【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(後編)
こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(後編)」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
戦争は究極の景気対策です。
これは大変皮肉なことですが、事実です。
戦争すれば、多くの軍隊を動かすことになります。多くの軍隊が動けば、それだけ多額のお金が動きます。軍事物資の需要も急激に伸びるため、関係業種は上がり、雇用も一気に拡大します。
戦争には、巨大な公共事業と同じような経済効果があるのです。
当時の大日本帝国は、ある意味、こういう戦争という公共事業で成長した国でした。
1894(明治27)年の日清戦争では、武器の製造や紡績業といった軍需関連の特需が起こり、戦後で得た多額の賠償金もあって経済が大きく成長しました。
1904(明治37)年の日露戦争では、賠償金を得ることが出来ず、戦費が回収できなかったことや新たに得た領土の管理費などがかさんだため、戦後は一時的に不況に陥りました。しかし、重化学や重工業はその下地を整え、大きく成長する準備が出来ていきました。
1914(大正3)年の第一次世界大戦では、欧米各国が不在の中、アジア経済を独占。かつてないほどの対戦景気に沸きました。その結果、日本は世界有数の工業国へと発展することになりました。また、連合国側に加わったことで、大日本帝国の国際的な地位を向上させ、戦後に発足した国際連盟では常任理事国5ヵ国のひとつに加わった。
このように大日本帝国の成長は戦争によって成し遂げられたといっても過言ではないのです。は切っても切れない関係にあったのです。
日本は大戦景気を経験してからおよそ10年以上にわたって長期的な不況に陥りました。
1920(大正9)年の戦後恐慌から3年後、関東大震災により膨大な不良手形(震災手形)が発生(震災恐慌)しました。
さらに、1927(昭和2)年、議会の片岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣の失言により、銀行の取り付け騒ぎが起きるという金融恐慌が発生しました。
これによって、民衆の生活は慢性的に苦しいものになりました。
それに輪をかけるように1929(昭和4年)、アメリカで株価が大暴落し、それが全世界に波及、世界恐慌へと発展してしまいます。
それは日本にも波及し、輸出不振に陥り、企業の倒産が相次ぎました。
さらに世界的な不況ゆえ、欧米のすぐれた商品が安価で国内に怒涛のように流れ込んできたて、国内向けの産業も大打撃を受けてします。
昭和恐慌です。
こうして大量の失業者があふれ、「大学は出たけれど・・・」という言葉も流行るくらい大学生の就職口もほとんどありませんでした。農村でも生糸の値段が暴落し、凶作がこれに重なり、娘の身売りや欠食児童が急増していきました。
欠食児童とは、弁当を持参できない児童のことですが、当時の小学校には給食はなく、この欠食児童が問題になりました。
家庭が貧しいがためにお弁当が用意できない。
弁当を持っている友達はいるのに、自分は持っていない。こうした格差には、年頃の子供達には辛いものだったでしょう。
また、「娘売ります」という看板を持った15歳~17歳の女性が映っている写真は日本史の教科書にも出ていますが、農村の女性がいわゆる売春業に売られるという状態が蔓延していました。
娘を売った家は、吉原や玉ノ井にある売春を営む店からまとまったお金が支払われます。
売られた女性は、売春宿で働くわけですが、稼いだお金は自分の楽しみのためではありません。家族が生活するためのお金です。
このように民衆は苦しい生活をしているのに、政党内閣は有効な手段がとれず、むしろ党員が汚職を繰り返すという醜態をさらしていました。
政治が悪いというのは、本当に悲惨なことです。
そうした中、国民の期待を集めたのが軍部です。そんな国民の支持を背景に、軍部は政治への影響力を強めていくのです。
このため、1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、不況にあえぐ国民の多くは熱狂的に歓迎しました。
これまで同様、国力が増強し、経済も大きく回復すると思っていたからです。
満州事変とは、民衆が望んだ戦争だったのです。
満州とは、中国東北部のことですが、日清・日露戦争によって日本が権益を獲得した南満州鉄道が通るこの土地には、肥沃な農地と大量の鉱物資源がありました。
満州が開発され、国力が上がれば、国が豊かになれば、失業の心配もなくなり、農村での娘の身売りもなくなる。
貧窮にあえいでいた当時の人々はそう考えていました。
貧困(民衆の窮乏)が戦争を肯定していくというのは、本当に皮肉なことですが、世界がまた戦争を求める時代がやって来たのです。
しかし、当然ですが、戦争には大きなリスクがあります。
多くの兵士が戦場に駆り出されることで、国内の労働力が減少するため、経済も一時停滞します。
それでも最終的には勝てばよい。
最悪なのは、負けた場合です。
戦争はたいがいの場合、公債という国の借金でまかなわれます。
戦争に勝てば、この借金は、敗戦国からの賠償金によって返済されます。しかし、負けた場合、国民が買った公債は紙くず同然となっていまいます。そうなれば、国の経済は壊滅的なダメージを負うことになります。
満州事変当時の日本の国民も、そうしたことは十分承知していたはずです。
しかし、戦争反対を主張する者は決して少なくありませんでした。
なぜならば、当時の大日本帝国には、参戦した戦争にはことごとく勝利に収めたという「不敗神話」がありました。日本が戦争に負けるとは思えなかったのです。
以上、2回にわたって関東軍はなぜ満州事変を起こしたのかについてみてきましたが、いかなる理由があっても、日本人が自分達の土地でないところに国をつくろうとしたのですから、「侵略」という側面があったことは否めません。
しかし、世界恐慌が起き、欧米のブロック経済から閉め出された日本が、自国の経済を守るために満州を「フロンティア」としてつくろうとしたのです。
関東軍高級参謀の石原莞爾は、アメリカとの最終戦争に備えて満州の開発は必須としていましたが、彼は東アジアにアメリカと同じような多民族国家を創り、各民族が自由に経済活動をできるような空間を作ろうとしたのです。
これは日本人、朝鮮人、中国人(満州人)、モンゴル人、ロシア人が平等の権利を持ち、エスニシティ(民族)に縛られず、共存共栄する経済圏です。
そういう目的によって満州事変は行われたのです。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
魂の昭和史 福田和也=著 小学館文庫
【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(前編)
こんにちは。本宮 貴大です。
