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【享保の改革】江戸ノミクス・米将軍のジレンマ 後編【徳川吉宗】

こんにちは。実は最近、チンサムロードがマイブームの本宮 貴大です。

今回のテーマは【享保の改革】江戸ノミクス・米将軍のジレンマ 後編【徳川吉宗

というお話です。

 

金融政策か。成長戦略か。吉宗は決断を迫られました。吉宗の改革によって米価の上昇と消費物資の価格上昇は抑制されます。しかし、それは一時的なものでしかなく、今後貨幣経済の普及と同時に、米本位体制の経済システムは限界に達していることを思い知るのです。

 

 享保の改革とは、吉宗が1716年に将軍に就任したと同時に行われた改革であり、彼は徹底した倹約と収入の増加にも取り組みます。その政策の1つにそれまで禁止されていた新田開発を町人請負新田というカタチで復活させたことが挙げられます。町人請負新田とは財力のある町人が資本を導入し、関東を中心とした新田開発のことで、吉宗はこの政策で米の増加を図ります。

 これによって全国の米の量は増え、幕府は年貢米を大量に徴収することが出来ました。その結果、1722年、ついに吉宗は幕府の借金14万両を返済することができました。

 

 しかし、米を増やしたことで、米価の暴落という副作用を招いてしまったのです。

 米価の下落は給料の目減りを意味します。したがって、庶民は皆お金を使いたがらず、世の中は不景気になります。

 米余りによる不景気を打破しなくてはならない。これが吉宗の課題でした。

 吉宗は直接、米の価格の調整に入ります。

 まず、大阪の堂島米市場に遣いを送り、大阪の商人達に米を幕府が指定した公定価格で買い取るよう指示したのです。すなわち、商人達に幕府が一方的に決めつけた価格で米を買い取るよう強要したのです。

 そりゃぁ商人からすれば、今まで500円で購入出来ていたお米2キログラムが、突然1000円で購入しなくてはならなくなったのですから面白くないです。

 大阪の商人達は市場からどんどん撤退。商人達は米の価格が安い別のところで米の買い取りをするようになりました。

 吉宗のこの政策は失敗に終わります。

 

 吉宗の次の策、それは株仲間の公認です。商人達に同業組合を作らせ、その他の消費物資を固定価格で売るよう命令を出します。価格高騰を続けている消費物資の価格統制をしたのです。しかし、本来1000円で売れたはずの消費物資を500円で売らなければならないので、商人達は当然、猛反発しました。

このような需要と供給の経済システムを崩した吉宗の政策はまたしても失敗に終わります。

 

 次に吉宗が取った政策は。幕府による米の買い占めです。

 市場に出回っている米を出来る限り買い占め、市場における米の量を減らし、米の値段を吊り上げようというのです。しかし、当時の日本は江戸を中心に人口が増え、市場経済は幕府の力ではコントロールしきれないくらい大きなものになっていたため、幕府だけでは対応しきれないくらいまで拡大していました。すると、大名や商人達にまで米の買い占めを強要しました。しかし、お金に換金出来ない安い米ばかり買い占めてはその分、不利益が生じます。この政策も失敗におわりました。

 

 米の相場と常に睨めっこし、米の買い占めを強要する吉宗のことを大名や商人達の間では、いつしか米将軍というあだ名が付き始めました。

 

 そんなこんなで1730年、米価は吉宗の将軍就任時の4分の1まで下落していました。

 

 万策尽きて途方に暮れている吉宗の元にある救世主が現れます。江戸町奉行として物価対策にあたっていた大岡忠相(おおおか ただすけ)です。彼は次のような提案をします。

「米の価格を上げるには、貨幣を増量する必要があります。」

 つまりお金の量を増やして、お金をお米と同じくらいの価値まで下げなくてはいけないというのです。現在で言う「アベノミクス」という金融政策をやりましょうというのです。

 

 しかし、吉宗には不安がありました。貨幣を増量すれば、以前のようにニンジン1本が1万円になるというハイパーインフレを引き起こされ、大混乱が起きるのではないか。米の値段が上がるのは良いが、連動して他の商品も値上がりし、人々の生活はさらに苦しくなるのではないかということです。

 

 このような危惧から吉宗は忠相の提案を却下。

 

