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【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか」というお話です。


信長は他のどんな戦国大名よりも‘情熱‘に満ちた戦国大名でした。その情熱はどのようなものだったのか。その情熱は信長の原動力となり、着実に粘り強く、勢力を広げ尾張の小大名から全国を飲み込むほどの大大名に膨張していくのでした・・・。


 室町時代後期、下剋上の風潮が激しくなり、各地に戦国大名が登場し、国の奪い合いが始まりました。世はまさに「戦国時代」です。

 

 東北の国人から成り上がった伊達氏。

 越後(新潟)の守護代から戦国大名に成り上がった上杉氏。

 堀越公方を追放し、関東一円を支配するようになった北条氏。

 摂津(大阪)の守護代から戦国大名に成り上がった三好氏。

 安芸(広島)の国人から中国地方で勢力を強めた毛利氏。

 甲斐(山梨)・信濃(長野)の守護大名から戦国大名に転身した武田氏。

 

 そして、尾張(愛知)の守護代から戦国大名に成り上がった織田信長がいました。

 

 この頃、戦国大名達の目標は領土拡大という私欲のための争いでした。しかし、この中で、天下に最も近かったのは尾張の信長でした。信長の野望は他の大名とは異なり、天下を統一することでした。

 なぜ、尾張の一大名にすぎず、身分も低い、成り上がりの織田信長が天下統一を目指せたのでしょうか。

「信長にはケタ外れの行動力があったからだ。」

「迅速な決断力と、明確な指示が部下に出来たからだ。」

「生まれながらに天才的な才能を持っていたからだ。」

 いろいろあると思います。そしてこれらの仮説はすべて正しいでしょう。

 しかし、これら全ての原動力となっているものが信長にはありました。

 それは情熱です。

 信長には他のどんな戦国大名よりも強い情熱があったのです。

 ここでいう情熱とは、やる気に満ちた人のことを言います。もっというと、結果に対してやる気を出す人ではなく、行動に対してやる気を出す人のことを言います。

 例えば、将来の夢を決めるときに、上手くいきそうかどうか、もしくは儲かりそうかどうかで決める人がいます。これは結果に対してやる気を出す人の考え方です。

 本心では、「将来は小説家になりたい!!」と思ったとします。

 結果に対してやる気を出す人だと、すぐに頭の理屈で考えてしまいます。

「いや~。いまどき小説家なんて、食えない職業の典型だよな。」

 と言って、せっかく沸き上がった情熱を自ら冷ましてしまいます。

 一方、行動に対してやる気を出す人は、こう考えます。

「小説を書いているときが最も熱中できる。上手くいくまで続けよう。」と。

 将来の夢を叶えるには、結果が出るまで情熱あふれる行動を続けていかなくてはなりません。

 つまり、結果に対してやる気を出す人だと、何も夢を叶えることが出来ません。

 なので、信長以外の他の大名はこう考えたのです。

「いや~。全国(天下)を平定するなんて、絶対無理だよな。」と。

 しかし、信長は、行動に対してやる気を出す人だったので、こう考えました。

「天下平定を目指して頑張っているときが最も熱中できる。天下統一を達成するまで続けよう。」

 そんな信長の情熱は行動のガソリンとなって、その情熱から信長の伝説として語られている天才的な戦略や独創的なアイディアを生み出したのです。信長の夢や理想に対する「情熱」は他のどんな戦国大名よりも強いものでした。

 そんな信長の‘情熱‘はどのようにして形成されたのでしょうか。


「3つ子の魂100」までという言葉がありますが、信長が3歳までに受けた英才教育は、信長が生涯にわたって尽きることのない情熱を生み出し、その情熱が信長の天才的な戦略や画期的なアイディア、そして領民からの圧倒的な支持を得ることが出来たのです。

 1534年、戦国時代のさなか、織田信長尾張守護代織田信秀の三男として名古耶(なごや)城で生まれました。

 信長は生後、0歳から3歳までのあいだに英才教育を施されました。

 教育といっても、特別な知識やスキルのようなものではなく、信長が欲しいと思うものがすべて与えられただけです。

 泣きたい時に泣き、おっぱいを飲みたい時に飲ませてもらい、寝たいときに寝かせてもらい、抱っこしてほしい時に抱っこさせてもらい、走り回りたい時に走り回らせてもらったりと、信長が望むものはすべて満たされました。

 「3つ子の魂100まで」という諺を聞いたことがあると思います。これは0歳から3歳頃までの間に受けた教育によって形成された性格や適性は100歳になっても根底は変わらないという意味です。

 欲望のままに生きてきた3歳の信長の心にはあることが刻まれました。それは・・・

「欲しいものは望めば何でも手に入る。余は特別な存在じゃ。」

 信長は生涯にわたって、ケタ外れの行動力や決断力を発揮していきます。それは信長が3歳までに形成した「自分の欲望は満たされることが当たり前なのだ。」とする考えがその原動力になっています。そういう意味では彼が3歳までに受けた教育は‘最高の英才教育‘といえるでしょう。

 そして父・信秀からもこういわれ続けていました。

「お前は賢くて良い子じゃ。お前は領民達の希望となれ。すべてを照らす日の光のように人々に活力を与えるのじゃ。」

 そんな信長はどんどん成長していき、吉法師とよばれた少年時代、「尾張のうつけ者(バカ者)」と言われるようになりました。

 ボウボウと伸ばしたものを藁で結び、腰帯には瓢箪(ひょうたん)だの燧(ひうち)石の袋だの、いくつもぶら下げている。

 そして馬上で、餅だの柿だの、人目も構わず喰い散らかし、それを恥とも思わない異様なふるまいを見せました。

 欲望のままに生きる少年・信長は、はみだし者として織田家から軽んじられてきました。

 

 そんな少年・信長がいつも口癖のように言っていたことがあります。

「我こそは神仏なり。いずれこの世の主となり、莫大な富と名声を手に入れようぞ。」

 これを聞いた織田家の老臣達は嘲笑しました。

「またいつものがはじまったよ・・・・・・。」

「あんな傲慢な子が我が織田家を継ぐのか・・・・。」

「大丈夫。あの子はまだ若い。世間知らずなのですよ。いずれ現実というものがわかってきますよ。」

 戦国時代とは守護大名の統治から、戦国大名の統治へと移り代わった時代です。室町幕府の体制下では、尾張守護大名三管領家の一つの斯波家であり、その守護代織田家でした。

 その織田家には2つの流れがあり、上四群(かみよんぐん)は織田伊勢守家(おだいせのもりけ)が、下四群(しもよんぐん)には織田大和守家(おだやまともりけ)とそれぞれ尾張の南北半国ずつを支配していました。

 大和守家のその下には、同じ織田姓の家老が三家あり、信長の家系である織田弾正家(おだだんじゅうけ)はその三家のひとつでした。

 どれもこれも織田姓なので、ややこしいですが、要するに信長の家系はごく限られた地域を支配する豪族程度の家柄であり、決して高い身分ではありませんでした。

 身分や家柄が重視される当時において、尾張の小大名に過ぎない信長が全国のトップに君臨するなど、全く荒唐無稽な夢であり、老臣達を呆れさせました。

 しかし、信長はこの当時から、つまり、天下人になるずっと前からすでに天下人になったつもりで振る舞っていたのです。

 大きなことを成し遂げる人物によく見られる傾向として、「未来完了形」の発想や生き方があげられます。未来完了形とは、未来のことをまるでもう達成しているかのように考え、そして振る舞うことです。成功者のように考え、成功者のように行動する者が、本当に成功する。成功者は若い頃から「成功している未来」をリアルに想像しているのです。

 

 信長の家系が本拠としていた津島は、伊勢湾に通じる良港を支配していおり、商品流通が盛んになるにつれ、経済力を増していきました。それを基盤に信長の父・信秀は勢力を広げ、主君の織田大和守家だけでなく、守護大名の斯波家も圧倒する尾張の一大勢力となりました。

 そして1547年、14歳になった信長は、初めて戦いに出るようになります。しかし、この年は父・信秀にとって大変は年であり、美濃の斎藤に攻め入るも斎藤道三に惨敗、岡崎を攻めても松平宏忠(徳川家康の父)に敗れています。