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今回のテーマは「【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(前編)」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
「そうです。これからの戦争はトーナメントのように行われるでしょう。そしてその勝者が世界をリードするようになるでしょう。」
関東軍作戦参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)は、壮大なビジョンを持っていました。
それが日本とアメリカの最終戦争論です。彼は陸軍大学校を次席で卒業後、3年間のドイツ留学でクラウゼヴィッツの『戦争論』について学ぶなど、陸軍の中でも選りすぐりのエリートでした。
「最終戦争の決勝戦では、東洋の覇者と西洋の覇者が戦うことになります。」
「それが日本とアメリカだというのですか。」
「私はそう考えております。この最終戦争は、かつてないほどの持久戦、耐久戦になるでしょう。」
「しかし、現在の日本とアメリカでは国力の差がありすぎる。」
「そう、現在の日本の国力では限界があります。だからこそ、満州国が必要なのです。」
「アメリカに対抗するには、日本の3倍の面積を持つこの満州を育成して、来るべき全面戦争に備えるしか道はありません。」
「石原さん、だったら、いっそのこと中国全部を手に入れてしまうのはどうでしょう。」
「う~ん・・・・しかし中国大陸は広すぎます。島国が大陸国に挑むのは、地政学的にもかなり不利です。戦線の拡大は危険です。」
石原は1929(昭和4)年に『世界最終戦争論』という論文を記しており、それによると、やがて日本が東洋文明の中心となり、アメリカが西洋文明の中心になり、最終的に両者が大戦争を行うことで東西文明は統一され、世界平和が訪れるとしています。
こんな壮大で誇大妄想的な理論が、今後、軍部にとっての理論的支柱となっていきます。
つまり、来るべき最終戦争に備え、日本がアジアの中心になる必要がある。その第一歩として満州を支配しておかなければならない、ということです。
日本陸軍の中には、ヨーロッパへの留学や駐在などで第一次世界大戦の凄惨な実相を目の当たりにした人が多く、これからの戦争は総力戦になることを知りました。
総力戦とは軍事力だけでなく、資源や工業生産力の、人口、国土の広さなどの総合的な国力で勝敗が決まる戦争のことですが、もし、日本が総力戦に参戦することになったら勝ち目がないとの危機感を抱く人間が多く存在していました。
石原は、日本がアメリカやソ連などの大国を相手に「総力戦」を戦うとしたら。本土と朝鮮、台湾だけでは不十分で、広大な満州を自国の支配下に収めなければ総合的な国力で対抗できないと考え、なんとかして満州を手中におさめようと、軍事的手段で満州を征服する計画を研究しました。
「満蒙は日本の生命線」
これは当時、よく使われていた言葉のようです。
当時の満州における日本の利権は、先に触れた南満州鉄道(以下、満鉄)の事業が中心で、それらの利権を守っていたのが関東軍でした。
満鉄は、日露戦争終結翌年の1906年6月の勅令で設立準備がスタートし、同年11月26日に設立総会が開かれました、日本が満州に持つ利権の確保と拡大を主な業務とする巨大な国策会社でした。
鉄道と物流を基幹事業としつつ、建設業や倉庫業、鉄道附属地の経営など幅広い業種で事業展開を行い、満州での経済的影響力を強めていました。
一方、関東軍はもともと、日露戦争後に日本が租借権を手にいれた遼東半島の関東州と満州内の満鉄附属地(全長430キロにわたる鉄道線路とそれに隣接する幅約62メートルの帯状の土地など)を守ることを主任務として創設された、陸軍の地方守備隊でした。
第一次世界大戦終結後の1919年までは「関東都督府陸部」という名称でしたが、同年4月に関東都督府が関東庁へと改組されると、この都督府陸軍部は統治機構(関東庁)から組織を分離されて「関東軍」として独立しました。
それが、昭和に入り、日本の満州における権益が危うくなってきました。当時、中国では北方軍閥打倒を目指す北伐を進めていた蒋介石率いる国民革命軍が北京を目指していました。
関東軍は危機感を強めました。
これ以上北伐が進めば、満鉄などの権益を奴らに奪われるかもしれないと思ったからです。
当時に北京を拠点にしていた軍閥は、張作霖でした。彼は日本からの支援を受けているにも関わらず、やがて日本の言うことを聞かなくなりました。
これに不満を持った関東軍は、張作霖を政治工作で退陣させようとしますが失敗に終わります。
そこで、1928年6月4日に、張作霖を暗殺という暴力的な手段で満州の支配権を手に入れようとしました。
張作霖の後継者となったのは、彼の息子である張学良ですが、父が日本の軍隊に暗殺されたことを知り、国民革命軍の蒋介石と手を組み、日本に対抗するようになりました。その結果、日本の権益はますます脅かされることになりました。
そこで、関東軍は圧倒的な武力で満州を制圧し、国民党勢力を追い出し、完全領土化させる計画を立てました。それが満州国の建国なのです。
1929年6月3日、日本政府は蒋介石の国民政府を正式な中国政府と承認しました。
しかし、関東軍では、武力で満州を制圧する研究を熱心に進めていました。その中心人物となったのが、河本大作の後任として関東軍高級参謀となった板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐です。
彼ら関東軍の将校たちは、同1929年7月3日から15日にかけて、満州の主な都市を旅行しました。
表向きの名目は「ソ連との戦争に備えた現地視察」という形式でしたが、実は「どのようにして満州の主要都市を日本部隊が攻略すべきか」という作戦の検討が真の目的であり、旅行の後には野戦部隊を用いた実践さながらの演習も行われました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【浜口雄幸内閣】協調外交はなぜ挫折したのか
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【浜口雄幸内閣】協調外交はなぜ挫折したのか」というお話です。
第一次世界大戦後、列強諸国は戦争を放棄し、軍縮を進めました。浜口雄幸内閣は、列強諸国と強調するべくロンドン海軍軍縮条約を締結。しかし、それが海軍軍令部からの反発を招き、されに野党立憲政友会からも統帥権の干犯だと攻撃を受けてしまいました。
田中義一内閣が満州某重大事件(張作霖爆殺事件)の収拾に失敗して倒れたあと、政権の座を取り戻したのが民政党の浜口雄幸内閣でした。
この内閣が掲げていたのは、緊縮財政と国際協調です。
1930(昭和5)年4月、協調外交と軍縮政策を進める浜口内閣は、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、海軍の軍縮政策と国際協調路線を推し進めました。
