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歴史はストーリーで覚える。 【豊臣秀吉編その2】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「歴史はストーリーで覚える。 【豊臣秀吉編その2】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 さぁ決勝トーナメントは第7試合が繰り広げられています。尾張の織田VS中国の毛利氏による備中高松城の戦いです。両軍のリーダーはそれぞれ、豊臣(羽柴)秀吉と毛利元就です。

 

 秀吉が今後、飛躍的に出世するのはこの戦いからです。当時の毛利氏は織田家にとって最大の敵でしたから織田軍は軍事組織を創り、秀吉は中国方面統括事業部長、すなわち、中間管理職として現場で指揮をとります。いよいよ秀吉が指揮する部下は1万人に増えました。

 

 ところが本能寺の変で信長が横死すると、秀吉の方から毛利に対して急きょ、和睦の提案が入ります。毛利は秀吉を敵に回したくなかったことと、主君・信長の死を思い遣り、これを受諾。戦いは秀吉の勝利となるや、秀吉はすぐに京都まで戻りました。(中国大返し)。ということで決勝トーナメント7回戦の勝者は羽柴秀吉になりました。

 

 京都に戻った秀吉は主君・織田信長の仇打ちのため、1582年山崎の戦いにて明智光秀を討ち破ります。

 

おそらく秀吉は

「落ちぶれていた私をここまで立身させてくれた信長様に恩返しをしたい!」

 

と、思ったことでしょう。こうして秀吉は信長が成し得なかった天下統一を引き継ぐことを決意します。

 この勢いで、秀吉は主君の後継者問題で同じく信長の重臣だった柴田勝家と戦います。これが1583年の「賤ケ岳の戦い」です。戦いは秀吉の勝利に終わり、秀吉は正式に織田家の後継者として主導権を握ります。そう、遂に秀吉は全国最大手の企業オーナーになったのです。

 

 それに伴い、秀吉は大阪城の築城を開始、さらに「太閤検地」も行うなど天下統一への道を着々と進めます。天下統一において最も重要な要素は「米」です。農民から徴収した「米」を武士はお金に換えて生活をしています。したがって、年貢米の減少は死活問題になります。

 太閤検地とは、農民から年貢米も確実に収めさせることを目指したものですが、秀吉は最優先事項としてこの太閤検地を行います。田畑の所有者や面積、収穫高を面積の測り方(測量)やその土地から取れる米の量を統一の基準で調べ、検地帳に記入することで不正行為なく、確実に年貢米を収めさせることに成功しました。

石高制→土地の生産力ではなく、米の生産量。

 

 それでは戦国合戦全国大会決勝トーナメントの第8回戦に入ります。この戦いは1584年の旧織田家の豊臣秀吉VS三河徳川家康による小牧・長久手の戦いになります。試合は引きわけに終わり、再戦と行きたいところですが、徳川家康自らが休戦の提案をしたため、試合は秀吉の勝利で終わります。この時、豊臣家は旧織田軍、徳川、毛利などの伝統と格式を持つ大名を傘下に治めた超巨大組織へと成長しました。

 

 1585年、秀吉は関白に就任します。そう、山崎の戦いというデビュー戦から、秀吉はわずか2年間で天下人に駆け上がるのです

 1588年、太閤検地に次いで秀吉の代表的な政策になる刀狩令を出します。太閤検地は年貢を確実に収めさせるためのものであるがゆえ、非常に厳しい検査であり、中には反発する農民もいました。そこで農民の武装解除を徹底することで、反発を起こさないようにしたのです。

 秀吉の検地に対する意気込みは並々ならぬものがあり、これらの抵抗を全て武力によっておさえつけようとしました。秀吉は家臣達に「従わぬ者は全て切り捨てよ。」 これによって武士と農民の身分は明確に区別され、完全なる「兵農分離」を実現させることに成功しました。

 これが後の江戸幕府が作り上げる「士農工商」という完全なピラミッド型身分制度の基礎となるのです。

 

 全国大会決勝トーナメント第9回戦は1585年の豊臣秀吉と四国の長宗我部氏の戦いになります。秀吉の圧勝。秀吉は四国を平定します。そしてこの頃、秀吉は天下統一のための組織編成をします。これは石田三成をはじめ自分の側近で事務作業を行わせる官僚組織です。

 秀吉は快進撃はまだ続きます。

 

 一方、決勝トーナメントは10回戦である豊後の大友氏VS薩摩の島津氏の九州で激しい戦いを繰り広げています。勢いある島津氏に大友氏は大苦戦。大友氏は秀吉の「惣無事令」を受け入れることで、秀吉の強力を得ることに成功し、島津氏を倒します。そして秀吉は大友氏を傘下に入るカタチでのでした。

 

 さぁ全国大会決勝トーナメントは準決勝に入ります。対戦は1590年の豊臣秀吉VS陸奥の伊達氏の戦い。両軍それぞれのリーダーは豊臣秀吉伊達正宗になります。

 

 陸奥の伊達正宗は秀吉が活躍していた戦国時代末期、東北地方を中心に勢力を拡大していた名門です。しかし、この時既に秀吉は西日本全てを平定した巨大組織になっており、しかも、秀吉は全国の諸大名に参陣を呼びかけ、それを「踏み絵」とし、自分の味方になるか敵になるかを見定めていたのです。これに伊達正宗は戦意を喪失。戦いは秀吉の勝利で終わりました。

 

 さぁいよいよ戦国合戦決勝トーナメントも決勝戦になります。対戦は旧織田家の豊富VS関東の北条氏になります。両軍のリーダーは豊臣秀吉北条氏政・氏直です。一体、どんな熱戦いを見せてくれるのでしょうか。

秀吉「ちょっと待って。戦いなんてやらないよ。」

実況「え?そうなんですか。」

秀吉「まぁ見ておれ!戦わなくても伊達氏の時のように戦意を喪失させてみせるわい。」

実況「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス ですか。」

秀吉「ん?何のことじゃ??」

実況「いいえ。何でもありません。現代ではそう言い伝えられているので。」

 

 1590年、秀吉は関東攻略のため、北条氏が居座る小田原城へ向かいます。秀吉はいよいよ天下統一への王手をかけたのです。秀吉は小田原城へ傘下の諸大名を配置。小田原城を完全に包囲します。ここからは両者の睨み合いが続くという心理戦に突入します。

 北条氏は中々折れず、しかも小田原城内は食料も豊富で長期戦は必須。秀吉はある作戦を企てていました。

 小田原城の近くにそびえる笠懸山にわずか数十日の突貫工事で城を築き、ある日築城現場を覆っていた杉林を一気に切り倒すとそこには立派な城郭を持つ「一夜城」が姿を現したのです。これに北条氏は驚き、秀吉の降伏勧告を受け入れます。こうして5代に渡って100年続いた関東の名門・北条氏が滅びました。

 

こうして信長様が成しえなかった天下統一を意志を引き継いだ豊臣秀吉によって達成されたのです。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。

本宮 貴大でした。それでは。