 信秀は窮地に立たされました。

 そして、このタイミングで‘あの大名‘も攻め入ってくるようになりました。

 駿河今川義元です。信秀が強大なライバルになる前に、一泡吹かせておきたかったのです。

 1549年3月、信秀はこの窮地を打破するべく、斎藤道三の娘・濃姫を信長に嫁がせ、いわゆる政略結婚によって斎藤氏と同盟を結びました。

 しかし、その2年後の1551年、信秀は流行病により急死してしまいました。45歳でした。

 信秀の死後、19歳になった信長は家督を継ぎますが、1554年、斎藤道三が息子の龍興と争って敗死。織田家はその後ろ盾を失ってしまいました。

 こうして東は駿河の今川、西は美濃の斎藤の2大勢力に挟まれるという非常に苦しい状況に立たされました。

「あんな‘うつけ者‘に従えるわけにはいかない」

 そんな中、織田家の家臣達は若き主君・信長に見切りをつけ、次々に離反していきました。

 信長の呼びかけに応じる尾張地侍は少なくなっていきました。

 この状況を打破するため、信長は各地の流れ者を雇い入れ、自分の手足のように使える精鋭部隊を編成していきました。

 その中には、後に織田家重臣となる滝川一益前田利家、そして木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がいました。このとき、信長は有能な武将達の獲得に成功したのでした。

 以降、信長は国内の敵対勢力の一掃に乗り出しました。

 1557年には、反逆を企てた、弟の信行を清州城内で謀殺、1559年には信行と通じていた上四群(かみよんぐん)の支配者である織田信賢を降伏させ、2分されていた尾張守護代織田を統一。

 ここに、尾張の大半を支配する戦国大名織田信長が誕生しました。

 この時、信長は26歳でした。

 信長の統一事業は続きます。

 

【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

織田信長には並はずれた才能がありました。その才能の正体は並はずれた願望にありました。しかし、そんな信長は目的達成ばかり優先し、他人から愛されるという努力を怠ってきた。社会的成功とは、並はずれた才能や努力だけでは達成出来ず、同時に「強運」である必要もあるのです。というのも、「運」とは他人が運んでくるものだからです。

信長の類まれな才能とは何でしょうか。

「リスクを恐れない勇気」

「即、行動する力」

「迅速な決断力」

 

 様々な意見が出ると思います。

 例えば行動力ですが、信長が天下に王手をかけることが出来たのはその並はずれた行動力にあったことは確かです。物事を決断するのも早く、決断したら即、行動に移すようなエネルギーのある人物でした。

 しかし、そんな信長の持つエネルギーの原動力は何でしょうか。

 そう、「願望」や「欲」です。

 信長には絶対に成功してやるという並はずれた願望があったのです。

 しかし、並はずれた願望や欲を持つ信長は最終的に天下統一という社会的成功を成しえませんでした。

 

 なぜ、信長は天下統一を達成できなかったのでしょうか。

 その理由は実は非常に簡単です。

 信長は多くの人達から嫌われていたからです。

 言い換えると、信長には「運」がなかったのです。「運」を引き寄せるには人から好かれる必要があります。

「運」とか「引き寄せる」という言葉を使うと「宗教っぽい」とか「オカルトっぽい」とか言う人がいると思うので、もう少し分かりやすい言葉を使いたいと思います。

 例えば、「運」という言葉を、「信用」とか「仁徳」という言葉に置き換えてみると良いと思います。
 人から好かれる人は信用のある人です。逆に言うと、信用がなければ人から好かれません。

 人から好かれる人は仁徳のある人です。逆に言うと、仁徳がなければ人から好かれません。

 つまり、信長には信用も仁徳もなかったのです。

 

信長は勢力拡大とともに相当なストレスを受けていました。天下統一に焦る気持ちと、責任とともに増えるストレスに信長は限界を感じていました。やがて、そのストレスは家臣達にぶちまけられていくのでした・・・。

 1582年5月、信長は焦っていた。

 人生50年といわれた当時において、信長は49歳。

 信長は能力と時間の面で限界を感じていました。

 今後の天下統一事業をどのように進めるか、そして天下平定後の統治方法をどうするか。天下布武を標榜して15年あまり、戦いに明け暮れてきた信長は、今度は政治や経済のプロとして方策と成案を示さなくてはならない。

 

 統一事業に関しては、3月に甲斐・信濃の武田氏を滅ぼし、中国の毛利氏とは交戦中だが、サルの活躍によって情勢は有利。毛利を降ろせば、九州の大半もなびいてきます。あと数年で敵対する勢力はなくなると思われる。天下統一の目途はついた。

 朝廷は自分を征夷大将軍に叙任しようとしている。

 時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇は、信長を次の天下人として認めたのです。

 任官を受ければ天下の支配はしやすい。自分は武家社会の棟梁となり、各分国に領主を任命して領内の統治を任せればいいからだ。しかし、それでは室町幕府の制度を踏襲するだけだ。何事にも旧習に従わなかったのに、天下統一の最後になってそうするのもいさぎよくない。

 しかし、九州平定を終えて「天下布武」がなるまでは、朝廷の権威を利用したほうが良いのは確かです。征夷大将軍になれば、敵対するものはすべて、賊軍となるから戦がしやすい。

 一方、天下統治の方法となると未だに方針が定まらない。
 自分を頂点として一元的に全国を支配する体制をつくりたいが、具体的にどうするかの策が思いつかなかった。


 キリスト教宣教師からも知識を得ている。

 どうやらポルトガルという国は、海外との交易で大きな利益を上げているようだ。

 また、イングランドという国ではエリザベスという女王が独裁的な政治運営し、急速な近代化を果たしているようだ。

 政治体制はイングランドのような絶対王政とでもいうのだろう、国王が政治の全権を握り、官吏を使って政治を行う。交易の利益を独占するから、国王に利益が集中する。

 ポルトガルは交易のためにインドや中国に拠点をつくっているが、宣教師がその先兵の役割を果たしているのもわかっている。

 いずれにしても、引き続き宣教師から詳しく聞かなければいらない。

 日本もポルトガルのように海外に進出し、朝鮮や明だけでなく、インドや東南アジア、さらにはイスラム教圏にまで交易の手を伸ばす国際貿易国家としてスタートしていく必要がある。

 

 それには、従来の日本のような保守的な国家体制ではとても通用しない。

 

 自らが先陣をきって日本の国家体制を根本から変えなくてはならない。

 しかし、征夷大将軍という伝統的地位に組み込まれてしまうと、それがやりにくくなることは明白だ。

 そのためには、天皇や朝廷、公家勢力をいつかは潰さなければならない。

 そうすれば、さらなる反発も起こるだろう。

 そして、また長い戦いが続く・・・・・。

 焦れば焦るほど、天下統一が遠のいていくような気がする・・・・。

 

 一体、誰が自分の天下統一の道を阻んでいるのか。

「夢を描き、それに向かって行動しているのに、叶わない。」

 こんなつらいことはありません。

 信長のストレスは最高頂にまで達しました。

 

 

「殿、明智殿がお見えです。」

「構わん。通せ。」

ガラッ

「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」

「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」

 信長を訪れたのは、重臣である明智光秀でした。

 天下統一に焦る信長は四国を配下にするべく、大量の兵隊を派遣する計画をしていました。中国と四国を同時に制圧する勢いを見せれば、九州もなびいてくると考えたのです。

 信長には一刻の猶予も残されていません。

当時、四国を治めていたのは長曾我部元親という人物です。
 実はこの長曾我部と信長は大変仲が良く、その頃の長曾我部氏はまだ四国の中の土佐の領主であり、そんな元親に信長は自分の家臣である斎藤利三の妹を嫁がせました。
 しかし、信長も元親もそれぞれ力をつけていき、信長が天下統一に王手をかける頃になると、元親は四国全土を配下に置くほどの勢力を増していました。
 天下統一を目指す信長は、ここにきて四国を統治下に置くため、元親に四国の半分をよこせと迫ったのです。
 しかし、もともと対等な関係にあった信長と元親です。
「なぜ苦労して手に入れた領土を信長に渡さなければいけないのか。」
 元親は信長と対立するようになりました。
 この時、斎藤利三はどこにいたかというと、明智光秀の筆頭家老になっていました。その縁もあって長曾我部との交渉は光秀が担当していたのです。

そんな長曾我部を一方的に攻め入ろうというのですから明智としては納得がいきません。

 

 当初は相思相愛の関係だった信長と明智ですが、信長は次第に明智を良く思わなくなっていきました。

 しかし、人間関係は双方向です。あなたが相手を嫌っていれば、相手もあなたを嫌いになります。明智も信長を良く思っていませんでした。

 

 そんなとき、備中高松城岡山市)を囲む羽柴秀吉から、毛利の本隊が遂に姿を現したとの報せがあった。
 信長の武将としての血が騒ぎました。
 戦はすべてを忘れさせてくれる。毛利勢を破り、当主・毛利輝元や先代の元就の2人の息子、小早川景隆や吉川元春の首が目の前に並べられるさまが目に浮かびました。

 5月、武田攻め祝勝会が安土で開かれ、徳川家康も招かれました。信長は明智に接待役を命じたが、料理が腐っていると信長が光秀を叱りつた上に足蹴りにしました。日頃の鬱憤をぶちまけてしまいました。