今回は、浜口内閣の外交政策として国際協調を取り上げ、そんな協調外交がなぜ挫折したのかについてお話したいと思います。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、それまで人類が体験したことのないほどの悲惨なもので、多くの犠牲者を出してしまいました。
そこで、第一次世界大戦後の1919(大正8)年のパリ講和会議の結果、ヴェルサイユ条約が結ばれ、ヨーロッパの平和秩序を維持するための様々な取り決めがされ、二度とあんな悲惨な戦争が起こらないよう、国際的平和機構である国際連盟も発足されました。
また、1921(大正11)年には、ワシントン会議が開かれ、今度はアジア太平洋方面の平和秩序を維持するための取り決めがされました。
その中で、1922(大正12)年のワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、海軍の軍縮に先鞭(せんべん)がつけられ、アメリカ・イギリス・日本・ドイツ・イタリアの先進諸国は大幅な軍縮を行いました。そこでは、アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率は5:5:3に、つまり日本はアメリカに対し、6割の主力艦の保有が認められました。
ワシントン海軍軍縮条約で、主力艦が制限されたため、列強間の建艦競争は補助艦に移りました。
そこで、1927(昭和2)年、今度は補助艦についても軍縮を決めるためにスイスのジュネーブで会議が行われます。しかし、イギリスとアメリカが対立したので不成功に終わりました。
それが、今回のロンドン海軍軍縮会議において、英米間の折り合いがつき、日本・イギリス・アメリカ・ドイツ・イタリアの主要海軍国における補助艦の保有量に制限を加えてパワーバランスを構築しようという狙いがありました。
この会議への参加は、田中内閣の時点で、すでに閣議決定されていましたが、浜口内閣になってからようやく若槻礼次郎元首相らを全権として送りました。
このように列強を中心とした世界各国は、「国際平和のため」という名目で、次々に軍縮を行っていきました。
一方で、主力艦の建艦が制限されたため、列強各国は建造途中の戦艦の処分や、軍事予算の大幅な削減に苦労するという不都合な状況にも立たされました。
その分、戦艦をはじめ、関連業種の需要も減退するため、景気は悪くなります。人件費削減のため、海軍への就職口も狭まり、海軍兵士の給与も減ります。
日本の帝国海軍も強い反発を示しました。そして特に海軍軍令部では以下のような意見が定説となりました。
「太平洋に侵攻してくるアメリカ戦艦に対抗するには、最低でも7割の兵力がなくてはならない。」
海軍軍令部長の加藤寛治や次長の末次信正らは、ワシントン会議時の加藤友三郎海相による対米6割の受け入れに強い不満を残しており、御前会議において以下の三大原則の決定を要求しました。
1.補助艦は合計で対米比7割の比率を確保すること
2.ワシントン会議での大型巡洋艦の保有量も対米比7割の比率に改定すること
3.潜水艦は現保有量を確保すること
加藤らは、各地への宣伝にも努めていました。
一方で、同じ帝国海軍でも海軍省は「条約締結は仕方なし」とする勢力で、彼らは条約派と呼ばれました。全権団に随行する財部海相や、岡田啓介軍事参議官や、鈴木貫太郎侍従長は、かつて2個師団増設問題で政党と正面衝突した(大正政変)陸軍の轍(てつ)を踏むべきではないと考えており、2大政党の一方から永く怨まれることは海軍のためにも望ましくないとしていました。
このように海軍部内では条約に賛成する「条約派」と反対する「艦隊派」に分裂し、以後、両派の対立が構造化していきます。
さらに、同じ軍部でも陸軍からの反発はあったのでしょうか。
陸軍相の宇垣一成は、問題に深く立ち入ることなく一貫して政府を支え、陸軍を統制したため、反発は起きませんでした。
さて、ロンドン会議の全権は、若槻礼次郎元首相を全権主席とし、軍縮交渉は同1930(昭和5)年1月から開催されました。
しかし、日本の対米比7割の要求に対し、アメリカやイギリスから強い批判がありました。
若槻礼次郎主席全権はアメリカ代表のスティムソン国務長官、イギリス代表のマクドナルド首相と交渉し、妥協点を模索しました。
交渉は3か月にも及びました。
辛抱強い交渉の末、同1930(昭和5)年3月12日、補助艦に関しては日対米比率69.75%というきわどいですが、ほど7割の水準で妥結。
潜水艦に関しては日・英・米は同量を保有する妥協案が成立するという日本側の希望がほぼ認められました。
しかし、大型巡洋艦に関しては、条約の期限である1935年までは対米比7割以上を確保で良いが、それ以降は6割以下に抑えると決められました。その代わり、アメリカは保有可能な18隻のうち、3隻の起工を1933年以降とすることで妥結しました。
この案は、当時の日本とアメリカの国力差を考えれば破格の扱いでした。
主席全権の若槻は本国に電文し、同案の承認を請訓しました。
「これ以上の成果は望めません。何とかこの水準に妥結したいと存じます。」
しかし、これに対し、海軍軍令部の「艦隊派」は、大型巡洋艦の対米比率はあくまでも7割以上でなければいけないと異議を唱えました。このとき、帝国海軍はアメリカを仮想敵国としており、対米7割に満たない妥協案は到底呑むことが出来ない取り決めでした。
「この案ではアメリカに対し、5分5分での軍備を持つというカタチにならないではないか。」
昭和天皇は、浜口首相を励まします。
「世界の平和のために早く纏めるよう努力せよ。」
昭和天皇は妥協案を承認し、ロンドンにいる若槻全権団に条約への調印を回訓しました。
加藤軍令部長は天皇に反対上奏を試みます。
「これでは、多くの海軍兵士からの反発を招くことでしょう。軍令部長として責任は取れません。」
しかし、侍従長の鈴木貫太郎の説得に加藤は引き下がり、海軍としては不足する兵力を補充に努めることで、その鉾(ほこ)を納めました。
そして同1930(昭和5)年4月22日、全権はロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
ところが、問題はその批准過程で再燃しました。
野党や枢密院、そしてマスコミが政府の方針に対して強い批判展開したのです。
この条約を締結した浜口内閣は、与党政権としては立憲民政党でした。
当時、野党の立場だった立憲政友会はライバルである民政党に少しでもつけ入る隙があれば徹底的に叩くという姿勢でした。
つまり、この軍縮条約を政争の道具として使ったのです。
政友会は政府攻撃のために大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という統帥条項を持ち出し、政府が海軍軍令部の反対を押し切って条約に調印したことは、天皇大権の1つである統帥権、すなわち陸海軍を指揮・命令する天皇の大権を犯すものであり(統帥権の干犯)、憲法違反であると浜口内閣を激しく非難しました(統帥権干犯問題)。
