【織田信長2】長続きしない人間関係とはどんな関係か?
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【織田信長2】長続きしない人間関係とはどんな関係か?」というお話です。
今回も、「なぜ信長は天下統一を達成出来なかったのか」について、信長の生涯を題材にしながら、「長続きしない人間関係とはどんな関係か?」を見ていきたいと思います。
損得感情で繋がった人間関係は絶対に長続きしません。織田信長と足利義昭の関係はともに利用してやろうという関係で繋がっていました。当初は相互依存の関係だったのが、やがて両者の間に深い溝が出来、信長は遂に義昭を追放。信長は自ら敵を増やすことになってしまいました。
1560年、上洛を企てて進撃してきた駿河の今川義元の大軍を尾張の桶狭間で破った信長は一躍その名を全国の諸大名に知らしめることとなりました。
今川を討ち取った後、すぐ美濃の攻略に挑戦しました。そして7年の歳月を経た1567年、ようやく美濃の斎藤氏を討ち破り、美濃を岐阜と改め、岐阜に城を構えます。
そして、いよいよ「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示すようになりました。
目標が天下統一になったことで、信長には合戦以外にも大きな仕事が発生しました。
それは時の天下人に近づくことでした。
時の天下人とは、室町幕府の将軍のことです。
天下統一を目指す信長が必要としていたもの、それは「権力」です。つまり、室町将軍からその権限を奪い取ろうというのが魂胆でした。
一方の義昭も信長の「武力」を利用しようとしていました。義昭は自らの兄であり、13代将軍であった足利義輝(あしかが義輝)が三好三人衆に暗殺されたことで、自分も暗殺されるのではないかという恐怖におののいていました。そんな時、勢力を増してきた尾張の戦国大名・織田信長に守ってもらおうと考えたのです。
流浪の生活をしていた義昭は、側近である明智光秀に頼み、信長に上洛と従軍の要請をしました。光秀の仲介によって信長と義昭は結ばれますが、その関係は長続きしませんでした。結果的に信長はたくさんの敵を増やすことになり、今後、戦いに明け暮れるようになります。
なぜでしょうか。
それは信長も義昭も互いに損得感情で関係を持とうとしたからです。
浅知恵の経営者がよくやりがちなことは異業種交流会に積極的に出ていこうとすることです。そこで、名刺をたくさん交換して少しでも関係を持とうとします。
しかし、これらの関係は上手くいきません。
お互いに利用してやろうという感情は互いに伝わります。すると、「コイツは俺を利用しようとしているのか」と考えるようになり、必然的に疎遠になっていってしまいます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
【大戦景気と戦後恐慌】日本経済はどのような影響を受けたのか
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【大戦景気と戦後恐慌】日本経済はどのような影響を受けたのか」というお話です。
本題に入る前に経済用語の解説をしておきます。経済学には景気、投資(投機)、利潤、賃金、恐慌、物価などのワードがあります。今回は特に「景気」と「恐慌」が重要なキーワードとなります。
「景気」とはお金の回り具合のことを言います。したがって「好景気」とはお金の回り具合が活発な経済情勢のことで、「不景気」とはお金の回りが停滞している経済情勢のことを言います。例えば、クリスマスになると、人々はクリスマスケーキやクリスマスプレゼントを買おうとお金をたくさん使います。すると、ケーキやプレゼントの製造会社(メーカー)が儲かり、そこで働く従業員の賃金(給料)も増えます。すると、その従業員達も給料が増えたことでお金を使うようになります。このようなお金の好循環こそが好景気と言えます。逆に不景気とは、人々が財布の紐を閉じ、消費を控えるようになることで、企業の従業員達の給料も上がらず、消費がさらに滞る状態のことを言います。