 これにはさすがの明智も怒り、料理を掘に投げ捨てたほどでした。

 

 人間は自分に対する態度を他人に対してもする傾向があります。

 例えば、自分に厳しい人は、他人対しても厳しく、自分に甘い人は、他人に対しても甘いのです。

 これと同様に、ストレスを受けている人は、他人に対してもそのストレスをぶちまける傾向があります。

 明智に接待役など頼んだ自分が間違いだった。やはり明智には戦を頼んだほうが良い。

 天下統一に焦る信長は、畿内方面軍である明智軍を中国方面に増援軍として向かうよう命じました。秀吉・光秀の2枚看板で中国を制圧し、そのまま九州まで攻め入ってしまおうという作戦です。

 明智は数秒経ってから返答しました。

「ハハッ。承知致しました。」

 明智は何の抗力もなく、四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わされました。

 明智の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。

 

 翌日以降、明智は中国出陣のための準備を始めました。

 そんな中、老臣である斎藤利三は信長征討を訴えました。間もなく信長の四国征伐が始まってしまう。利三はもう元親に合わせる顔がありません。

 しかし、明智には思いとどまるものがありました。

 落ちぶれていた自分がここまで立身出来たのは、紛れもない信長様のおかげです。信長には感謝してもしきれない。本来なら自分が積極的に四国討伐するべきところなのです。

 

 しかし、そんな明智のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。

 5月26日、明智の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状にはこう記されていました。

明智の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」

 これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。

 明智はこれを左遷として恨み、信長征伐を決断しました。

 

 一方、信長としてはそんなつもりはありません。

 当時の岩見は全国的に銀の産地でした。経済を重視する信長にとって、明智が岩見を支配するということは彼を織田家の経済管理者として任命したということです。

 なんだかんだ信長は明智の実力を認めていたのです。

 しかし、問題なのは、出雲と石見が未だ敵領地であることです。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、明智とその家来達は路頭に迷うことになるのです。

 信長は本当に人の気持ちを考えるのが苦手なようです。

 浅井長政のときもそうですが、合理的思考ばかり重視する信長にとって人の気持ちという非合理的なことにまで考えが及ばなかったのです。

 結局、そんな信長の悪い癖は、最後まで改まることはありませんでした。

 

 事件は突然やってきました。

 それは1582年6月2日の夜が明ける前の早朝のことでした。

 1万を超える明智軍がぞくぞくと京の都に入り、信長の宿泊する本能寺を包囲しました。

 信長は物音で目を覚まします。

「如何なる者の企てぞ。」

明智が者と見え申し候う。」

 信長は一瞬のうちに頭の中で様々な思考を巡らせました。

 それまでの明智とのやりとりを思い返すと、自分は明智を嫌い、冷や飯を食わせるようなことをしてしまった。

「ワシは自ら死を招いたな・・・・。是非に及ばず。」

 そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳。

 

 その頃、中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉は、主君信長が殺されたことを聞くや直 ちに毛利氏と和睦を結び、凄まじいスピードで軍を京都方面に返し、山崎の地で、明智の軍を倒しました。

明智軍を倒した秀吉はこう言いました。

明智殿、なぜこのようなことを。まぁ明智殿の気持ちもわからんでもない。信長公は、勇将ではあっても良将とは程遠いものだった。目的達成ばかり優先し、人から好かれるということを生涯に渡り怠ってきたのだ。」

 

 秀吉は、主君信長の「失敗の本質」をしっかり見抜いていました。社会的成功には、信長のような「剛の精神」だけでは達成できず、「柔の精神」も必要だったのです。
だからこそ、秀吉は天皇や有力大名に懐柔しながら天下統一事業を進めました。秀吉は他人の力を借りて天下統一を達成したのです。

 社会的成功とは、信長のような類まれな才能や努力、気合などではコップの半分までしか満たすことが出来ませんでした。残り半分は他人が注いでくれるものなのです。

つまり、「自力のあとに、他力あり」。

または、「人事を尽くして天命を待つ」。

 他人から慕われる信用や人徳のある人こそ、運を引き寄せ、社会的成功を成し遂げることが出来るのです。

 勘違いしないで欲しいのは、自分の努力が不要なわけではありません。圧倒的な努力が出来る人だからこそ、他人の力を利用することが出来るのです。

 自分が積み上げてきた努力や才能は、他人の力によってレバレッジがかかるのです。

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献  
信長は本当に天才だったのか     工藤健策=著  草思社
誤解だらけの英雄像         内藤博文=著  夢文庫
「秀吉」をたっぷり楽しむ法     高野冬彦=著  五月書房
戦国時代の組織戦略         堺屋太一=著  集英社
マンガで一気に読める!日本史    金谷俊一郎=著 西東社
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著  PHP文庫

 

【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 1576年4月、冷戦状態が続いていた本願寺が中国の毛利や越後の上杉と結託して、新たに信長包囲網(第3次信長包囲網)を形成。再度、信長に反旗をひるがえしました。

 信長も本願寺周辺に新たに砦を築き、明智光秀佐久間信盛荒木村重滝川一益羽柴秀吉、原田直正らを投入して、一気に本願寺の攻撃する態勢をつくりました。

 原田直政は、信長の有力武将の一人で、1570年~1573年まで京で行政官を務めていました。1574年からは山城、大和の守護職役に命じられ、長篠の戦い越前一向一揆攻めに参加しています。1575年に信長が家臣の任官を求めたときには、光秀の日向守(ひゅうがのかみ)や秀吉の筑前守(ちくぜんのかみ)とともに、備中守(びっちゅうのかみ)に任じられ、原田の姓を授けられました。

 信長はそんな原田に対し、本願寺包囲戦の総大将に任命し、同年5月3日、天王寺砦の原田隊に木津川砦の攻撃を命じました。本願寺の海への交通路をつぶすためです。
原田は2千人の兵を率いて出撃するも、その動きは本願寺に伝えられ、本願寺からは1万人の門徒衆が次々に出撃して原田隊を三津寺で迎え撃ちました。

 攻撃の中心は雑賀鉄砲衆です。彼らが先頭に立って斉射すると、原田隊は総崩れ、直政は討ち取られました。

 門徒勢は勢いに乗り、逃げる織田勢を追って天王寺砦に殺到しました。砦には明智光秀ら2千人が立て籠っていたが、本願寺勢は増えるばかりで、このままでは砦が落ち、光秀の命も危ないという切羽詰まった状況になった。

 急を聞いた信長は、5月5日、京から若江(東大阪市)に着陣したが、軍勢は騎馬の武者と馬廻り衆を中心に三千人が集まっただけです。門徒衆が本願寺周辺にあふれているので、足軽勢が合流できないのだ。

 本願寺包囲網も分断されると、力が発揮出来なかった。

 間もなく砦は落とされてしまうだろう。原田につづいて光秀まで打たれてしまえば、信長軍の戦力は大いに戦力ダウンし、本願寺戦は頓挫する。

 なんとしても天王寺砦を守り、光秀を助け出さなければならない。
後に自らが討たれる光秀を命懸けで助け出すことになりました。歴史の皮肉です。
信長は3千人の軍勢を三段に分けて若江を出陣し、砦を取り巻く門徒勢の中に突っ込みました。少数で大軍の中に切込んだのは桶狭間の戦い以来、2回目です。
第一段が佐久間信盛、第二段が滝川一益羽柴秀吉、そして第三段が信長と馬廻りです。

 一段と二段が交互に門徒衆に突撃して進路を開け、信長は馬廻りに守られながらその中を進むという戦法だ。

 門徒衆は信長の旗印を見ると、攻撃を信長に集中した。雑賀鉄砲隊の姿も遠望された。彼らが近づけば、損害ははりしれない。信長は自ら陣頭に立つと全軍を密集体形とし、一気に砦を目指しました。体形を崩さずに進むのは難しいが、それができるのは、織田の諸将が戦いの経験を積んだからだ。

 この戦いは激しく、信長は足に鉄砲弾を受けながらも、砦に到着しました。
すると、光秀隊と合流。

 天王寺砦に信長が入ったとわかると、長島、越前で虐殺された同門の仇討ちとばかり、門徒が集まってきました。

 このままでは門徒の大軍に囲まれて自滅を待つだけです。信長は夜になると、一揆勢の群がる砦の外へ討って出た。

 夜になると、鉄砲は使えなくなります。
信長はそれを利用して、突如、雑賀鉄砲隊の征伐に出たのです。
急な信長軍の出撃に門徒衆は統一した対応が取れません。
接近戦においては、サムライの専門集団である信長軍にとって門徒衆は敵ではなく、信長軍は門徒の首二千七百を討ち取りました。
籠城するものと思いこんでいた門徒衆は浮足立って、敗走。本願寺に退却しました。(天王寺合戦)。

