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【徳川歴代将軍】 2代将軍 徳川秀忠という人物

 こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【徳川歴代将軍】2代将軍 徳川秀忠という人物」というお話です。

 

 今回も番外編ということで、わたくし本宮が、江戸時代にタイムスリップして徳川歴代将軍をそれぞれインタビューしてきたので、報告をしたいと思います。

 

 第二回目は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠様についてです。

 

 家康の三男、秀忠です。よろしくお願いします。

 秀忠の「秀」は大尊敬している豊臣秀吉様から貰いました。

 

 天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに遅刻するという大失態をやらかしています。到着した頃にはほとんど東軍の勝ちが決まった状態でした。案の定、現場で指揮を取っていた父上からは、激しく怒られました。

 大阪冬・夏の陣では父と共に出陣しました。関ヶ原の戦いの汚名を返上しようとハリキって東海道をばく進しましたが、父上から

「そんなに派手な行動したら敵軍の偵察部隊にばれるだろっ。それに、この戦いは短期決戦じゃない。長期戦という精神の削り合いだ。体力は温存しろ」

と、またしても怒られました。

 

 こんな風に戦闘においては若干空回りしてます。だって経験不足なんですもん。

 

 でも政治の腕には自信があります。1615年の第一回武家諸法度は一応、私の名前で発足されています。(内容を考えたのはほとんど父親だということは内緒にしてあげてください。)

 

 

 父上に命令されて多くの家を取り壊しました。ガンガン改易(領土没収)していきました。それも福島正則加藤清正のような関ヶ原の戦いで戦果を上げてくれた有力大名の家をです。

 理由は、向上心や出世欲メラメラだからです。これからの時代、そんな人はいりません。容赦なく処罰させてもらいます。

 

 関ヶ原の戦いで敵対した大名の家を取り壊すなら、恨みや将来の危惧など理由は明白ですが、福島や加藤のような忠実な部下の家を取り壊せば、みんな「なぜ?」と考えます。

 

 この意図をどうやら諸大名の皆さん、察知してくれたようで、みんなこぞって鼻毛を伸ばし、とんぼをつけるなど、いかにも阿呆な風貌を競い合ってくれるようになりました。これは当時の観点では、「私には成長欲求や向上心はありません。現状に大変満足しています。」というアピールになります。

 

 これによって、成長欲や出世欲を持った若者が下剋上によって、のし上がる戦国時代の価値感を完全否定するのです。そんなことをされては徳川家の存続が危うくなりますもの。

 代わりに新時代である江戸時代は「現状維持こそ美徳。武士は人格向上のための勉学や勤労にのみ励みなさいという」新しい価値感を植え付けました。

 これらはそのための見せしめです。

 

 このようにして江戸時代の武断政治の基礎を創り上げていきました。

 

 

 現代では恐妻家や愛妻家というあだ名がついているみたいです。奥さんは、北近江の有力大名・浅井長政織田信長の妹・お市のあいだに生まれた三姉妹の末っ子、‘お江‘です。

大尊敬している秀吉様の奥さんは淀殿で、お江のお姉ちゃんになります。よって秀吉様とは、義父ではなく、義兄の関係になってしまいました。ちょっと複雑な思いです。

まぁ、秀吉様、側室は300人いて、ロリコンだったし・・・・おっと失礼!

 

‘お江‘は性格が激しく、口うるさいので、尻に敷かれっぱなしでした。浮気なんかしたら、殺されます。

まぁ、将軍という立場上、側室(奥さん)は何人いても許されるのですが、私の時代にはまだ大奥という組織もなく、江戸幕府は軍事組織に毛が生えたよう組織だったので、一生涯一人の女性を愛し続けました。

そのため、お江との間には何人もの子供が生まれています。将軍にとって後継者作りは立派な公務なのです。ということで将軍後継者は、長男が早世してしまったので、次男である家光を三代将軍に迎えました。

 

ここまで聞くと私に対して、とても真面目で一途な印象を受けると思いますが、実は一度だけ浮気をしています。いやいや、父上の側室が16人いたことを考えると、全然可愛い方ですよ。

‘お静‘という下級武士の家に生まれた人です。可愛かったので、口説いてしまいました。

お静との間に生まれた子は、後の保科正之です。しかし、私は、生まれたばかりの我が子の顔も見ずに養子に出してしまいました。まさか将軍の側近にまで大出世するなんて・・・やはり私の良い遺伝子を受け継いでいるからですね。笑

 

以上。

秀忠様、ありがとうございました。

 

次回をお楽しみに。本宮貴大でした。それでは。