この統帥権の干犯を最初に持ち出したのは、立憲政友会の総裁・犬養毅でした。
「日本の陸海軍は、天皇直属の組織であり、政府が勝手に軍縮を決めるのはおかしい。」
野党政友会は、民政党を攻撃するために、眠れる枢密院をわざわざ活性化させたうえに、海軍の一部と提携する行動に出ました。
結果として、この統帥権干犯問題は、軍部が政治介入する口実を与えるきっかけとなりました。軍部は政府が軍の意向に沿わない決定をしようとすると、それがあたかも統帥権の干犯に通ずるかのような政府批判を展開するようになり、内閣や議会が干渉することが出来ない、半ば独立した存在になっていきました。
こうしてロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐり、軍縮を進める政府(浜口内閣)と軍縮に反対する海軍軍令部の対立関係は徐々に深まりました。
これに政友会や枢密院、右翼、マスコミが加勢し、政府批判を展開しました。
「浜口は海軍軍令部や陸軍参謀本部をないがしろにし、軍を指揮する統帥権を内閣、すなわち政党の下に置いて、大元帥を廃する計画をしている。」
そして、同1930(昭和5)年11月14日、浜口首相は東京駅で右翼の佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃されて重傷を負い、療養に専念しなければならなくなった。そこで、幣原外務大臣が臨時首相代理を務めることになりました。
参考文献
マンガでわかる日本史 河合敦=著 池田書店
昭和史 上 1926~1945 中村隆英=著 東洋経済新聞社
教科書には載ってない大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
さかのぼり日本史 ③昭和~明治 御厨貴=著 NHK出版
大日本帝国の興亡【満州と昭和陸海軍】 Gakken
【満州某重大事件】張作霖はなぜ殺されたのか【河本大作】
こんにちは。本宮 貴大です。
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今回のテーマは「【満州某重大事件】張作霖はなぜ殺されたのか【河本大作】」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
満州(中国東北部)の中心都市のひとつ、奉天(現:瀋陽)には、戦前から何本かの鉄道が通っていました。
中でも幹線といえば、日本が運営する南満州鉄道(満鉄)と、北京・奉天を結ぶ中国側経営の京奉線でした。満鉄は、日本が日露戦争によってロシア帝国から譲渡された鉄道でした。
その両線がクロスしている地点が奉天市内にあり、上を南北に満鉄線、下を東西に京奉線が走っていました。
1928(昭和3)年6月4日午前5時23分、この交差地点で事件が起こりました・・・・。
ということで今回は、満州某重大事件の経緯についてふれながら、張作霖はなぜ殺されたのかを見てきたいと思います。
蒋介石率いる国民革命軍は、中国の全国統一を目指して、広東(かんとん)から長江(ちょうこう)流域を北上し、各政権を制圧していきました(北伐)。
一方で中華民国内では民族運動も盛り上がり、蒋介石率いるこ国民革命軍は、外国領事館を襲撃するなどの猛威を振るっていました。かつて中国が外国との間で結ばされた「不平等条約」を破棄し、植民地や租借権で失った利権を回復しようというのです。
これに対し、田中義一内閣は、1927(昭和2)年に中国関係の外交官・軍人を集めて東方会議を開き、南満州鉄道をはじめとした満州における日本の権益を武力によって守る方針を固めました。
翌1928(昭和3)年、田中内閣は、当時北京に拠点を置いていた「奉天派」の軍閥である張作霖を支援し、国民革命軍に対抗するため、日本人居留民の保護を名目に、3次にわたる山東出兵を実施しました。第2次出兵の際には日本軍は国民革命軍とのあいだに武力衝突を起こし、一時、済南城を占領しました(済南事件)。
山東半島の済南で日本と中国が衝突している頃、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)は北上を続け、張作霖と全面衝突する可能性が高まっていました。
この時、田中首相は友好的な関係にある張作霖が蒋介石の軍勢に敗れて「奉天派」の軍閥が総崩れになることを恐れていました。
張作霖も蒋介石同様、かつて中国が外国との間で結ばされた「不平等条約」の破棄を国民に訴えて人気を得ていたからです。
したがって、もし満州全域が蒋介石の手に落ちれば、日本はもう二度と満州に手出しできなくなるかも知れないと危惧していたのです。
こうした思惑から、田中首相は、中国公使の吉沢謙吉を通じて張作霖に以下のような提案をしました。
吉沢「北京はもはや北伐軍に押さえられたも同然です。いったん、北京を蒋介石に明け渡し、本拠地である満州の奉天に帰還して態勢を整えてはどうでしょうか。」
これに対し、張作霖は答えました。
張「我が政権はこれまでなのか・・・・・。」
吉沢「いえ。満州は張元帥の領土です。田中総理は満州の権限は保証するとおっしゃてます。」
張「それは安心した。しかし、北伐軍が満州にも攻め入ってきたらどうする?」
吉沢「蒋介石はそこまでやらないでしょう。」
張「そんな保証はどこにあるのだ。」
吉沢「いや、させません。我が国がお守りします。」
田中首相はかつて、陸軍の参謀将校として日露戦争に従軍していた時、ロシアのスパイとして日本軍に捉えられ、処刑されかけていた張作霖を助けたことがあり、個人的な交友関係を築いていました。
強力な戦力をもつ保持する蒋介石の国民革命軍と戦っても、勝てる気がしなかった張作霖は、田中首相の勧めを受け入れ、1928年6月4日早朝、豪華な専用列車に乗り込んで北京を後にしました。
こうした田中首相の中国融和政策に冷水を浴びせる事件が起きるのでした・・・。
日本軍の満州での出先機関である「関東軍」司令官の村岡長太郎中将は張作霖に不信感を持っていました。
村岡「まったく田中首相は、張作霖を買いかぶりすぎている。奴が北伐軍を阻止できるものか。」
さらに、村岡の部下で関東軍高級参謀の河本大作(こうもとだいさく)大佐も言いました。
河本「よしんば阻止しきれたとしても、張が我らの言う通りに動く保証はありません。」
村岡「そうだ。日本軍の援助を受けながら我々の言うことを無視し始めたではないか。」
河本「裏では英米と連絡を取りあって、排日運動をけしかけています。中将、これはやるしかありませんぞ。」
張作霖を個人的に信用していた田中首相とは異なり、関東軍の上層部は、「張作霖は日本を裏切って欧米に寝返った」とみなしており、「彼の奉天帰還を容認すれば、今後の満州利権をめぐる交渉で日本が不利になる」との独断に基づき、田中首相の許可を得ることなく、張の暗殺計画を企てていたのでした。
事件は満州の首都・奉天市から4キロぐらい外れにある奉天城の手前にある満鉄線と奉天線のクロス地点ので起こりました。
「目標確認!」
「よぉぉし。今だ!」
ズドオオオオオン