「景気」とは循環しており、好景気と不景気を周期的に繰り返しているわけですが、好景気がいきなり不景気にズドーンと急降下してしまうことが起こります。それを「恐慌」と言います。平成時代ではリーマンショックがその代表例といえるでしょう。
こうした恐慌を実は日本は何度も経験しています。
ということで、今回は大戦景気と戦後恐慌についてストーリーを展開していきながら、日本の経済はどのような影響を受けたのかについてご紹介していきたいと思います。
1915(大正4)年~1919(大正8)年、日本は第一次世界大戦の影響で好景気になり、品不足に陥った欧米諸国への輸出が増え、アジア市場から撤退した欧州製品の穴埋めとして日本製品の需要は高まりました。日本は史上初めて工業生産額が農業生産額を上回るようになったのです。しかし、大戦終結とともにヨーロッパ諸国から工業製品の輸出が回復し、戦時中に拡大した日本の生産活動は大きな打撃を受け、1920(大正9)年には戦後恐慌に陥りました。
明治後半に勃発した日露戦争以降、日本はイギリスから借りた戦費の支払いが続き、日本の財政は慢性的に悪化、貿易も輸入が輸出を上回っていました。日本は外国に借金を背負う債務国になってしまいました。
しかし、そんな日本は大正初期に「天の恵み」とも呼べる好景気を経験します。
1914(大正3)年7月、に勃発した第一次世界大戦です。
第二次大隈重信内閣の時にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。この大戦によって日本は未曾有の好景気を味わうことが出来ました。
1915(大正4)年から輸出総額が輸入総額を上回るようになったのです。
ヨーロッパからの東アジアへの輸出が途絶え、さらに東アジアに拠点を置いていたヨーロッパ系の企業も次々に本国に戻ったことで、欧米製品の穴埋めとして日本製品の需要が高まりました。中国や東南アジアという広大な市場を独占した日本は繊維製品や雑貨などの軽工業を中心に生産を行い、輸出は大幅に増大しました。さらに造船や鉄鋼などの重化学工業も発達しました。日本企業は大変な大儲けをすることが出来たのです。
さらに、大戦での物資輸送に伴う船舶不足から船の価格(船価)や海上運賃も高騰したことで海運業が発達。イギリス、アメリカに次ぐ世界第3位にまでなりました。国内には「船成金」と呼ばれるケタ外れの大富豪が現れるようになります。神戸に本社を置く貿易商社の鈴木商店もその1つでした。このように大戦景気で一攫千金を得た人々は「成金」と呼ばれ、当時の流行語にもなりました。
「旦那様、暗くてよく見えません。」
「どうだ。これで見えるだろう。」
成金となった旦那様は、学校教員の初任給20円の時代に100円札を燃やした灯りで召使いに靴を探させるという風刺画が描かれたほどでした。
こうした空前の大戦景気によって、資本家階級の人達は潤ったわけですが、一方の労働者階級や一般庶民の生活は苦しいものでした。
その原因も結構バカげています。
「ヨーロッパに大量にモノを輸出し過ぎて、国内が品薄状態になったこと。」
「最低賃金などの賃金上昇の対応が遅れていたこと。」
つまり、「給料は増えないのに、物価ばかり上がる・・・」という状態です。この2重の要因が相まって都市に住む工場労働者や低所得者を中心に人々の生計は圧迫されました。
その典型例が米騒動と呼ばれるものです。
米騒動の原因は、米が不作だったことや、お米を食べたいと思う人達が増えてきたことなどの様々な原因があるのですが、直接的な原因は1918(大正7)年8月のシベリア出兵です。シベリア出兵に伴う需要増を見込んで米商人達が一般庶民に米を売り渋るという事態になってしまいました。そりゃ、米商人としても、庶民よりもお金をたくさんもっている国をお客さんにしたいと思うでしょう。
しかし、これがまずかったのです。この年の7月、富山の漁村の主婦達が米価の高騰を阻止しようと運動を始めたのをきっかけに同年8月から9月にかけて全国的に米騒動が発生しました。
第二次大隈重信内閣に代わって、新たに誕生した寺内正毅内閣は軍隊を派遣してこの騒動を鎮圧にかかりました。騒動は1カ月あまりで収まりましたが、武力によって民衆の声を抑えつける寺内内閣は世論から激しい非難を受け、同年9月に退陣しました。