 

 この戦い以降、門徒勢は本願寺に籠り、出撃して戦うことはなくなった。本願寺包囲戦は籠城戦となった。

 石山本願寺は、非常に規模の大きい城構えでした。周囲には塀がめぐらされ、その中は籠城できるように町が作られていました。

 塀の中には田んぼまであったといいますから、まさに難攻不落の城と言ってよいでしょう。

 信長は籠城する本願寺を攻めるにあたり、兵糧攻めを選びました。周囲をびっしり囲んで、石山本願寺が音を上げるのをじっと待つという作戦です。
本願寺の中にいるのは兵ではありません。普通の戦争なら城内にいないはずの女性や子供、老人なども宗教施設であるが故にたくさんいました。兵糧攻めにすれば、そういう兵以外の人たちも日々大量の食べ物を消費していくので、飢えるのも早いだろうと信長は踏んでいたのです。
しかし、石山本願寺もさるもので、毛利と手を組み、物資の補給を依頼します。
でも、敵に取り囲まれた城にどのようにして物資を運び込もうというのでしょうか。毛利が選んだのは甲斐路による補給でした。幸い、石山本願寺の目の前には木津川という川があり、川は大阪湾とつながっていました。それに毛利氏の配下にはこの仕事にうってつけの「村上水軍」という部隊がいました。
村上水軍が、大量の補給物資を積んだ船で大阪湾から木津川に入る。川の河口を遡れば、すぐに本願寺です。
信長も、もちろん情報として毛利と本願寺が手を組んだということは知っていたので、村上水軍を迎え撃つべく、自分の配下に「九鬼水軍」を木津川の河口に配し、「敵の補給船を絶対に木津川に入れるな。」と命令しました。つまり、狭い河口で「村上水軍」を待ち伏せするという作戦です。
信長は高を括っていました。
この戦いは、狭い河口を守り抜くだけだ。敵の舟の侵入を防ぎさえ
しかし、信長軍・九鬼水軍は完敗します。
なぜ負けたのかというと、敵の村上水軍が「炮烙(ほうらく)」という強力な火器を使用したからでした。炮烙とはどのようなものなのかというと、火薬を詰めた陶製の器に導火線のついたもので、火をつけて相手に投げるというものです。形はハンマー投げのハンマーのような球体でうが、火炎瓶のような武器だと思っていただければよいとおもいます。
これが織田軍・九鬼水軍にほとんど全滅に等しい被害を与えました。
九鬼水軍の船は和船ですから木造で帆は布です。それが火薬の弾をぶつけられ、一度、火がついたらもう手も足も出ません。九鬼水軍がほとんどの船を焼かれて、手も足も出ない中、村上水軍は悠々と木津川を遡り、補給物資を石山本願寺内に運びこみました。
これに信長は大激怒しました。
「何てザマだ。貴殿に期待した分、失望は大きい。天下への道は遠のくばかりだ。」
船のプロである九鬼義隆も「あれについては防ぎようがありません。」
ここまで来て、本願寺包囲戦を諦めるわけにはいきません。
天下への情熱が冷めない信長は誰も思いつかない画期的なアイディアを出しました。
「鉄だ。鉄の船をつくってみろ」
信長が義隆に授けた案は「鉄甲船」でした。
信長の考えた鉄甲船とは、木造の船の船体を薄い鉄板で覆いつくすというものですが、鉄板で船全部を覆えば、炮烙をぶつけられても燃えるものがないので火災にはなりません。これならいくら炮烙を使われても船はは沈まない、ということです。
「殿、誠に素晴らしい発想だとは思いますが、鉄は重く、錆びやすいので、船の素材には向きません。」
「鉄は燃えない。」
この戦いは、敵の船の侵入を防ぐだけで、もっぱら防御に徹すればよいので、駆動性の良し悪しはそれほど問題ではありません。また、今回の木津川の攻防に勝てばよいだけなので、長期間その船を使用するわけではありません。
ですから、最大の問題である「重い」と「錆びる」ということも、それほど大きな問題ではありません。
ここまで考えて、信長の中で鉄の使用にゴーサインが出たのだと思います。
人間というものは新しいアイディアを考えようとするときに、必ず常識に縛られているのです。
こうして生み出された鉄甲船には大砲も装備され、九鬼水軍は再び木津川で毛利・村上水軍を迎え撃ちました(第二次木津川の戦い)。
こうして1578年11月、毛利・村上水軍は物資補給を諦めて撤退していきました。織田軍・九鬼水軍の大勝利です。
こうして信長は遂に本願寺への補給路を完全に絶つことに成功しました。
これ以降、本願寺にとって、情勢は悪くなる一方でした。しかし、本願寺はしぶとく、その後も抵抗を続け、信長はとうとう最後まで本願寺を攻め落とすことが出来ませんでした。
最終的に講和が成立したのは、第二次木津川の戦いから2年後の1580年3月のことでした。
そのときも顕如が決して信長に屈しようとしなかったため、信長は天皇家の仲介を得ることでようやく講和に持ち込んだのです。条件は本願寺側の安全を保証することと顕如門徒が大阪から退去することで、顕如は4月9日、石山を退去し、紀伊に移り、徹底抗戦を主張した子の教如も8月2日に退去しました。
本願寺との戦争はなぜ10年にも及んだのでしょうか。
1つは鉄砲と石の力です。本願寺の地名である石山は石の多い土地であることを示しています。城には雑賀鉄砲衆3千人をはじめ、4万の門徒終結したが、籠城衆は堀を深くし、土塁の上には石を積み上げて鉄砲狭間(はざま)とし、櫓(やぐら)も高くした。石の壁で相手の鉄砲玉から身を守り、防壁の間から撃てば、攻め方は近寄れない。信長は大鉄砲を使ったというが、目立った成果はありません。大鉄砲は長島攻めでも使われているが、日本の鉄砲鍛冶がつくったものか南蛮渡来品かは不明。
軍事史的にみると、城砦の優位性は大砲の出現まで保たれます。家康が大阪城にカルバリン砲を打ち込んだ大阪冬の陣は1614年で、本願寺の40年もあとのことです。
2つは周囲が4キロもあるという総構えの城域です。
本願寺寺内町を含む広大な地域には鍛冶、石工、大工などがあり、鎧、鉄砲の修理、弾薬の製造もおこなっていました。
弾薬の原料や米や、味噌、塩、魚などは近隣の門徒が命懸けで運びました。3つは信長にとって、本願寺を攻める大義名分がなさすぎたことです。
なぜ、大阪なのか。なぜ、本願寺なのか。
その答えとなっているのは、専ら信長自身の利益のためであり、天下泰平だとか、平安楽上などの大義名分がないため、民衆の共感を得られなかったことも原因ではないかと考えられます。

 

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著     草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史          西東社
早わかり 日本史                      日本実業出版

【どう違う?】織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

織田がつき
羽柴がこねし
天下餅
すわりしままに
食うは家康

 この歌は江戸時代に作られたもので3人の天下統一への関わり方を、皮肉を織り込んで現しているものです。
 織田信長が下準備をし、羽柴(豊臣)秀吉がなしとげた天下統一。それを座ってじっと待っていた徳川家康が最後に手に入れたという喩えです。
 ということで、今回は、そんな日本史上屈指の人気を誇る戦国3英傑はそれぞれどのような違いがあるのかを見ていきたいと思います。

人物 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
時代のイメージ 破壊 創造 維持
あだ名 革命児 実力者 眠れる巨人
精神 「剛」の精神 「柔」の精神 「忍」の精神
デビュー戦 桶狭間の戦い 山崎の戦い 関ケ原の戦い
本拠地 安土城 大阪城 江戸城
役職 関白 征夷大将軍
内容 室町幕府を滅亡    旧勢力との戦い 天下統一達成   巨大組織誕生 江戸幕府の成立     長期政権の誕生
政策 兵農分離       楽市・楽座令 太閤検地      刀狩令 武家諸法度      禁中並公家諸法度
キリスト教 容認 はじめ容認    後に禁止 完全禁止

 歴史はストーリーで覚えるというのが、当ブログの基本方針です。ストーリーといっても、難しく考える必要はありません。基本的に歴史は「破壊→創造→維持→衰退」のサイクルの繰り返しですので、この一連の流れに沿って、事実を関連付けて物語を創っていくのです。それに則り、信長は「破壊の時代」の中心人物、秀吉は「創造の時代」の中心人物、そして家康は「維持の時代」の中心人物とすることが出来ます。