1928(昭和3)年6月4日午前5時23分、張作霖を乗せた京奉線の専用列車が鉄道の立体交差に仕掛けられた爆薬で吹き飛ばされ、京奉線の18両編成のうち、数両が大破しました。
張作霖は重傷を負い、婦人宅に運ばれましたが、2時間後に死亡。
いわゆる張作霖爆殺事件です。
なぜ関東軍は張作霖を「裏切り者」として殺害したのでしょうか。
キーポイントは日本が利権を有する南満州鉄道です。
張は日本側の強い反対を無視して、満鉄に並行する鉄道路線を次々に敷設したことです。
そう、張作霖も日本から満州の権益を奪還しようと考えていたのです。
当時、奉天総領事という地位にあった吉田茂も、張作霖を引退させる必要があると考えていました。張は日本の言うことを聞かなくなったばかりでなく、イギリスとの関係を深めながら、満州地域内の税制や貨幣政策などを独自に行いはじめており、その中には日本の利権に反するものもありました。
陸軍も外務省も、張作霖にはもはや「利用価値」はなくなったと考え、早急に排除すべきとの認識が高まっていました。
これらの事情から1927(昭和2)年頃から日本の新聞は「満州における日本の権益が不当に侵害されている」と書き立てて「反中国感情」を煽り、それを受けて満州の
中国人側も「排日(反日)運動」を展開するという悪循環が出来ていました。
そのため、張作霖が殺されたという城劇的な事件が報じられると、現地ではすぐに、「殺したのは日本軍に違いない」として排日運動はさらに高まり、日中関係は決定的に悪化しました。
関東軍はこの事件を中国国民軍の便衣隊の仕業であると偽装しました。
(便衣隊・・・軍服を着ていない私服のゲリラ部隊)
事件は日本の田中義一首相のもとにも届きました。
しかし、一体誰が何のために爆破したのかわからない。
真っ先に疑われたのは、関東軍の高級参謀の河本大作大佐でしたが、本人は否定。
しかし、間もなく、田中首相は現地からの極秘情報で、事件の犯人は関東軍の河本大作大佐率いる実行部隊であることを知ります。
「なんじゃと!関東軍が張作霖を殺しただと!?誰がそこまでやれといったのだ・・・・・・。」
中国との関係悪化を恐れた日本政府は適切な対応に迫られます。
元老の西園寺は実行部隊である河本らに対し、断固たる処分を求めて、田中首相を進言、田中自身も同1928(昭和3)年12月24日に昭和天皇に上奏しました。
「事件に関与したのは、どうも帝国陸軍の仕業だとされています。事実を確認し、そうであるならば、厳罰に処分いたします。」
田中首相は河本らを軍法会議にかけることを昭和天皇に約束しました。
しかし、こうした田中首相の行動は突出であるとして陸軍の現役組織は軍法会議の開催に強く反対し、次第に首相と陸軍との関係悪化が懸念されるようになりました。
一方、野党民政党もこの事件を「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」として田中内閣に責任を追及しました。
野党議員は言います。
「満州某重大事件は内閣が関東軍を制御できなかったことにあります。田中首相、ここは責任を取って、辞任されてはいかがですか?」
一方、指導者の張作霖が暗殺された満州では、彼の後継者争いに勝った息子の張学良(ちょうがくりょう)が後を継ぎます。張学良は日本に失望し、中国国民党の支配下に入り、同1928(昭和3)年12月29日、国民政府の旗を掲げ満州全土を翻させるという易幟(えきし)を行いました。
こうして満州における日本人と中国人の対立はさらに深まりました。
翌1929(昭和4)年、陸軍からの反発を受けた田中内閣は 張作霖爆殺事件については真相を明らかにせず、行政処分で済ませることにした。田中首相は陸軍出身の政治家でしたが、現役を退いていたため陸軍内を抑えることが出来ず、閣内にも田中の考えに反発する声が強かったのです。
しかし、田中が事件をうやむやにしたことで、昭和天皇は怒りを露わにしました。
「田中殿、これでは話が違うではないか。」
翌1929(昭和4)年7月2日、田中は昭和天皇から激しく叱責されました。
そんな田中首相は、昭和天皇からの不信を買い、辞表の提出を求められました。
直後、田中内閣は総辞職しました。
狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はこたえた。総辞職から3か月後、田中は急死。巷では自殺ではないかとささやかれています。
一方、関東軍の河本大作大佐は、同1929(昭和4)年6月に退役処分とされましたが、陸軍省や外務省には責任の追及がされず、事件は「河本大佐の個人的な過失」として秘密裏に幕引きがされました。
この事件によって、陸軍出身の田中首相ですら陸軍をコントロールできないことを知らしめることとなりました。
西園寺が希望をたくしたのは、野党民政党の浜口雄幸でした。浜口内閣は政友会の田中内閣との差異を強調するために対中協調政策をとるのでした・・・。
以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
大日本帝国の興亡4 満州と昭和陸海軍 Gakken
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
もういちど読む山川日本史 鳴海靖=著 山川出版社
子供達に伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版
さかのぼり日本史③昭和~明治 御厨貴=著 NHK出版
5つの戦争から読み解く日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(後編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(後編)」というお話です。
1935年以降、中国では関東軍によって、華北を国民政府の統治から切り離して支配するようとする華北分離工作が工作と進められました。
(華北・・・チャハル、綏遠(すいえん)、河北(かほく)、山西(さんせい)、山東(さんとう)の5省を日本では華北と呼びました。)
関東軍は華北に傀儡政権として冀東防共(きとうぼうきょう)自治委員会を樹立し、分離工作を強め、翌1936(昭和11)年には日本政府も華北分離を国策として決定しました。
これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を中止し、日本への本格的な抗戦を決意しました・
日本国内では、政党内閣が途絶えた後、斎藤、岡田、広田、そして林銑十郎(はやしせんじゅうろう)と、弱い内閣が続きました。最後の元老・西園寺公望が希望を託したのは、藤原氏から分かれた摂関家の1つ、近衛家の当主・近衛文麿でした。
こうして1937(昭和12)年6月、第一次近衛文麿内閣が成立しました。
その1か月後の7月7日、盧溝橋事件が勃発しました。これは小規模な衝突でしたが、これが解決しないうちに、8月、第二次上海事変が勃発し、大きな戦争に発展しました(日中戦争)。
内閣は国民精神総動員運動などで国民の協力を促します。