翌1919(大正8)年、寺内に代わって原敬が総理大臣に就任します。この原内閣が誕生した直後の同年11月、第一次世界大戦が終結しました。
それに伴い、全国の投資家達は以下のような予想をしました。
「大戦が終了したことでヨーロッパからの武器や弾薬などの軍需品が途絶えるだろう。」
「ヨーロッパ系企業が再び東アジアの市場に参入してくるだろう。」
この投資家達の予想は見事的中、製糸業をはじめとする日本の輸出産業はたちまち価格の低落に悩むようになりました。当時の日本の製品は、ヨーロッパの製品に比べて粗悪なもので国際的な競争力がなかったのです。
こうした経済界の停滞は同年年11月から翌1919年春までのおよそ半年間に及びました。
しかし、1919(大正8)年の春頃から日本経済は再び好況になりました。ヨーロッパの復興需要が増大したのです。世界貿易は再び活気つき、
そして1919年も後半になってくると、大戦中の大幅な輸出超過からにわかに輸入超過の傾向が強くなり始めます。その原因も、先述の通り、ヨーロッパの戦後復興が完了したことによる需要減。そして日本が大戦中に輸入不可能であったヨーロッパ製の金属や機械類、化学製品その他の製品がようやく流入してくるようになったからです。
戦後恐慌の足跡が忍び寄ります。
そして翌1920(大正9)年になると、生糸や綿糸の物価が徐々に下がり始めます。それでも日本の資本家達はかなり強気な姿勢で株式市場への投機を続けました。物価がすぐに戻るだろうと考えたのでしょう。
しかし、そんな見通しの甘さが大損を招く時が来てしまいました。
1920(大正9)年3月15日、突然、株式市場が大暴落してしまいました。綿糸や生糸をはじめ株価が一斉に暴落しました。戦後恐慌の始まりです。
例えば綿糸相場は3月の628円から10月には250円に、生糸は1月の3958円から8月には1195円に、米は3月の52円から12月の23円にまで急落しました。
大戦景気は一気に消滅し、それまで投機に走っていた企業は大損を出してしまいました。
日本は大戦ブームから一転して戦後恐慌へと急転換していったのです。
この大恐慌の結果、経済界の様相は一変しました。大戦中に大胆な取引を行い、巨利をおさめた企業は、戦後も強気な投機を持続したものだから恐慌によって損害をもらったのです。
この結果、比較的堅実な経営方針をとっていた企業と強気一点張りだった企業との間の格差が拡大しました。四大財閥(三井、三菱、住友、安田)が経済界に覇を唱えるようになったのは、大戦中においても投機を戒め、比較的健全な経営を持続していたのです。経営の困難を生じないですんだからである。
反対に、先程の久原房之助の主宰する久原鉱業、久原商事等は、投機の失敗によってほとんど立ち直れないほど打撃を受けました。
鈴木商店も大量の在庫品の価格暴落のために大きな損失を受けました。しかし、同社はなお砂糖の輸出などによって、このときは損失をある程度に食い止めることが出来ました。
輸出産業が大打撃を受けたことで、海軍業に手を出していた多くの企業はいずれも大きな打撃を受けることとなったのです。
しかし、この恐慌の影響は、あくまで海外と取引をしている大手企業が被ったことです。恐慌と聞けば、国内の経済は完全に不景気一色のイメージがありますが、この当時の日本経済を不況一色としてとらえるのは少し違和感があります。
というのも、原内閣は積極政策と呼ばれる鉄道敷設などの公共投資によって不況の底を支える効果を上げたからです。
また、原内閣は立ち遅れていた賃金、給料の引き上げも行われました。その結果、1918年まではかろうじて物価に見合う程度のものだった賃金が1919年以降は賃金は物価を上回るようになりました。こうして品不足に伴うインフレーションをカバーすることが出来ました。
つまり、戦後恐慌の影響を受けたのは、海外に輸出などを行う企業であり、国内には必ずしも不況一色だけだったというわけではないのです。