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

「天下の支配者は信長である!これに逆らう者は圧倒的な武力でねじ伏せる。」
 これが織田信長の基本スタンスです。短気で残虐なイメージがある信長ですが、しかし彼こそは、新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、自らをトップとした理想国家の実現にむけて万難を排して邁進するカリスマ的リーダーだったのです。

 下剋上の時代、室町幕府の統治力は最低ランクにまで落ち込み、各地に戦国大名が登場し、天下統一トーナメントが始まりました。
 有名な戦国大名陸奥(東北)の伊達氏、関東の北条氏、越後(新潟)の上杉氏、甲斐(山梨)の武田などですが、それぞれの政権が群雄割拠するまさに戦国の世にふさわしい破壊の時代です。

 
 この中でも、天下にもっとも近かったのは尾張(愛知)の織田信長でした。この頃の戦国大名達の目標は自国を守り、拡大することです。しかし、信長の野望は他の大名とは異なり、天下を統一することでした。

 そんな信長が日本史の表舞台に出るきっかけとなったのが、1560年に今川義元を討ち取った桶狭間の戦いです。これによって尾張の一領主だった信長はその名を全国に轟かせ、有力大名として名を連ねるようになりました。戦国の革命児・織田信長の華々しいデビュー戦です。
 今川義元を破った信長は、三河徳川家康と同盟を結び、1567年には美濃の斎藤氏を滅ぼした後、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印判を使用して天下統一の意志を示しました。

 翌1568年、将軍になりたいと頼ってきた足利義昭を信長は保護して入京、義昭を室町幕府15代将軍に就任させることで恩を売り、将軍からあらゆる権力を奪い始めました。これまで武力と財力を高めてきた信長は最後、権力を手に入れることで天下統一を急いだのです。
 しかし、そんな強引なやり方は当然ですが、あらゆる勢力からの猛反発を招き、信長に対する包囲網が築かれ、窮地に陥りました。以降、信長はあらゆる勢力と激しい戦闘に明け暮れるようになります。

 1570年、信長は姉川の戦いで近江の浅井氏と越前の朝倉氏を破ります。さらに、当時最大の宗教勢力だった一向宗石山本願寺との戦いも始まりました。翌1570年には抵抗する比叡山延暦寺の焼き打ちを行って、強大な宗教的権威を屈服させました。

 そんな信長は、1573年に武田信玄が没すると当面の危機を脱し、さらにその勢いを増します。

 信長は、反信長勢力を育てようとしていた将軍義昭を京から追放し、室町幕府を滅ぼしました。

 翌1574年には伊勢長島の一向一揆を討滅したのに続いて、翌1575年には越前の一向一揆も平定し、長篠の戦いでは、信玄の後を継いだ武田勝頼も鉄砲の導入などで撃破しました。

 そして1576年、信長は安土城の築城に取り掛かり、そこを居城としました。1580年にはようやく石山戦争が終結します。その後も中国の毛利攻めなど、全国統一に向けての戦いが進めました。

 このように信長の統一事業は達成されるかに思われました。しかし、信長はせっかちな性格であるがゆえ、目的達成に焦り、そのために手段を選ばないやり方は家臣からの不満も買い、1582年、家臣の明智光秀の謀反にあい、信長は京都で死んでしまします(本能寺の変)。皮肉にも天下統一は彼の家臣である豊臣秀吉が引き継ぐことになってしまいました。

 信長は天下統一の途上にあったので、本格的な政策を展開したわけではありません。しかし、兵農分離楽市楽座が信長の代表的な政策になります。
 
 まず、兵農分離とは革新的な軍事政策でした。信長は家臣団を城下町への集住を徹底させるなどして、全国どこでも派兵の指示が出来る機動力ある軍事力をつくりあげました。信長の兵農分離は、それまでの農業と軍事を両立する従来の常識を覆し、軍事のみに特化した専門集団をつくりだしたのです。

 続いて、楽市楽座も革新的な商業政策でした。室町時代に組織された「座」とよばれる同業組合であり、新規参入を拒む極めて閉鎖的なものでした。しかし信長はこの「座」を廃止し、新規参入を許可。各地の関所も撤廃され、誰でも自由に商売を出来る制度を始めました。これが楽市楽座です。信長はこのような経済活性化政策を行うことで、自らの財力も盤石なものにしていったのです。

 さらに、信長はキリスト教を容認していましたが、これは貿易を盛んに行いたかったことや、海外の動向を知るためにキリスト教宣教師を優遇する必要があったからなどと推測されていますが、一説には、延暦寺本願寺などの強大な宗教勢力に対抗するためだったのではないかとも考えられています。

 こうして織田信長による「破壊の時代」が終わり、豊臣秀吉がその後を継ぐことになります。時代は「創造の時代」へと移っていくのでした・・・。


鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

 豊臣秀吉は戦闘において、信長のような武力でねじ伏せる強引なやり方だけでなく、様々なアイディアや工夫を凝らし、降伏させたり、配下として吸収するという柔軟な戦闘方法を生み出しました。農民の子として生まれながら、誰もが不可能だと思っていた天下統一を可能にした秀吉、そんな彼には‘実力者‘というあだ名がピッタリでしょう。

 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、1582年、山崎の戦いで反逆者の明智光秀を討ち、信長没後の主導権を握りました。尾張の農民の子として生まれた秀吉が武士として出世したデビュー戦です。

 翌1583年には信長の重臣であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り、信長の孫を後継者として擁立しつつ、実際には自らが主導権を握り、信長の後継者としてその地位を固めました。同年、秀吉は水陸交通にめぐまれた石山の本願寺の跡に壮大な大阪城を築き、そこを拠点として天下統一を目指していきました。

 1584年には、尾張小牧・長久手の戦いで、信長の二男である織田信雄徳川家康の軍と戦うも、決着がつかず、和睦に終わりました。これを機に秀吉は武力だけでは天下統一を達成出来ないことを悟り、以後、朝廷や公家、将軍などあらゆる権威に懐柔しながら自らの地位を高め、その圧倒的な権威に相手の戦意を喪失させるという作戦に出ます。


 そんな秀吉は1585年、朝廷から関白に任じられた後、四国の長宗我部元親を下し、四国を平定しました。

 翌年には太政大臣にも任命され、豊臣の姓を与えられました。
 関白になった秀吉は天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦協定を命じる惣無事令を出し、全国の政治運営は全て秀吉に任せることを強制しました。そして、これに違反したとして秀吉は1587年、九州の島津義久を征討して降伏させました。

 さらに1588年には、京都に新築した聚楽亭に後陽成(ごようぜい)天皇を迎えたうえで、全国の諸大名を招集し、彼ら諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせました。秀吉は天下統一への王手をかけたのです。

 そして1590年、最後まで抵抗していた関東の北条氏政を滅ぼし(小田原攻め)、同時に陸奥の伊達正宗ら東北地方の諸大名も服従させることに成功し、秀吉はとうとう信長の達成出来なかった天下統一を完成させたのでした。秀吉は山崎の戦いからわずか8年間で天下人にまで駆け上がるというとんでもない快進撃をやってのけたのです。

 山崎の戦いの後、秀吉はさっそくその年、1582年に、山城の国から検地を開始し、その後、新しく獲得した領地も次々に検地をおこなっていきました。この太閤検地は、1つの土地に1人の耕作者を決める、一地一作人の原則で行われました。村単位に検地帳を作り、その土地の価値を米の量で表示する石高制をとることで、抜本的な土地税制の改革が実現しました。農民達に確実な年貢を納めさせる義務を課すことで、豊臣政権の財政基盤は盤石なものになっていきました。

 秀吉は九州の島津氏を屈服させ、その帰途、博多でバテレン追放令を出してキリスト教宣教師を国外追放しました。秀吉は当初、信長にならいキリスト教の布教を認めていました。しかし、次第にキリスト教の教義が一向宗のような非常に危険な思想であると判断し、許可制にするなど統制・禁圧方針に変更したのでした。しかし、ポルトガル船の来航と貿易は容認されるなどその法令は不徹底なものでした。

 天下統一を達成した豊臣政権は、織田政権と同様に、圧倒的な財政基盤を背景に秀吉のワンマン経営によって維持されており、組織としての体裁が整っていませんでした。そこで、石田光成や増田長盛などの秀吉の腹心の家臣達を五奉行として政務担当を、徳川家康毛利輝元など有力大名を五大老として重要政務を合議させる制度をつくりあげました。ここに全国を傘下に置く豊臣政権という超巨大組織が誕生したのでした。