一方で、中国での戦争は拡大します。9月には、中国で第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成されて、徹底抗戦が始まります。
年末には日本軍は上海を占領し、さらに首都の南京を占領します。このとき、いわゆる南京大虐殺が起こりました。
戦争は泥沼化し、終結の手がかりを失った近衛は、1938年1月、第一次近衛声明で、「国民政府を相手とせず」と共産主義者と合体した国民政府とは交渉しないと宣言します。
国民政府は、重慶(じゅうけい)に拠点を移し、ここを首都とする、重慶政府として、抗日戦争を続ける姿勢を示します。
近衛は、11月にこの戦争の目的は、「東亜新秩序」を作ることだと第二次近衛声明(東亜新秩序声明)を出し、12月に第3次近衛声明で近衛三原則(善隣友好・共同防共・経済提携)を示しました。
一方、近衛は秘密裏に、重慶政府の中でも反共的な汪兆銘(おうちょうめい)を重慶に脱出させ、翌年早々に総辞職しました。
次の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣のもとで、日独防共協定を結んだドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでしまい、お互いに攻撃しないと約束します。
これで広田内閣以来の親独政策が根拠を失い、平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職してしまいました。
平沼内閣の次に阿部信行内閣が登場してすぐ、緊張状態にあったヨーロッパ情勢が遂に爆発しました。
1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻を開始すると、同年9月3日、イギリス、フランスはただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまりました。
しかし、日中戦争で経済的に苦しい平沼内閣は、ヨーロッパでの戦争には不介入を声明します。次の米内光政内閣もアメリカとの戦争を避けるため、大戦への関与を回避します。
ところが、ドイツ軍がフランスを攻略し、パリが陥落します。この情報が伝わると、日本もドイツと同じファシズム体制をとるべきだと、軍部や右翼を中心に新体制運動が過熱しました。
陸軍は、軍部大臣現役武官制度を使って、米内内閣を総辞職に追い込み、新体制運動に参加した近衛文麿を担ぎます。1940年7月、第二次近衛文麿内閣が発足すると、陸軍は仏領インドシナ半島北部に軍を進め、9月には日独伊三国同盟を締結します。
一方で近衛は満州帝国をめぐる日米対立を解消すべく、アメリカの国務長官ハルと日米交渉を開始しました。しかし、陸軍は1941年7月、仏領インドシナ半島南部に軍を進め、対してアメリカは、日本への石油輸出を全面禁止を通告しました。
資源のない日本は、石油の備蓄が尽きる前に、戦争で決着をつけざるを得ないと考える立場に置かれます。
同1941年9月6日、天皇出席のもとにおける御前会議で、日米交渉を継続するが、対米戦争を決意することが決定されます。
結局、日米交渉は進展せず、近衛は内閣を投げ出し、対米開戦を主張する陸軍大臣、東条英機に政権を渡します。
東条は反米的な内閣とみなしたアメリカは「日本は中国・仏印から撤退せよ」と、事実上の最後通牒(ハル=ノート)を示します。
御前会議は、この間の経緯から、日本の非を認めるような条件を受け入れるわけにはいかず、開戦を決定します。
1940年の人々の生活は、「ぜいたくは敵だ。」とか「欲しがりません、勝までは。」をスローガンに様々な規制が発布されました。
ぜいたく品の製造・販売を禁止する七・七禁令。
砂糖、マッチなどの消費を制限する切符制。
翌1941年には、米などの穀物が配給制になり、衣類にも切符制が敷かれるなど生活必需品への統制も極端に強まりました。
人々の生活はどんどん貧しくなっていきます。
子供達は、空襲を受ける都市を離れ、田舎に移住する学童疎開も始まります。
青年男子は次々に戦場に出払い、労働力が不足したため、中学生以上の学生や未婚女性を中心に、工場などで無償労働を強制されました(勤労動員、女子挺身隊)。
従来は徴兵を猶予される大学生も、戦争の泥沼化とともに、文系は猶予を停止され、徴兵されるようになります(学徒出陣)。
1941(昭和16)年12月8日、海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍もマレー半島への上陸を決行、対米宣戦布告に至りました。
こうして日本は第二次世界大戦に加わり、太平洋戦争が勃発しました。政府はこの戦争を大東亜戦争と名付け、大東亜戦争の建設が目標がとしました。
当初は日本軍のほぼ連勝でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北で戦局が逆転し、日本は次々に敗北を喫します。
1944年7月、サイパン島が陥落します。サイパン島が陥落したことで、米軍は日本本土への空襲が可能になりました。これに対し、東条英機内閣は責任を取って、総辞職します。
次の内閣は陸軍系統の小磯国昭(こいそくにあき)内閣ですが、戦争終結の道筋を見つけることは出来ませんでした。
1944年10月のレイテ沖海戦が敗北に終わると、陸軍はもはや本土で戦うしかないと、本土決戦を決意します。
アメリカは、大型の長距離爆撃機B29を次々に戦場や本土に送り込み、爆撃を開始。
翌1945年3月9日から10日にかけて東京大空襲が起こり、一晩で10万人の犠牲者を出す甚大な被害を東京にもたらしました。
さらに、同1945年4月、沖縄本島に米軍が上陸し、沖縄戦が始まりした。この戦いは、一般県民、鉄血勤皇隊、ゆめゆり隊などの多くの被害を出した悲惨な戦争でした。
こうした日本領土が戦場になったことで、小磯内閣は政権運営の自信をなくし、総辞職します。
後を継いだのは鈴木貫太郎でした。
5月、ドイツが降伏し、6月には沖縄戦も終わります。連合国側は7月にポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏を要求しました。
日本側は、万世一系の天皇が支配する体制を守ること(国体護持)にこだわり、これを受け入れませんでした。
しかし、これが新たな悲劇を招く結果となりました。
8月9日、広島に原子爆弾を投下され、8日にはソ連が抗対日参戦します。そして9日には、2つ目の原子爆弾が長崎に投下されました。
「もはや、降伏するしかない・・・・。」
遂に天皇が判断を下され、ポツダム宣言の受諾が14日に決定されます。15日には天皇の肉声の録音が玉音放送としてラジオから流されました。驚くべきことに人々はこのとき、はじめて戦争が敗戦に終わったことを知ったのです。
「日本は神の国だから、神風が吹けば必ず勝利する。」
玉音放送が流れるそのときまで、政府や軍部は人々を欺き続けてきたのです。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社
