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「【寛政の改革】田沼VS松平 資本主義VS農本主義【松平定信】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【寛政の改革】田沼VS松平 資本主義VS農本主義松平定信】」というお話です。

世直しという民衆の期待を背負った松平定信寛政の改革とは「打ちこわし」によって生まれた改革なのです。彼は 貨幣至上主義から従来の土地至上主義へ戻すことで、家康以来の秩序のとれた地方分権という伝統的国家への回帰を目指したのです。

 

 今回から、田沼に代わって老中になった松平定信について述べていきたいと思います。そこで田沼と定信の政策の違いを並べてみました。以下参照。

 

田沼意次 松平定信
貨幣至上主義 土地至上主義
中央集権化を目指す 地方分権化を目指す
近代的国家の樹立 伝統的国家への回帰
経済発展を優先 社会保証の充実
放任政治 統制政治
快楽主義 禁欲主義

 

 

 よく改革派の田沼に対して、定信は保守派・復古的と言われますが、それは表面的な解釈にすぎません。もっと本質を見抜いた上で慎重に検討するべきです。

 

 定信は老中就任から6年で失脚させられますが、その原因は「時代のニーズを把握出来ていなかったから」とか、「思い込んだら脇目も振らず突っ走るタイプだったから」だとか、「清廉潔白で極端な理想主義者だったから」とか言われています。

 酷い場合は、定信のトンチンカンな政策によって、日本は世界から遅れをとり、開国の際、諸外国から不平等条約を結ばされる原因となったと批判する人がいます。

 歴史はどうしても結果論になってしまうため、そのような見方になってしまいますが、結果に対してなら、何とでもいえるのです。

 

 一方で定信が老中に就任した当初は、前時代のである沼時代を揶揄し、定信に対する期待を込めてこんな狂歌が流行りました。

「田や沼や 濁れる後世を あらためて 清く済ませ 白河の水」

 濁りの田沼時代から、清く正しい定信の政治へと移行してくれることを民衆は期待していたのです。そんな期待を背負って1787年、老中・松平定信は華々しくデビューし、「寛政の改革を開始します。

 

 

 定信も世間の期待に応えるよう必死だったのです。定信には定信なりの目的、方針、ポリシーがあっての政策だったのです。

 定信の政治の結果、以下のような狂歌が新たに流行り出したのです。

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」 

 定信の政治は厳しすぎる。これなら田沼時代の方がまだよかったというこになってしまいました。しかし、これはあくまで定信の政策という手段に対する感想であり、本質をついたものではありません。

 

 定信自身、白河藩という地方政治での大成功で、鳴り物入りで国政に参加したため、いきなり難易度が跳ね上がったことは事実です。喩えるなら、今まで2軍に在籍していた選手が、いきなり1軍で4番でホームランを打てと言われているのですから、相当なプレッシャーだったはずです。

 

  前置きが長くなりましたが、では、定信はいかなる目的で政策を始めたのでしょうか。

 

 1782年から東北地方を中心に天明飢饉が発生します。

 時の老中・田沼意次による貨幣至上主義では、「貨幣が全てであり、貨幣こそ価値を発揮する道具であり、金にならないモノや事をするのは時間と労力のムダ。稼げないやつはクズだ」とい考え方や価値感となります。

 この思想が天明飢饉の被害を拡大させてしまったと言って良いでしょう。お米はお金になりますから、優先的に作られます。たとえ東北という寒くて適さない地域であっても作られてしまったのです。しかし、当時の品種改良の技術では到底、対処出来るはずがなく、飢饉の被害を深刻なものにしてしまいました。

 定信はこれを痛烈に批判します。

「地域の特性に根ざした自給自足の生活をしていれば、ここまで犠牲者は出なかったろうに。」

 確かに定信の言う通り。人命よりもお金が優先されてしまったのは疑いのない事実。資本主義の「光」と「影」の「影」の部分が浮き彫りになってしまったのです。

 

