰します。現に謀反の疑いのあった実弟の忠信を自害に追いやっています。

「幕府に逆らう奴は皆殺し。」

「向上心を持つ奴も皆殺し。」

「成功して一旗上げようなんて考える奴も皆殺し。」

 徹底的に処罰させてもらいます。

 

 そんな私の歴史的偉業の1つが参勤交代です。

 この制度は名案でした。てへ。

 しかし、参勤交代に似たような事は信長様も秀吉様もやっていて家臣の忠誠心を確かめるために定期的に安土城大阪城へ参勤させていたみたいです。これを正式に法律化したのが、我が徳川家です。

 

 原則として、在府(江戸滞在)1年、在国(国許生活)1年とし、1年交代で行き来させます。「江戸に旅行に行ける」といえば、聞こえはいいが、そんな気持ちは最初の2~3年で失せます。旅費や諸費用は全て大名持ちです。

 妻子は江戸に住まわせてあります。大事に大事にかくまっています。まぁ要するに人質なんだけどね。よって逆らったら、まず妻子をやります。容赦しません。

 参勤交代には莫大な出費がかかります。巨費を散財させることで、大名の経済力を弱め、幕府に反抗出来なくさせるためです。使う費用は各藩によってまちまちだが、だいたい大名の年間支出の30~40%の出費になります。かなり財政を圧迫しています。

 

 外様大名は4月から行います。譜代大名は6月から行うグループと8月から行うグループに分けてあります。

 

 参勤交代の道中、大名が伴う大行列はその藩の威信を誇示できる一大デモンストレーションです。諸大名の皆さん、互いに見た目の華美さや人数の多さを競い合っていました。

 人足は臨時のアルバイトで済ませている藩も多かったようです。見栄っ張りな諸大名の心理を利用することに成功しました。ふふふ。

 

 江戸でタップリ遊んでもらった後の祖国への帰り道ですが。これがまた傑作なんだよ。大名一行、江戸を抜けた瞬間、みんな駆け足になるんだよ。少しでも宿泊費を浮かせるためだろうけど、スピードもかなり速い。中には1日40キロ以上進む藩もあったみたいだし。 

 なんとも可愛らしい・・・・・なんて言ってはダメか。一見華やかに見える大名行列も蔭では涙ぐましい努力をしていたのです。

 

 中には、宿場に泊らず、寺院や神社、果てには野宿を決め込む大名もあったみたいです。道中は本当に多額な費用がかかります。仙台藩では、旅の途中で金銭が底をついてしまい、領国に急使を派遣して金が届くまで宿場から動けなくなってしまうというハプニングも発生したみたいです。え?クレジットカード?何それ?

 

 もう1つの私の歴史的偉業は、鎖国制度を完成させたことです。「士農工商」を原則とする我が徳川政権の支配下において、キリスト教の「自由と平等」の精神は厄介な存在です。なので、踏み絵などで徹底的に弾圧させてもらいました。

 

 そんな中、1637年の島原・天草一揆は衝撃でした。

重い年貢に苦しむ農民とキリシタンの反乱だが、単なる農民集団。そこで私が信頼を置いていた幕臣板倉重昌に鎮圧を命じました。

「まぁ、やつらは所詮、農民集団。お前なら半日で鎮圧出来るだろう。」

と重昌を総大将として、九州で部隊を編成し、奴らが籠城している原城へ送り出したのです。

 

 しかし、これが思わぬ大苦戦。激しい攻防戦に発展したのだ。

ナント、奴らの中には武士出身の農民もおり、関ヶ原の戦い以降、幕府に強い恨みを持つ者も多数いたそうだ。要するに一揆軍は農民集団ではなく、戦闘のプロを相手にした戦いだったのだ。

 

 しかも、奴らは宗教組織。リーダーの天草史郎は「城内の者は全て来世まで友達なのだから互いに協力しよう」と籠城している人々に常に励ましの声をかけていたそうだ。なので、奴ら捨て身の覚悟で襲ってくる。いや~宗教の恐ろしい。

 

 それに比べ、我が幕府軍ときたら、どうやら見くびり過ぎていたようだ。

 何でも、日が暮れて来て寒くなってきたので、焚火を起こしたそうだ・・・・・・・って、そんなことしたら、相手に自分達の居場所がばれるだろうが。複数人が一か所に集まっているから良い的だ。

 

 案の定。その場所めがけて弓や槍が飛んできて、何人か即死するという事故が起きている。戦乱の世が終わって、22年。全く近頃の若者ときたら・・・戦闘のド素人ではないか。幕府軍は惨敗。総大将の板倉重昌は戦死するという大失態を犯しました。

 

 その後、老中の松平信綱を出陣させ、何とか鎮圧することが出来ましたたが、キリスト教の恐ろしさを知った私は、ポルトガル船の交易を禁止。ポルトガルとの国交を断絶しました。交易はプロテスタントキリスト教布教の心配のないオランダだけにさせてもらいました。

 え~と・・・少し幕藩体制にあぐらをかき過ぎていたことを反省しています。

以上

家光様、ありがとうございました。

本宮貴大でした。それでは。