【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(中編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(中編)」というお話です。
大正時代に勃発した第一次世界大戦は人類史上類を見ない大量の戦死者を出す悲惨なものでした。
したがって戦後、二度とこんな悲惨な戦争が起きないように列強諸国が中心となり、世界の平和秩序に関する取り決めを行い、ヴェルサイユ・ワシントン体制が作られました。
しかし、この体制は昭和に入って、維持することが難しくなる出来事がおきました。
世界恐慌が起きたのです。
これにより、世界の平和秩序はもろくも崩壊していきました。
世界恐慌は日本にも波及し、昭和恐慌として日本を苦しめました。これによって、日本は満州事変を起こし、満州国を建国し、経済回復と国力強化を図りました。
しかし、国際連盟は1933(昭和8)年2月の臨時総会で、リットン報告書にもとづき、満州国の建国を認めず、松岡洋右率いる日本全権団は、総会の場から退場し、同年3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を発表しました。
日本が満州事変を起こし、ワシントン体制を揺さぶっている頃、ヨーロッパでは、ファシズム(全体主義)という暴力的な方法で民主主義や人権を無視する全体主義が台頭します。
世界恐慌に苦しんでいたドイツは、同1933(昭和8)年に全体主義体制(ナチズム)を樹立するとともに、ヒトラー率いるナチス党はヴェルサイユ体制の打破を唱えて、国際連盟を脱退しました。
同じく世界恐慌に苦しむイタリアでもムッソリーニ率いるファシスタ党による一党独裁政治が始まり、エチオピア侵攻をきっかけに国際連盟と対立するようになりました。
これら国際的に孤立を深めた日本、ドイツ、イタリアは後に手を組み、枢軸国を形成するのでした・・・。
この頃、日本国内では1932(昭和7)年の血盟団事件、五・一五事件などの国家改造運動を唱えたテロやクーデター未遂事件などが続く中、政党政治の影響力はどんどん小さくなり、遂にはその思想的な弾圧も始まりました。
斎藤内閣に続く岡田啓介内閣のもと、美濃部達吉の天皇機関説が国体に反すると批判されるようになりました。
天皇機関説はそれまでの大日本帝国憲法を支えてきたいわば正統学説でした。
しかし、1935(昭和10)年、貴族院で軍人出身の菊池武夫が批判したのをきっかけに、現状打破を望む陸軍、立憲政友会の一部、右翼、在郷軍人会などが全国的に激しい排撃運動を展開しました。
岡田体制内閣はこの批判に負け、天皇機関説は誤りで、天皇主権説という声明を発表します(国体明徴声明)。同時に美濃部の著書は発禁となり、美濃部は貴族院議員を辞職しました。
こうして政党政治や政党内閣制は、民本主義と並ぶ理論的支柱を失いました。
政治的発言力を増した軍部(特に陸軍)は、現状打破を掲げ、これに一部の官僚(革新官僚)や政党人が同調するようになりました。
陸軍にとって、斎藤実・岡田啓介と、2代の海軍穏健派内閣が続いたことは、彼らの不満を募らせることになりました。1934(昭和9)年に陸軍省が発行したパンフレット「国防と本義と其の強化の提唱」は、陸軍が政治・経済の運営に関与する意欲を示したものとして、当時の右翼や国家主義者から注目を集めました。
この頃、陸軍の内部では、20代の青年将校を中心に、直接行動による既成支配層(官僚や財閥)を打倒しようとする勢力(皇道派)と、30代~40代の中堅幕僚将校を中心に、既成支配層をむしろ利用し、強力な総力戦体制樹立を目指す勢力(統制派)が生まれました。
「天皇主権説が唱えられた今こそ、決起すべきだ。」
岡田内閣による国体明徴声明は国家改造運動に格好の口実を与えてしましました。
そして遂に事件が起きました。
1936(昭和11)年2月26日早朝、軍事政権樹立を目指した陸軍の急進派(皇道派)の青年将校たちが、約1400名の兵を率いて首相官邸や警視庁を襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害しました(二・二六事件)。
これに対して昭和天皇は断固として彼らを反乱軍として鎮圧せよと指示する厳戒令が発告されました。
このクーデターは国家改造・軍部政権樹立を目指したものでしたが、天皇が厳罰を示したことにより、反乱軍は、陸軍(統制派)と海軍により鎮圧されました。反乱軍の首謀者は死刑となり、彼らの理論的指導者であった北一輝も死刑に処せられます。
この結果、皇道派は陸軍から完全に排除され、皇道派と対立していた陸軍の主流派(統制派)が陸軍を牛耳るようになり、陸軍は一致団結して、さらに強硬な要求を政府に突きつけるようになります。
岡田内閣は二・二六事件後に総辞職し、広田弘毅が首相として内閣を作ります。
この広田内閣は、軍部の要求を受け入れるカタチでかろうじて成立した内閣で、ほとんど軍部の傀儡的な内閣でした。
この広田内閣のとき、日本は内政および、外交において軍国主義へと歩むようになります。
内政においては、軍部大臣現役武官制度が復活しました。これは陸海軍大臣は、もはや現役の軍人に務めてもらわないと国内のクーデターを抑えることが出来ないと判断したからで、1913(大正2)年以来の軍事国家としての日本が復活しました。
また、外交においても、国際的に孤立していた日本とドイツが互いに手を組み、1936年、日独防共協定が結ばれました。
イタリアは、翌年、これに参加し(日独伊三国防共協定)、続いて国際連盟を脱退しました。
この背景には、あの大国への警戒がありました。
その大国とは、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)です。
大正時代に起こったロシア革命を達成したロシアは、それまでの帝政を廃し、社会主義国として5ヵ年計画を実施。重工業化と農業集団化を促進し、急速にその国力を高めました。
こうしたソ連の社会主義に対抗するために広田内閣は、ドイツやイタリアと手を組んだのです。
そして、1936年、日本はワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約を失効するため、それに伴い、帝国国防方針の改定を行い、広田内閣は「国策の基準」を示しました。
「国策の基準」とは、陸軍は北進論(対ソ戦)、海軍は南進論(南洋諸島および東南アジアへの進出)をとるという2つの意見が出たため、それらを折衷した新たな日本の軍事的方向性を示したものです。
つまり、陸軍は「大陸」で戦争を、海軍は「海」で戦争を始めようというのです。戦争への方向性が決まったことで、海軍は戦艦大和(やまと)・武蔵(むさし)を含む大建艦計画を進めました。
しかし、広田内閣の国内改革は不徹底なもので、これに不満を覚えた運部と、大軍拡に反対する政党の双方から反発を買い、1937年1月、広田内閣は総辞職しました。