 生活困窮者となった東北の農民達は難民となり、食べ物を求めて、仕事を求めて、江戸などの都市部へ流入します。江戸では、打ちこわしが起き、盗みなどの犯罪が増え,治安は悪化します。この治安悪化を招いたのは田沼だということで、田沼は老中を引責辞任します。

 

 もちろん、自然災害という原因もありますが、田沼の貨幣至上主義が招いたことも原因としては十分考えられます。したがって、定信の「寛政の改革」とは、打ちこわしなど混乱した世の中を正すという世直しのための政策になったのです。

 田沼のせいで、このような世の中になったのなら、それを打ち消すような政策をやらなくてはいけません。定信は、田沼とは逆のやり方で、国の秩序を取り戻し、従来の幕藩体制を取り戻そうとしました。 

 

 この時の諸藩の財政は酷いものでした。 

 

 

 特に津軽藩は莫大な借金を抱えており、農民から徴収した年貢米のほとんどを借金のかたとして差し押さえられており、非常時に農民達に配る備蓄米が全くないという大失態を起こしています。

定信はこうした諸藩の甘えた態度も以下のように批判します。

「自分達の地域で発生した問題を、自分達で解決出来ないとは何事だ。情けない。」

 

  田沼は、そんな財政難に苦し諸藩を救済するべく1786年に「貸金会所設立令(かしきんかいしょせつりつれい)」を出していました。貸金会所とは富裕農民や富裕町人、寺社仏閣などあらゆる富裕層から、出資を募り、そのお金を貸金会所に集めて、財政難に苦しむ諸藩に貸し付け、将来、利子付きで返済させ、出資者に利子付きで返還するという現在の銀行のようなものです。 

 定信はこれも中止します。

 

 

 要するに定信の目的は「諸藩も農民も自立しなさい」ということです。その手段が従来の農業に励み、自給自足にこだわるという原始的なものであっために定信が保守派と呼ばれているのでしょう。

 手段はどうであれ、上記のことが定信の政策の「本質」になります。

 

 定信の政策の代表的なものに「囲い米」という制度があります。これは飢饉対策として設けられたもので、全国の諸藩に社倉、義倉という蔵を造らせ、毎年米の備蓄を命じ、幕府の直轄地域でも蔵を設け、備蓄させました。

 つまり、「幕府も米を貯蓄しておくから、諸藩も米を貯蓄し、飢饉に備えなさい。」ということです。

 

 農民に対しても飢饉対策を奨励します。

「米が凶作になっても、別の農作物で乗り切りなさい。二毛作をどんどんやりなさい。」

 近代的な「貨幣至上主義」から従来の「土地至上主義」へ。

 具体的に説明します。例えば、当時灯油の原料である菜種は大変需要があり、お金になります。栽培してビジネスとすれば、かなり儲かるでしょう。しかし、菜種ばかり栽培しては自給自足な生活は当然ですが、成り立ちませんね。土地至上主義とは、お金からではなく、土地から生活の糧を得るようにする必要があります。

 よって定信は商品作物の栽培を禁止します。これで農村に貨幣経済が入り込むことを防ごうとしたのです。

 

 中央集権国家では国が親となり、オシメのとれない地方自治体の世話をするのは、家康以来の幕藩体制の崩壊を意味します。地方に自治の権限を委ねることで地方分権国家へと推し進めようとしたのです。すなわち、

「藩は幕府に甘えるな。金に支配されるな。」

 定信は「諸藩の自立」、「農民の自立」を伝統的国家への回帰によって実現しようとしたのです。

 地方にとって人口減少は、年貢米の激減など藩の財政難に直結する深刻な問題です。地方創生を目的に定信は、旧里帰農奨励令を打ち出します。これは江戸に流入した農民を地方の農村へ帰るよう命令し、農村人口を回復させようとしました。

 

続く

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮でした。それでは。