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【江戸時代】江戸幕府公認の学問 朱子学とは【林羅山】

 こんにちは。実は中学時代イケてないグループに属していた本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【江戸時代】江戸幕府公認の学問 朱子学とは【林羅山】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

平和な時代になった江戸時代中期。この頃から町人文化が発展をしてきます。非常に華やかで井原西鶴近松門左衛門菱川師宣などが活躍した文化です。

 

 文治政治は4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉、6代将軍・家宣7代将軍・家継の時代まで続きます。特に5代将軍・徳川綱吉が将軍に就いたときの1681年に、従来の武家諸法度第1条の改定がされています。

従来は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと。」

つまり、「学問や武芸に熱心に取り組む事」とされてきましたが、綱吉の時に、

「忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ義理を専にし、風俗を乱すべからざる事」とされました。

 つまり、「忠孝をはげまし礼法をただし、常に文道武芸を 心がけ義理を専にし、風俗を乱さぬ事」という意味です。

 

 「欲望を抑え、規律ある生活をし、もっと学問や文化に励め」という文治政治らしい法律へと変わったのです。この時代、徐々に優秀な学者が研究に専念し、学問として成立するようになってきます。学問が発展するということはそれだけ戦いや反乱もなく、治安が安定し、平和な世の中になったということを意味します。

 

平和な時代が続いたため、徐々に元禄文化という文学・芸能・絵画・学問・思想などが発展していくのです。これらを17世紀後半から18世紀前半の江戸時代中期に生まれた元禄文化といいます。

 

元禄文化には、歌舞伎、人形浄瑠璃浮世草子俳諧など豊かな作品世界が広がりました。

 近松門左衛門浄瑠璃作品は現在の映画のような感覚で楽しまれ、井原西鶴浮世草子と呼ばれる現在の大衆向けの小説が登場。教養ではなく、エンターテイメントとして人々に楽しまれました。

 絵画においては菱川師宣見返り美人が有名ですが、浮世絵版画と呼ばれる絵画の大量生産システムが開発されました。

これら元禄文化はお金のあるところ。つまり富裕層の間で誕生した町人文化です。

 

さぁ、娯楽も良いですが、学問に励むことも大事です。

この時代は「学問の夜明け」とも呼ばれ、学問や思想が発展していきます。教科書にはチラッとしか出てこず、授業でもあまり触れてくれない。でも試験には出る範囲ということで、今回から数回に分けて、元禄文化の学問や思想について述べていこうと思います。

 

儒教の教えに注目した徳川家康にスカウトされた林羅山。彼は中国の朱子学を独自の解釈をして日本独自の朱子学として大成します。この思想は江戸時代のピラミッド社会の形成に大きく貢献しました。

 

 

  江戸時代を通じて代表される学問と言えば、儒教ですね。この儒教は今日の私達の道徳教育のベースにもなっている近代日本を説明する上で大変重要な学問・思想です。私達が学生の頃から受けている道徳教育に非常に強い影響を受けています。

儒教とは中国の思想ですが、どのような思想なのでしょうか。

その典型例といえば、年功序列です。すなわち、「年長者ほどエラい。」、「年長者を敬うべき」というのは私達の日常では当たり前ですよね。あれは儒教の教えから来ています。さらに欲を抑えて、理性的で規律ある行動こそが美徳であるとする思想です。名残と言って良いでしょう。

 

 日本はそれまで仏教が主流であり儒教とはあくまでその周辺範囲の思想。つまりマイナーな学問とされていました。しかし江戸時代になるとこの儒教が一気に主流になります。

 この江戸時代に儒教の教えは朱子学派、陽明学派、古学派と枝分かれしていき、日本独自の思想へと発展していくのです。

 

 ではなぜ、仏教の国であった日本が江戸時代になって、急に儒教の教えを重んじるようになったのでしょうか。江戸時代以前はいわゆる「戦乱の世」であり、「天下を取るのはこの俺だ!」と言わんばかりに人々が殺し合いをしていた時代でした。その結果、子供が親を殺す、弟が兄を殺す、部下が上司を殺すといった下剋上の風潮が強かった時代です。それが織田信長豊臣秀吉徳川家康の活躍によって、天下統一が達成され、平和な時代になったのです。

 徳川家康儒教の中でも特に朱子学に注目しました。

 当シリーズでもたびたび出てきましたが、朱子学封建社会を創るうえで非常に便利な思想・学問だったのです。

 封建社会とは一言で言うと、国王をトップとしたピラミッド型の社会のことですが、儒教という「年長者を敬うべき」という思想は安定した身分制度を創る上で非常に便利な思想だったのです。その結果、国民が規律を守り、反乱がなく、徳川家が支配者としていつまでも存続するような国を創ることが出来たのです。