 秀吉の野望は全国平定だけにとどまらず、1592年、15万人余りの軍をもって朝鮮侵略に乗り出します(文禄の役)。朝鮮・明の侵略を企てた秀吉の軍隊は、初めは連戦連勝でしたが、やがて戦線が行き詰まり、休戦協定が結ばれ、講和交渉が成立しました。しかし、秀吉の意思と現場の妥協が上手く合致せず、秀吉は再び朝鮮への出兵を命じました(慶長の役)。

 それに対し、朝鮮や明から激しい抵抗にあい、日本軍は兵の無駄死にだけが目立つようになります。そんな最中、秀吉は病によりこの世を去ったことで朝鮮出兵は頓挫しました。これによって豊臣政権は内部対立が激化、完全に分裂してしまいました。秀吉の超巨大組織は意外にも脆いものでした。

 短命に終わった豊臣政権から実権を奪い取った徳川家康は、その後260年に及ぶ江戸時代という長期政権を創り出しました。時代は「維持の時代」へと移っていくのです。


鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 

 徳川家康といえば、我慢の人というイメージでしょう。上記の歌からは一見、家康が良いとこ取りをしているように見えますが、とんでもない。
 家康は忍耐強く待ち続けたといっても、ただ指をくわえて待っていたわけではありません。家康は時間という財産をエサにして、自分の実力を極限にまで高めていたのです。
 その証拠に秀吉亡き後に、家康に逆らえる者などいなかったし、関ヶ原の合戦も東軍の圧勝でした。ゆっくりと、でも着々と実力を蓄えていたからこそ、絶妙のタイミングでチャンスをつかむことが出来たのです。そんな彼には‘眠れる巨人‘というあだ名がピッタリでしょう。

 織田信長と同盟を結び、東海地方に勢力をふるった徳川家康ですが、豊臣政権下の1590年、北条氏滅亡後の江戸に移され、約250万石の領地を持つ大名になりました。
 しかし、当時の江戸は江戸寒村ばかりが点在する荒れ果てた沼地であり、家康は屈辱を強いられましたが、一方で豊臣政権下では五大老の筆頭として高い地位を持っていました。
 秀吉が大軍勢を率いて朝鮮出兵に乗り出す中、それを終始懐疑的な目で見ていた家康は国内に残り、江戸の開発に取り組み、天下人への野望を抱くようになりました。

 膨大な戦費と兵力を無駄した秀吉の朝鮮出兵は大失敗に終わり、秀吉の病死とともに全軍撤退しました。秀吉の死後、幼い息子・秀頼が当主となったので、豊臣政権の事実上ナンバー2だった家康は一気にその地位を高め、実権を独占するようになりました。

 すると、五奉行の一人で豊臣政権を維持しようとする石田三成と家康の対立が深まり、1600年、三成は五大老の一人である毛利輝元を総大将として兵をあげました(西軍)。対するは、家康と彼に従う福島正則加藤清正らの諸大名(東軍)で両者は関ヶ原で激突しました。(関ヶ原の戦い)。家康が頭角を見せるきっかけとなったデビュー戦です。
 
 天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦いはわずか半日の戦いでした。毛利軍の精鋭部隊であった小早川秀秋が東軍に寝返ったことが決めてとなり、家康率いる東軍の勝利に終わりました。

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍についた諸大名に極めて厳しい処分を下しました。石田三成小西行長は京都で処刑され、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)され、旧主であった豊臣秀頼も60万石程度の一大名にまで転落させました。その他多くの西軍諸大名が改易(領地没収)されました。

 1603年、家康は全国の諸大名に対し、自らの政権の正統性を示すために朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開きました。

 こうして家康の天下となったが、それからわずか2年後、家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、今後の政権は代々徳川家が世襲することを全国にアピールしました。ただし、政治の実権はその後も大御所(前将軍)となった家康が握り続けました。

 こうして家康は、徳川政権という以後260年に及ぶ長期政権を完成させ、余生を楽しむためご隠居されたのでした。

 めでたし。めでたし。

 ・・・というわけにはいきません。家康には生涯最後の大仕事が残っています。

 それは豊臣家の存在です。1611年、家康は京都の二条城において豊臣秀頼と対面しました。秀頼は立派な青年に成長しており、家康はその末恐ろしさに豊臣家を滅ぼそうと決意しました。

 1614年、家康は豊臣家が再建した京都方広寺(きょうとほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう)に徳川家を罵る文言があるといういちゃもんをつけ、大軍で大阪城を包囲して攻め立てました(大阪冬の陣)。一旦、講和をむすんだものの、翌1615年、再び戦いを仕掛け、ついに秀頼を自殺させ、豊臣氏を滅ぼしました(大阪夏の陣)。

 大阪夏の陣の直後、家康は今後、徳川将軍家を長く存続させるために徹底した大名統制を行いました。その代表的な政策は1615年の武家諸法度の制定です。家康の死後、2代将軍の徳川秀忠はこれに違反した大名を次々に改易処分にするなど厳しい統制を行いました。

 こうした徳川政権の統制政治は武士だけでなく、朝廷や公家にも及びました。同年、家康は禁中並公家諸法度を制定し、西軍大名の多い西国地方の監視のために設置した京都所司代らに朝廷の監視をさせました。そして、3代将軍徳川家光が没する1651年ごろまでに幕府の支配体制はほぼそろい、江戸時代(徳川政権)という260年に及ぶ長期政権が誕生しました。

 また、家康はキリスト教に関しては徳川の国家体制において都合の悪い思想であると考えていました。1612年に天領(幕府の直轄地)に禁教令を出し、イエズス会の布教を禁じました。同令は翌1613年以降全国に広がっていきました。1616年の家康が死んだ直後、幕府はヨーロッパ船の来航地を平戸と長崎に限定するなど江戸時代を象徴する鎖国政策の準備がされていくのでした。

以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうござます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史    笹山晴生 他=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史         石川晶康=著   旺文社
戦国時代の組織戦略            堺屋太一=著   集英社
マンガでわかる日本史           河合敦=著    池田書店
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著   Gakken

【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【石山合戦3】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 

 1570年、信長と本願寺の戦いが始まると、それまで足利義昭の下にいた門徒の雑賀、根来衆が命令に従って石山に集まったので、火力は一気に強化され、本願寺には3千丁の鉄砲が集まりました。

 このときはそれ以上の戦いはなく、にらみ合いが続いていました。

 

 しかしこの後、信長にとって大きな転機が訪れます。

 それは1573年5月に甲斐の名将・武田信玄が死んだことです。

 信長包囲網の最大勢力である武田信玄が死んだことで、勢いを増した信長は将軍・足利義昭を京から追放、続いて浅井・浅倉を滅亡、1574年9月には伊勢長島を陥落させると、情勢は信長有利に変わっていきました。

 このように、それまでの信長包囲網が崩れたことで、本願寺は危機的状況に追い込まれました。

 

 そして1575年4月、信長は10万と号する大軍で摂津、河内を攻めました。まず、6日に本願寺の支城萱振(かやふり)を攻略、つづいて三好三人衆の一人、三好正康の河内高屋城を落とし、13日には天王寺に布陣し、その威勢を見せました。

 14日には本願寺に迫ったが、周辺の田を荒らしただけで、それ以上の攻撃はしなかった。

 まだ武田氏が健在であり、信玄の子・武田勝頼との戦いが迫っており、そちらに力を振り向ける必要があったからです。しかし、10万の軍勢は本願寺に十分な威圧を与えました。

 同年10月、越前で一向一揆が敗北し、さらに武田勢が長篠で敗れたことも影響し、本願寺は信長に和睦を申し入れました。

 信長もこれに応じ、一旦は和睦が成立しました。

 しかし、本願寺は抗戦を辞めたわけではありません。本願寺はこの和睦によって、次の戦いに備えて態勢を整える準備期間にしようとしただけです。

 

 一方、信長も面白くなかった。

 夢にまで見た大阪の居城、しかしその場所はいつまで経っても落とせそうにない。

 この時、信長は42歳。人生50年といわれた当時、信長には年齢的にも時間が残されていませんでした。

 一方、自分の重臣である羽柴秀吉は、北近江の領主として琵琶湖のほとりに長浜城を築き、領内の寺院、商工業者を呼び集めて城下町をつくり、楽市・楽座とした。城下町は手工業が振興し、商品の流通も活性化し、秀吉は莫大な利益を得ることが出来ました。

 信長は面白くなかった。

「サルに出来て、天下を目指すワシに出来ないなんて・・・・」

 信長にとってこれほどの屈辱はありません。

 妬けを起こした信長は1566年早々、突如安土に新城をつくると決め、すぐに普請に取り掛かりました。

 安土は長浜から30キロの位置にある。そう、信長は秀吉の利益を横取りしようとしたのです。

 信長は南近江の商人や手工業者、輸送業者を城下町に集めました。もちろん楽市・楽座としました。

 安土は東山道(とうさんどう)から外れていたが、城下を通る脇道をつくり、東山道を往還する者は必ず城下を通れと命令した。

 安土の天守閣も、その姿を現すのに従って、町の賑わいも増していきました。

 そんな中、同年4月、冷戦状態が続いていた本願寺が中国の毛利や越後の上杉と結託して、新たに信長包囲網(第3次信長包囲網)を形成。再度、信長に反旗をひるがえしました。