 吉宗は新たな政策を考えます。そこで出てきたのが、成長戦略です。

米が金にならないのであれば、米以外の作物を農民達に作らせ、それを換金するようにしようと言うのです。米以外の作物として浮上したのが、菜種です。これは灯油の原料となる作物ですが、江戸を初め主要都市には人口増加のため、灯油の需要が増えていました。つまり米本位体制から菜種本位体制に切り替えるという政策です。

 

 金融政策はインフレを引き起こす危険性を秘めている。一方で、この成長戦略、かなりリスクが付きまといます。今まで栽培したことのない作物を栽培するのですから当然時間がかかり、お金もかかります。軌道に乗るまで農民達を食いつなげるだろうか。もし失敗すれば農民はさらに苦しむことになります。

 

金融政策か。成長戦略か。吉宗は決断を迫られます。

 

 そんな中、1733年に享保の大飢饉が発生します。米余りが一転して米不足に変わりました。米不足に悩んだ江戸の下層町民が米を買い占めていた商人の米問屋を襲うという打ちこわしが起こります。

しかし、この享保の大飢饉は1年ほどで収まります。またしても、米価の上昇が起こったのです。

 大岡忠相から、もう一度進言を受けます。

「もう待ったなしです。米の値段を上げるには、貨幣を増やすしかありません」

 決断を迫られた吉宗はついに金融政策という決断を下します。

 

 こうして1736年、遂に吉宗は、大岡忠相を主導者として貨幣の品位を落とした改鋳に踏み切りました。新しい貨幣はどんどん増産され、市場に回り始めました。

 この金融政策によって米価は上昇。そして、その他の消費物資の価格抑止は一時的ですが、実現したのです。

 経済面においてかなり苦戦を強いられた吉宗ですが、当時、アダム・スミス国富論などありませんから、仕方がないことですが、吉宗には「商品の需要と供給の変化による価格変動」という考えは、難しかったのでしょう。

 これをきっかけに吉宗は米本位体制の経済システムは限界に達していることを幕府は思い知ります。その証拠に、続く田沼意次の政治では貨幣主義の財政再建に乗り出しています。

 米は農作物である以上、豊凶があります。したがって、価格は安定しません。米本位体制は時代とともに崩れていくのはむしろ当然のことだったでしょう。

 

ここからはインフレとデフレの話になります。

1990年のバブル崩壊から現在の2017年まで日本はずっと不景気だと言われてきました。つまり、この27年間日本の国内総生産は横ばいで、日本は経済成長しなかったのです。「失われた20年」がもうすぐ「失われた30年」になろうとしています。

 

この原因は一体何なのでしょうか。

テレビやラジオ、新聞ではデフレが原因だと言い、大人達もデフレが原因と言います。

前回の繰り返しになりますが、デフレは原因ではなく、結果です。すなわち、

デフレになる→ものが売れない→不景気になる。ではなく、

ものが売れない→デフレになる→不景気になる。というメカニズムです。

マクロ経済とは一言でいうと「需要と供給のバランス」です。

ものが売れないのはなぜでしょうか。需要がないからです。例えば、あなたが今からテレビを製造するテレビ会社を設立したとします。その事業は上手くいくと思いますか?おそらく上手くいかないと思います。日本国内には、テレビがある程度行き渡り、需要がないのです。

需要がないから売れ残るのです。

今後、テレビの需要が見込める海外にでも出店しなければ売れません。

結局、不景気なのは誰が悪いのでしょうか。消費者?企業?政府?

これは明らかに企業です。日本の企業は市場分析やニーズの把握という企業努力を怠り、売れる商品の研究をしていないということです。

「作った分売れる時代ではないから。」

「黙っていて売れる時代ではないから。」

結果ばかり分析しても仕方がないです。「なぜ売れないのか」という原因を分析しなければいつまでも解決しません。

私も、このブログを書いて痛感しています。投稿した記事が、面白いと思われれば、アクセス数は急上昇するのに、面白いと思われなければアクセス数は急降下します。結果がダイレクトに出る完全実力主義の世界です。したがって、私は絶えず研究しなければなりません。何が受け入れられ、何が受け入れられないのか。人々は何を求めているのか。

エンターテイメント?共感?実用性?

話が大きく脱線しましたが、今後私も努力をしなければいけないと思いました。

以上。

今回も最後まで閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。

参考文献

日曜日の歴史学 山本博文著 東京同出版

江戸早わかり事典 花田富士夫著 小学館

面白いほどよくわかる 江戸時代 山本博文監修 日本文芸社