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歴史はストーリーで覚える。 【徳川家康編 その1】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「歴史はストーリーで覚える。 【徳川家康編 その1】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

豊臣秀吉朝鮮出兵はなぜ失敗したのか。徳川家康は秀吉政権の質「成長体質」の組織が長続きしないことを見抜いていた。これが教訓となり、家康は江戸幕府という「安定体質」な組織を創り上げるのです。

 

 1590年、天下統一が完了した秀吉は、勢力を海外に広げようとします。その手始めが朝鮮でした。これが秀吉の1592年から続く朝鮮出兵になります。1592年の侵攻を文禄の役、1597年の侵攻を慶長の役と言います。

 しかし、この2度に渡る朝鮮出兵は失敗に終わります。それをあらかじめ見透かしていたように終始懐疑的な目で見ている人物がいました。それが今回の主人公である徳川家康」です。

 

 皆さんは、徳川家康といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。彼には信長や秀吉のような派手さはなく、どちらかというと「裏方」といったイメージ。しかし、淡々とした得体の知れない彼の存在感は信長も秀吉も敵に回したくないものだったのです。

 家康自身も「勝てない敵とは戦わない」という発想で、信長や秀吉を影で支える一方で、江戸幕府を開くための盤石な経営基盤を着実に作りあげていったのです。まさに眠れる巨人。

 また、天下分け目の合戦と呼ばれた1600年の関ヶ原の戦い家康が行ったことといえば、敵の有力大名への交渉や脅迫といった裏工作で、西軍側の有力大名のほとんどを東軍側に寝返らせることに注力しています。そして本当に邪魔な奴らは一か所に集めて一気に叩き潰す。このような策略によって関ヶ原の戦いは数時間で決着がつきました。このように家康とは良く言えば「極めて合理的な考えが出来る人」、悪く言えば、「ズル賢い人」になります。

 

 話を朝鮮出兵に戻します。

 秀吉の海外侵略の考えは全国統一の前からあったようです。その典型例が1588年の海賊取締令であり、秀吉は海外への支配権を強めようとします。しかし、応じる国などあるはずもなく、秀吉は朝鮮出兵に踏み切ります。

 なぜ、秀吉は海外への侵攻を行ったのでしょう。天下統一によって日本全国から戦争がなくなったことで、それまで重要視されてきた戦場での槍働きや作戦、戦略の才能は必要なくなってしまいました。これは、それまでの大名達にとって誠に奇妙で不愉快なものでした。すなわち、当時の武士達にとって仕事や生きがいとは、「戦いに勝利し、その報酬として相手の領土を手に入れること。」だったのです。

 歴史はどうしても結果論になってしまい、歴史評論の本では「朝鮮出兵は調子に乗りすぎた秀吉の身の程知らずの野望」と書かれているものが多いですが、これは違います。秀吉の独断ではなく、明らかに外から何らかのプレッシャーがかかっていたことは容易に想像出来ます。そうでなければ、これだけ長い期間、大規模な人員移動が実現することは考えにくいからです。

 

 現代に喩えて考えてみましょう。私達は大企業に就職すれば「生涯安泰」と無意識に感じます。安定的な収入が得られることを前提として生活水準や住宅ローン、子供の教育ローン、老後の貯蓄を計画したりします。

 それがある日突然、仕事が激減し、同時に収入も激減し、今後は増える見込みがないとなれば人生設計に大きな狂いが生じます。そんな時、あなたは会社に何を望みますか。市場開拓や事業拡大・多角化などを通じて何とか仕事を獲得し、月々の安定した収入を保障して欲しいと願うはずです。これは今現在、日本の多くの企業が直面している問題でもあります。大きくなった組織はそれを維持するだけの利益を出し続けなくてはならないのです。それは成長体質によって超巨大組織になったがために非常に困難な課題になるのです。

 秀吉が受けたプレッシャーは相当なものだったでしょう。会社の経営者が背負う最大の責任とは、社員の生活を保障すること。それは常に戦争をし、傘下の大名達に領土を報酬として与え続けなくてはいけないことを意味します。したがって、「日本に領地を広げる余地がないから、外国へいけば良い。そうだ。朝鮮にしよう。」という発想になります。そう考えると、秀吉の朝鮮出兵はむしろ当然のことだったのです。

 組織の「成長体質」を否定し、組織の「安定体質」実現することは、後の江戸幕府にしっかりと取り入れていることです。

秀吉には勝てないことを悟った家康。家康の我慢の時期が始まりました。同時に、着々と江戸の開発に取り組みます。

 

 さぁ、家康のエピソードについて述べていきます。

 1584年、秀吉との戦いだった小牧・長久手の戦いは家康が負けるカタチで終結しました。秀吉に武力では勝てないと悟った家康。しかし、天下は取りたいという野心は持ち続けていました。この場合、合理的な方法は、「秀吉が死ぬまで待ち続ける」ということです。家康が長寿であったのはこのためです。家康が健康志向であったことは大変有名な話ですよね。

さぁ、ここから秀吉が死ぬまで我慢の時期が訪れました。

 

 秀吉が天下統一を達成した1590年、秀吉は家康に「郷土・三河の地を捨て、江戸に居城せよ。」と命じます。おそらく秀吉にとって家康は危険な存在に映ったのでしょう。京都から出来るだけ遠く離れた江戸に家康を置いておこうとしたのです。そう、現代でいう左遷のようなイメージです。

 家康はしぶしぶこれを受諾。しかし、当時の江戸は沼地だらけで、急斜面な山ばかりで平地は少なく、とても人の住めるようなところではありませんでした。しかし、家康はこの屈辱をバネに江戸を開発を決意します。

 家康は江戸に居城後、すぐに江戸の開発に取り組みます。急斜面の山を切り崩し、その土を地盤の緩い沼を埋めて、強硬な地盤を創ることにします。これらハードウェアな土木工事は全て家臣らにやらせ、家康自身は政治や法律などソフトウェアに関する仕事をやります。

 先述の通り、家康は秀吉の朝鮮出兵は失敗すると見抜いていました。だからこそ、家康は皆が朝鮮出兵をする中、国内に残り、江戸の開発に専念したのです。

 

 家康の我慢の時期は続きます。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。