 

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著    草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史       西東社
早わかり 日本史                日本実業出版

【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか(中編)

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか(中編)」というお話です。

 

 信長は、当時経済の中心地であった大阪に城を築きたかった。

 その場所とは、当時、国際貿易都市であった「堺」の町の河口に位置する上町台地です。

 そこは信長が10年間も苦しめられた石山本願寺のあった場所です。

 信長と本願寺の10年にも及ぶ死闘の始まりです。

 信長の夢は彼の死後、明智光秀を倒した後、天下統一を引き継いだ豊臣秀吉によって成し遂げられます。

 ということで、今回もストーリーを展開していきながら、石山本願寺の戦いをご紹介いたします。

 

 1568年、将軍になりたいと頼ってきた足利義昭を京に入れ、15代将軍に就任させました。義昭はその労に報いるために副将軍と畿内5ヵ国を治める管領職につくよう進言しました。

 しかし、信長はこれを断り、代わりに大阪の堺・大津・草津などに代官所を設置するなど主要商業都市を配下に置く権利をもらいました。

 特に「堺」は、現在の大阪府堺市の大阪湾に面する地域にあり、自由都市と呼ばれる国際貿易都市です。古代、中国や朝鮮の使節の発着地だったといわれています。

 その後は漁港として栄え、室町時代日明貿易が開始されると、貿易港として栄えるようになりました。

 かつての外国人宣教師からも「大いなる特権と自由を有し、共和国のごとき政治を行っている」と称えられました。

 そんな自由都市・貿易都市である「堺」の河口に位置する上町台地。その立地の良さは相当なもので、ここに城を築けば、市場から莫大な利益が得られるだけでなく、朝廷や公家、西国大名すらも牽制出来る。

 それに現在、信長の居城は「岐阜」にあります。そんな山中よりも「大阪」という経済の拠点にあったほうがより天下人としての気分を味わえるのは当然のこと。

 

 信長は羨望の眼差しで石山本願寺に狙いを定めました。

 

 1568年10月、上洛に成功した信長は足利義昭征夷大将軍の座に就け、三好三人衆を阿波に追うと、本願寺に5千貫(5億円)の戦費を要求した。

 しかし、戦費というのは単なる建前で、要するに本願寺の特権を認められたいなら権利料を払えということです。

 信長の本願寺に対する挑発行為です。

本願寺はすぐには応じなかった。信長は将軍の命令に背いたということを口実に5万人の兵を動員し、本願寺を包囲しました。

 この圧力が効いたのか、本願寺は信長の要求に応じました。

 当時は日本人の半分以上が一向宗と言われ、本願寺を含む寺内町には武家に対抗できるだけの人と資金が集まっていました。

 法外な請求にも関わらず、本願寺は「将軍のためなら」ということで支払いに応じました。

 本願寺はそれまでも、銭で武家の不入権を買い、寺内町の商業や交易権に対する介入を防いでいたのです。

 しかし、今回の信長への支払いは当面の軍事介入を回避する一時的なもので、将来にわたって本願寺の存在を保証するものではありません。

「このまま信長に従うか、反信長派にまわって徹底抗戦するか。」

 本願寺宗主の顕如はどちらにつくかの決断の時は近いと感じます。

 

 1569年正月、三好三人衆は信長の留守を狙って京に侵入し、義昭のいる本圀寺を襲いました。
 急を聞いた信長は岐阜から駆け付け、近隣で信長派の諸豪族なども救援に集まりました。
 このとき本願寺は中立の立場を守っていました。

 

 1570年6月、信長は盟友の徳川家康と連合し、姉川で浅井・朝倉軍と戦い、見事勝利を治めました。

 これに自信をつけた信長は本願寺に要求します。

「この世の主は信長である。本願寺の場所は、この信長に明け渡すように。」

 遂に信長はその一方的な要求を本願寺に突きつけたのです。

 

 1570年8月、三好三人衆は浅井・朝倉の出兵に呼応し、再び摂津へ侵攻。
対する信長勢も、天満ヶ森(大阪市北区)、川口(西区)、渡辺(東区)、難波などに付け城を築いて対抗、両者は大阪で激突しました。

 三好や浅井・朝倉勢が敗れれば、信長の軍事力は本願寺に向けられる。もはや中立な立場でいられるはずがない。

 本願寺三好三人衆と盟約を交わし、反信長勢力に加わりました。


 反信長の旗を上げた本願寺は、門徒衆を集めて信長方の砦を攻撃して、その姿勢を鮮明にした。

 これを受けた織田勢もすぐに反撃し、本願寺に鉄砲を撃ち込みました。

 今後10年にも及ぶ、信長VS本願寺による戦いの始まりです。

 同年9月、顕如は全国の門徒に檄を飛ばし、信長を法敵として戦うよう命じました。
「信長が上洛して以来、私達はとても迷惑をしています。無理難題をふっかけてきたことにも随分と応じてきたのに、その甲斐もなく、『本願寺の城構えを破却して、この地から退去せよ』という最終通告をしてきました。こうなった以上、もう戦うしかありません。全国の門徒の皆さん、怖け気づくことなく、生命と身体を惜しまず忠誠をつくしてくれるものとありがたく思っています。でも、もしこれに従わない人がいたら、その人は門徒とは言えません。」

「進めば、往生極楽。退けば、無限地獄」
これが門徒への合言葉となりました。

 伊勢長島の一向一揆衆はこれに応え、11月、尾張領に入り、小木江城を攻め、その城将で信長の弟である織田信興(おだのぶおき)を切腹に追いやりました。伊勢長島の一向一揆の始まりです。

 ところで、信長自身は後の秀吉や家康に比べれば、宗教に対しては寛容門徒たちが信心して宗教をもつことには何も反対していませんでした。ただ、宗門や信徒が商業権や通行権を独占していることが許せなかった。

 それらの権利を享受するのは天下人である信長である。

 これが信長の一貫した主張です。

 一方の本願寺も宗門の利益を守ろうとしただけです。

 寺内町の住民は宗門に集まり、税を納めることで、商売や交易における独占権や同業他社の新規参入を防いでいました。そして本願寺は朝廷や公家に税を納めることで、武家勢力などの不入権を得ていました。天下人として経済を掌握したい信長が本願寺と相いれなくなるのは当然です。

 意外なことに信長を除く戦国大名は、天下統一の野望を持っておらず、本願寺とは多少の利権争いはあっても、均衡を取りながら互いにその存在を認め合っていました。

 しかし、信長だけは許さなかった。

 大阪を立ち退かなければならないならば、全面対決は避けられない。
しかし、それは本願寺側からすれば、正当防衛というもので、十分な大義名分が成立していました。

 戦いが始まると、それまで義昭将軍の下にいた門徒雑賀衆顕如の命令に従って石山に集まりました。本願寺の火力は一気に強化され、本願寺には3千丁の鉄砲が集まりました。

 このときはそれ以上の戦いはなく、両軍のにらみ合いが続いている状態でした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業  井沢元彦=著  PHP
信長は本当に天才だったのか       工藤健策=著  草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社
早わかり 日本史          河合敦=著   日本実業出版

【山東出兵】田中義一内閣の外交政策をわかりやすく【田中義一】(完成版)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【山東出兵】田中義一内閣の外交政策をわかりやすく」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
 
 中国に済南(さいなん)という都市があります。

 ここは青島(ちんたお)と並ぶ山東省の中心都市です。

 北京と南京のほぼ中間に位置し、古来、南北交通の要衝となっていました。

 1904(明治37)年、自主的に外国に「開市」したため、外国人居留者が増え、世界有数の商業都市、国際都市となりました。昭和初期には日本人居留者も約2千人に達しています。

 そんな国際都市の済南が1928(昭和3)年、殺伐とした戦場となる危険にさらされました。「済南事件」です。一体、何が起きたのでしょうか。

 

 ということで、今回は田中義一外交政策を見ていきながら、済南事件はどのようにして起きたのかを見ていきたいと思います。

 外務大臣も兼ねる田中義一首相は外交において軍事的な威嚇、または軍事力を持ってでも、中国における日本の国益を守ろうという対中強硬外交を展開し、3度にわたって山東出兵に踏み切ります。それは北伐という当時の中国の不安定な情勢が原因で起きたのでした・・・。