そんな原内閣は1921(大正10)年に首相の原敬が暗殺されたことで終わります。原の死後は、政友会総裁を引き受けた高橋是清が組閣します。しかし、政党内で派閥争いなどがあり、まとめるのに不安を覚えたのか、高橋は自ら総辞職しました。高橋の次は海軍の中心人物である加藤友三郎が総理となります。
日本はこの大戦景気のあと、およそ10年以上ものあいだ、長期的な不況を経験することになります。恐慌が繰り返し訪れたのです。
この3年後の1923(大正12)年、戦後恐慌に輪をかけるように災害が起きてしまいました。9月1日に発生した関東大震災です。これによって東京市と横浜市の大半が被災し、同地域の工業地帯は大きな損害を受けることになりました。これは日本を戦後恐慌からの回復を遅らせることになりました。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
昭和史 上 中村隆英=著 登用経済新報社
明治大正史 下 中村隆英=著 東京大学出版会
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
もういちど読む山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社
日本史 論述問題集 宇津木大平 他=著 産経新聞社
【姉川の戦い】なぜ浅井長政は信長を裏切ったのか。【織田信長】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【姉川の戦い】なぜ浅井長政は信長を裏切ったのか。【織田信長】」というお話です。
激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張の織田信長でした。
さぁ、今回も織田信長の統一事業についてご紹介していきたいと思います。1567年に美濃の斎藤氏を制圧した頃、信長は「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。そんな信長は室町幕府を再興してほしいと頼ってきた足利義昭を1568年に京に入れ、15代将軍に就任させました。義昭はその恩礼として信長に副将軍への誘いを受けました。しかし、信長はこれを断り、代わりに大阪を中心に経済を掌握する権限を義昭からもらいました。
信長は自分の名前で「関所の撤廃」や「楽市楽座」を命令することで、人々に信長って「偉いんだな。」と気付かせようとしたのです。信長のこれらの政策は経済を活性化させ、信長の財政は豊かになりました。これによって銭で雇う軍隊も急増しました。
このように義昭を将軍に祭り上げた信長は、その権限を利用して、自分の名前を全国に知らしめ、どんどん権威を徐々に高めていったのです。
1569年、信長は宿敵・朝倉氏討伐のために越前に攻め入りました。しかし、信長は同盟を結んでいたはずの北近江の名門・浅井氏の謀反を受けます。若大将・浅井長政は朝倉討伐を知らせなかった信長の無礼で軽率な行為と、足利義昭からの打倒信長計画を誘う手紙を受けて信長に宣戦布告したのです。こうして1970年、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉同盟軍と激突するのでした・・・。
さらに信長は大胆な事をします。信長は全国の緒大名に京に集まるように「召集命令」を出しました。建前は室町幕府再興を祝する式典。しかし、本音のところは全国の諸大名に主人は信長であることを分からせるための大号令でした。
すなわち、「世の中を動かしているのは将軍ではなく、この信長だ。だから今後、諸大名はこの信長に従うように。」ということです。
しかし、義昭もバカではありません。義昭も信長の本心に気付き始めました。このままでは自分は利用されるだけ利用されて捨てられると危機感を覚えた義昭は室町将軍という身分を利用して信長排斥を画策します。
義昭は武田信玄などの地方の有力大名に手紙を出しました。そこには、
「わしは今、信長というやつに抑えられている。信長は兵力、権力、そして経済力などあらゆる支配しようとしている。今後、やつに従ったところで厳しい要求を突き付けられ、領地や人民を奪われるのは明白だ。ここは諸大名一致団結して信長に攻め入ってもらいたい。」