元老の西園寺は次の組閣を陸軍の穏健派の宇垣一成(うがきかずしげ)に大命を下しました。しかし、これに反発する陸軍が陸相を推挙しなかったため、宇垣は組閣を断念しました。
結局、陸軍大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)に組閣を命じるも、これも短命に終わりました。
元老の西園寺は、何とか戦争を回避しようと希望を託したのは、藤原氏から分かれた摂関家の一つで天皇家を近くで衛(まも)ると書く近衛家の当主である近衛文麿でした。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社
【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(前編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく」というお話です。
浜口雄幸内閣の幣原喜重郎外務大臣のもと、1930(昭和5)年にロンドン海軍軍縮条約が締結されました。
政府は当初、海軍軍令部との間で、対アメリカの補助艦保有率の最低ラインを7割と決めていましたが、実際の条約はこれを下回り、5割のところで締結されました。
その結果、統帥権干犯問題が起こってしまいました。
野党の立憲政友会(以下、政友会)や海軍軍令部、右翼などは海軍軍令部長の反対を押し切って政府が兵力量を決定したことは、天皇大権のひとつである統帥権を犯したのだと非難されたのです。
その結果、幣原喜重郎の協調外交は弱腰外交だと非難され、このままでは満州における日本の権益が損なわれるという「満蒙の危機」が叫ばれるようになりました。
政府は枢密院の同意を取り付けて、条約の批准に成功したが、1930年11月、浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃され、重傷を負ってしまいます。
浜口内閣は完全に力を失い、翌1931年4月、浜口内閣は総辞職、浜口自身も間もなく死亡しました。
浜口内閣の後を引き継いだのは、同じ民政党の若槻礼次郎でした。若槻は2度目の総理就任だったため、第二次若槻内閣として発足しました。
この頃、中国国内では国権回復を求めて民族運動が高まっており、その運動が満州にも及ぶことに危機感を深めた関東軍は、満州を長城(ちょうじょう)以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画しました。
関東軍は参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)を中心として、同1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして日本は軍事行動を開始、中国から満州を奪い取り、植民地利権を確保しようとしたのです。いわゆる満州事変が勃発したのでした。
一方、国内でも、軍部中心の強力な内閣を作ろうという、国家改造運動を唱える軍部や右翼が台頭してきました。
当時は、昭和恐慌といわれる深刻な経済不況が起きており、こうした日本の行き詰まりの原因は財閥・政党などの支配層の無能と不敗にあると考え、これらを打倒して軍中心の強力な内閣をつくり、内外政策の大転換を図ろうというのです。
その結果、同1931(6昭和)年には陸軍青年将校のクーデター未遂事件として、3月には3月事件が、10月には10月事件が起こり、ました。翌1932(昭和7)年2月には、血盟団というテロ集団が井上準之助を、3月には三井合名会社の中心で理事長の団琢磨を暗殺します(血盟団事件)。
こうした国家改造運動の思想的な基盤の1つが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。彼は財閥や政党など特権階級の廃絶を目指し、クーデターで天皇を奉じて国家改造を行おうと主張したのです。
こうした内政、外交ともに暴走する軍部を若槻内閣は阻止しようとします。若槻内閣は不拡大を宣言しますが、内閣には統帥権がなかったためその抑止は出来ませんでした。そんな若槻内閣が長続きするわけもなく、自信を失った若槻内閣は総辞職しました。
元老の西園寺公望は、もはや民政党のような弱腰内閣ではやっていけないと判断して、次の内閣は野党の政友会に任せようとして、同1931(昭和6)年12月に政友会総裁だった犬養毅を総理にしました。
犬養内閣は中国と直接交渉し、事態の収拾を図ったが、関東軍の暴走は止まりません。関東軍は満州の主要地域を占拠し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政として、同1932年3月、満州国の建国を宣言させました。
アメリカはこうした日本の一連の動きに対して不承認宣言を発し、中国からの訴えと日本の提案で、国際連盟理事会は事実調査のためにイギリスを団長とするリットン調査団を現地と日中両国に派遣することにしました。
関東軍はリットン調査団の結果報告を国際連盟に届けられる前に、満州国の建国宣言をしたのです。
犬養内閣も、関東軍の動きを認めませんでした。
これに対し、右翼や軍部は反発し、1932年5月15日、海軍青年将校の一団が首相官邸に押し入り、犬養毅首相を射殺するという事件が起きてしまいました。(五・一五事件)。
この状況では政党内閣は存続できないとして、西園寺は海軍の穏健派の斎藤実を後継首相に推薦しました。
ここに大正以来8年間に及んだ政党内閣は崩壊し、「陸軍も海軍も財界も政党も、みんなで協力しよう」という挙国一致内閣が誕生しました。斎藤実内閣はその第一号だったのです。
しかし、斎藤内閣は陸軍などの強硬意見を抑えられず、結局は満州国を国として認める日満議定書を結びました。政府は既成事実を積み上げて、自分達の正当性を主張し、何とか国際連盟に対抗しようとしました。
しかし、連盟側は1933(昭和8)年2月の臨時総会で、リットン報告書にもとづき、満州国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満州国の承認を撤回すること求める対日勧告案を採択しました。すると、松岡洋右率いる日本全権団は、総会の場から退場し、同年3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を発表しました。
同1933(昭和8)年5月、塘沽(たんくー)停戦協定が結ばれ、満州事変事態は収束しました。しかし、日本は満州の経営・開発をやめることはありませんでした。
こうした陸軍の動きを止められない斎藤実内閣は1935年に総辞職します。
このころ、ヨーロッパではファシズム(全体主義)という、暴力的な方法で民主主義や人権を無視する全体主義が台頭します。イタリアのムッソリーニ日着るファシスタ党や、ドイツのヒトラーによるナチスなどです。このした全体主義の思想はやがて日本にも波及していくのでした・・・・。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社