 1927(昭和2)年、大量の預金者が銀行に預金の払い戻しを求めて行列を成すという取り付け騒ぎが起きました。金融恐慌です。が勃発したことを受けて、若槻礼次郎内閣の後を継ぎ、1927(昭和2)年4月20日、立憲政友会田中義一内閣が誕生しました。田中は外務大臣を兼任しており、対中国政策において強硬姿勢で臨むようになります。


 田中は組閣早々の同年5月28日、中国の山東省に陸海軍を派遣することを決定しました。第一次山東出兵です。

 田中義一内閣は、一方で、欧米諸国に対しては若槻内閣の幣原喜重郎外相の協調外交方針を引き継ぎ、アメリカ・イギリスと海軍の補助艦制限を話し合うジュネーブ軍縮会議に参加し、翌1928年にはパリ不戦条約に調印しています。

 

 なぜ、田中は対中国政策において強硬姿勢で臨むようになったのでしょうか。

 それは、当時の中国情勢が大変不安定で、それを受けた日本にも出兵せざるを得ない事情がありました。

 この時の中国情勢はどのようなものだったのでしょうか。それまでの中国情勢を詳しくご説明します。

 

 中国には孫文(そんぶん)が起こした1911(明治44)年の辛亥革命によって清朝が倒れました。

 そして翌1912年1月、中華民国が発足し、三民主義を掲げて中国の近代化を目指して孫文中華民国南京政府として臨時大総統に就任しました。

 しかし、旧勢力である袁世凱は列強と手を組んで孫文を追い出そうし、同年3月、孫文を亡命させることに成功します。

 その後、袁世凱中華民国の北京政府として臨時大総統に就任しました。しかし、袁世凱の政府には中国全体を統括する力はなく、1916(大正5)年の袁世凱の死後、中国は事実上、分裂状態に陥ってしまいました。

 つまり、中国には強力な中央政府が確立せず、特に中国北部には、軍閥とよばれる、日本の戦国時代のような地方政権が割拠していました。彼らは北京政府の支配権をめぐって抗争、政権の入れ替わりがありました。

 それぞれの軍閥は日本を含む列強諸国の支援を受けていました。その中で日本が支援していた軍閥政権は張作霖奉天派です。

 1919(大正8)年、中国国内では同年に開かれたパリ講和会議で列強諸国が山東半島における日本の権益を擁護する側にまわったことに憤慨し、5月4日、北京大学の学生デモを皮切りに反日運動が巻き起こりました(五・四運動)。

 反日運動はしだいに盛り上がり、それに呼応するかのように国民党を率いていた孫文中国国民党を結成、北方軍閥を倒して中国全土を配下に置く統一国家の実現を目指すようになりました。

「我が中華民国は今後、一致団結し、日本や列強と戦わなければならない。奴らに負けない近代国家を造るのだ。」

 一方、中国には国民党の他に、中国共産党が誕生していました。共産党も同様に、中国を近代化するべく統一国家の実現を目指していました。孫文率いる国民党は資本主義を支持する政府なので、私有財産制度は認めます。しかし、中国共産党社会主義を支持する政府なので、私有財産制度を否定します。

 国民党と共産党、この2つの政党は相容れないものでした。
 

 しかし、国民党と共産党が争っても、古い軍閥はそのままで、統一国家の実現は不可能です。そこで、孫文軍閥を共通の敵として共産党に協力を要請。共産党はそれに応え、国民党と共産党の協力関係が樹立しました(第一次国共合作)。

 孫文は結局、北方軍閥を打倒する軍事行動(北伐)を実施する前の1925(大正14)年に亡くなり、孫文の意思を継いだ蒋介石が先頭に立つようになりました。中国南部で勢力を強めた蒋介石率いる国民党は1927(昭和1)年7月、国民革命軍を組織し、北部の軍閥たちを制圧するべくいよいよ北伐を開始しました。

 北伐軍は、軍閥を倒しながら北上し、遂に上海に到達しました。

 しかし、もともと共産党を疎ましく思っていた蒋介石は同年、北伐中に上海クーデターによって、共産党を追放し、国共合作の関係は崩れ去ってしまいました。

 

 その後も、蒋介石は北伐を続け、日本では大正から昭和になって3カ月の1927(昭和2)年3月28日、蒋介石率いる国民革命軍が上海を超え、南京に入城しました。しかし、蒋介石の軍隊は規律がとれておらず、日本や英国などの外国の領事館を襲い、略奪や暴行、放火を繰り返しました。

 日本は大きな被害を免れましたが、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの4ヵ国の6人が死亡するという事態になった。

 これに対し、アメリカやイギリスは艦砲射撃で南京を攻撃しました。

 こうした欧米列強の動きに対し、日本政府も以降の北伐に備え、山東省の済南にいる日本人を守るという名目で、軍を送り込むことを決定。

 そして、1927(昭和2)年4月20日、立憲民政党の若槻内閣に代わって、立憲政友会田中義一内閣が誕生し、外務大臣も兼任する田中は同年4月19日、5千人規模の陸海軍を山東半島に送り込んだのです。これを第一次山東出兵といいます。

中国に出兵した田中首相はその後、東方会議を開き、対中国強硬政策をまとめました。日本の強硬姿勢に対し、蒋介石張作霖奉天軍閥の打倒に向けて北伐を再開。日本と中国の関係は決定的に悪化していくのでした・・・・・。

 この出兵直後の1927(昭和2)年6月27日から11日にかけて田中首相は自らが主催して、東京で外交当局者や軍部首脳部などを集め、東方会議を開きました。

 会議では中国問題を協議し、満蒙における日本の権益をあくまで守るという方針が取り決められました。しかし、これらの方針は日本側の従来の方針であり、懸案だった鉄道建設交渉の促進、満鉄沿線の商業地の拡大などの方針の再確認が大部分を占めていました。

「我が国は必要に応じて満蒙に対し、断固として自衛の措置をとる。」

 これによって田中内閣の中国に対する強硬姿勢が示され、中国国内の動乱による満蒙に波及して日本の地位と権益が冒されるのであれば、機を逸せず適当の措置に出ると宣言したのです。

 山東省に上陸した1個師団は、済南に至り、関東軍も出動し、北伐軍との間で戦闘が始まるかに思われました。

 しかし、このときは革命軍が済南に至る以前に北伐を断念したため、たいした戦闘にはいたらず、同年7月に関東軍は撤兵しました。

 日本の出兵のために、北伐をいったん挫折した蒋介石は総司令官を辞め(下野)、同年9月に「私人」として日本を訪れました。

 そして11月には田中首相と非公式の会談を始めました。

「田中殿、中華民国における日本権益の一部は認めます。その代わり、我が国民党への支援をお願いしたいと存じます。」

 この蒋介石の交渉を田中は拒否しました。

「我が国が関心を持っているのは、北伐そのものではありません。あくまで満州という既得権益の治安維持にあります。なので、その交換条件は成立しないのではないでしょうか。」

 そして田中首相は中国北部(満州)で実権を持つ奉天軍閥張作霖を支援することを明確に伝えました。

 これに激怒した蒋介石は帰国後、北伐の再開を決起しました。

「日本は我が国民党の中国統一を阻止するつもりだ。北伐を再開する!!!」

 田中義一に国民党を支援する意思がないとみた蒋介石は、張作霖奉天軍閥が支配する北京に向けて北上を開始しました。

 この蒋介石の北伐再開に対抗するように、田中内閣は第二次山東出兵として5千人あまりの兵を1928(昭和3)年4月19日に派遣すると決定しました。済南の日本人を保護するという名目です。

 4月25日には第6師団が済南に入り、済南の在留邦人を青島(ちんたお)まで引き揚げさせました。

 その6日後の5月1日、今度は北伐軍が済南に到着しました。

 はじめは双方とも自重したため平穏だったが、3日から4日にかけて、済南に居残っていた10人余りの邦人が北伐軍に殺される事件が発生しました。

 このことが日本国内に伝えられるや反中世論が高まり、それに応えるように8日から日本軍は北伐軍に攻撃を仕掛けたことで、北伐軍と日本軍は済南で軍事衝突、本格的な戦闘となりました。

 結局、北伐軍は退却し、迂回路を通って、北上することになり、済南は事実上日本軍が支配することになりました。

 これが、済南事件です。

「日本め、北伐を妨害しおったな。」

 蒋介石反日姿勢を強めました。

蒋介石め、よくも我が国の威信に傷をつけたな。第三師団を済南に送り込むのじゃ。」

 一方の田中義一内閣も第三次山東出兵を表明しました。

 こうして日本と中国の関係は決定的に悪化していくのでした・・・・。
 

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社
仕組まれた昭和史   副島隆彦=著 日本文芸社
子供たちに伝えたい日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版