例えば、飛鳥時代にも聖徳太子が官人への規範として十七条の憲法を発足し、強力な中央集権国家を創ることを目指しました。

 言ってみれば朱子学とは支配する側には都合が良く、支配される側には都合が悪い学問だったのです。

ということで今回は儒学の中の朱子学派の学者であり、藤原惺窩の弟子である林羅山を主人公として話を進めていきたいと思います。1583年、京都に生まれ、13歳から建仁寺で学問に励む。22歳の時に藤原惺窩に入門を許可され、朱子学にも励むようになる。その後、家康に学才を認められ、駿府城に居候します。家康の死後も、秀忠、家光、家綱の側近として幕府の出版事業や外交文書、法律関係の重要な政務に携わります。

 

 その学説の根本には理と気による理気二元論があります。これは宇宙の原理である「理」を学ぶことで、人間の欲望である「気」は「理」に一致していくという思想です。

 人間は欲望や感情のような私利私欲を持っています。これを「気」と呼びますが、一方で、人間は宇宙で最も優れた動物であり、高い学習能力があるため、理性的で規律ある「理」を学び取ることが出来るとした。

 したがって、徳を積むことで「理」を学ぶことが出来、人間の中に内在する「気」が鍛えられ、「気」が「理」に一致し、理に従う人になることが出来る。その結果、やがて心の平安が訪れる。としています。

 

 

 少し難しいですね。

 要するに人間誰しも持っている欲求や感情を抑えて、礼儀作法を学び、規律ある生活を送り、それを極めれば、宇宙や世の中の真理を知る人徳のある人間になることが出来るという教えです。

 このような考えを「格物致知」と言います。

 

 これが本来の朱子学の教えですが、林羅山朱子学では全然違うことを言っているのです。

彼は、頻繁に「上下天分の理」という思想を強調しています。

天は尊く、地は卑し。天は高く、地は引くし。上下差別あるごとく、人にもまた君は尊く、臣は卑しきぞ。

つまり、人には生まれながら身分が決まっており、不平等である。上位の身分の人達は尊い存在でるが、下位の身分の人達は卑しい存在なのだという

これは朱熹朱子学とは全く関係ない思想です。朱熹朱子学には身分差別のことは一言も言っていないわけです。

 さらに、林羅山が重視したのは「敬」である。それは「存心持敬」と呼ばれ、自分の欲求や欲望に支配されずに礼儀を正す敬を持つことだとした。これは朱熹朱子学でも同じです。

 しかし、ここでまたトンチンカンな主張します。存心持敬は格物致知の実現ではなく、上下天分の理の実現のためと言っています。さらに敬を「うやまう」ではなく、「つつしむ」ことと解釈しています。私利私欲が少しでもあるとそれを戒める。しかしその目的は上下天分の理のためとされているのです。

 

ちょうど水戸黄門で、「この紋所が目に入らぬか!」と助言われ、下々の者は「ハハーッ」と膝まづくようなイメージです。家紋を見せるだけで反乱が収まるわけですから支配者側からすればこれ以上都合の良い思想はないわけです。水戸黄門のあのシーンが史実通りであれば、上下天分の理という林羅山朱子学は徹底されていたのでしょう。

 

  時代が変われば、思想も変わります。今現在、このような考え方はあまり受け入れられませんよね。理性や規律は未来への保証があってこそ成立するものであり、変化が激しく、先行き不透明な現在では、むしろ物欲や野心などの欲望がないとやっていけない時代です。欲望こそが未来を創る原動力になっているのです。

 

 

 

話を江戸時代に戻します。

  

徳川将軍お墨付きの学問である朱氏学派はどんどん普及していきます。

これだけ自由と平等が当たり前になっている世の中ではとても受け入れられないことですよね。

 

 朱熹朱子学は、何も庶民だけでなく、国王も仁徳を持つべきだと主張してします。

朱子学は万人に共通の教えとして 国王も欲を抑え、規律と礼儀ある行動をしなくてはいけないとされています。もし、国王にそれらの作法が欠如していた場合、市民が革命を起こし、国王は追放されても仕方がないという考えがあります。

 ところが、林羅山朱子学にはその教えはないのです。徳川将軍家は毎日贅沢な生活をしていたのです。庶民には欲を抑えて規律ある生活を要求しているにも関わらず、これも従来の朱子学とは大きく異なる点です。

林羅山は1657年に死去。その後、子息である林鵞峰(はやし がほう)が引き継ぎます。

綱吉が5代将軍になる頃には朱子学派の門下生であった新井白石が輩出されます。白石は6代将軍・家宣と7代将軍・家継に仕えて理想的な君主像を彼らに講義しました。

 

まぁ、林羅山のこのような思想は現在の世の中では到底受け入れられる考えではないことは周知の通りだと思います。

当時の江戸時代にも案の定、この思想を批判する学者が出てきます。ということで、次回は中江藤樹を紹介したいと思います。

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