という内容が書かれていました。
古くからの秩序をぶち壊し、全く新しい時代を築こうとする信長の存在は、義昭含め全国の諸大名には脅威に映っていました。
そんな中、信長の出した「招集命令」を無視した大名がいました。それは越前の朝倉氏です。領主は朝倉義景という人物で、越前の名主です。
「我が家は古くから続く名門。信長など尾張の一大名に過ぎないだろう。そんな成り上がり者の命令をなぜきかなければいけないのか。」
しかし、これは信長が「将軍の命令」に背いたということで朝倉氏を討伐する口実を与える結果となりました。こうして信長は朝倉征伐を決めます。
そんな折、信長はある家臣から提案を受けます。
「同盟を結んでいる北近江の浅井氏にも援軍を要請したらいかがでしょう。」
浅井氏とは北近江(滋賀県北部)を治める戦国大名で領主は浅井長政でした。信長は自分の妹で絶世の美女と称されたお市を若大将の浅井長政に嫁がせるといういわゆる政略結婚によって浅井氏と同盟を結んでいました。
しかし、信長の返答はこうでした。
「余と浅井氏は親類同士だ。別に知らせる必要もないだろう。」
信長としては長政を信頼し切っていたのでしょう。政略結婚ではありましたが、お市と長政との夫婦生活は円満で、子供も次々に生まれていました。これほど深い絆をむげに切り離す必要もない。
それに安易に討伐情報を漏らすと、どこから朝倉氏に情報が届くか分からない。戦国時代のような下剋上の時代には野心を持つ物が多く、情報を相手方に知らせることで褒美を得ようとする連中がはびこっていたため、作戦は基本、隠密にすることが常なのです。
果たして翌1569年、信長は3万の軍隊を結集して朝倉討伐のために越前に向かいました。この時の信長軍には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や明智光秀がおり、そして信長と同盟を結んでいた徳川家康の軍勢も加勢して戦いました。
そんな折、信長は信じられない知らせを受けます。
「殿、浅井勢の寝返りでござます。」
絶対の味方と信じていた妹婿(いもうとむこ)の浅井長政が、朝倉の同盟軍として信長討伐に加勢してきたのです。
「うそであろう。」
愕然とする信長。しかし、その後も部下から次々に浅井勢の謀反の知らせが届きます。
信長は絶対絶命のピンチに立たされました。
信長はしばらく考えてからこう言いました。
「全軍、撤退せよ。」
信長はそう言い残し、全軍を置き去りにし、ごく少数の部下だけに守られて一気に京まで逃げていきました。
「我が天下平定は始まったばかり。総大将であるワシがここで死ぬわけにはいかない。」
信長の軍隊は大半が「銭で雇う兵」という流れ者の寄せ集め集団なので、自分さえ生きていればすぐまた再建できます。そして態勢を立て直し、復讐を果たしてみせると考えたのです。
一方、残された信長軍は全力で戦います。
信長の死後、天下をめぐって争うことになるこの木下藤吉郎、明智光秀、徳川家康の3人もこの時ばかりは一致団結して軍隊を指揮。何とか浅井・朝倉同盟軍から逃げ切ることに成功したのでした。
なぜ、長政は信長を裏切ったのでしょうか。信長の朝倉攻めは、浅井家には一切知らされていませんでした。信長は浅井を信頼しきっていたのです。というより、
「信長はなぜ、朝倉討伐のことを我々に知らせなかったのだ。我らと朝倉氏は古くから隣国のよしみで同盟関係を結んでいる。これは単なる礼儀知らずでは済まされないぞ。」
信長は長政を信頼しきっていたというよりも、見くびっていたのです。
長政が信長を裏切った理由はこれだけではありません。実は長政も義昭からの「信長打倒を依頼する」内容の手紙を受け取っていたのです。
「このまま信長に従っても良いことはない。やつは一体、この世をどう変革するつもりなのだ。」
そして長政は決起しました。
「信長は危険人物だ。朝倉氏とともに討伐する。」
長政の裏切りは、信長の浅井氏に対する手抜かりと過激な思想によって起きてしまったのです。
一方、京に戻った信長はすぐに本拠である岐阜城に戻り、すぐに浅井・朝倉同盟軍打倒のために軍事会議を開きました。
果たして翌1570年、信長は3万の軍を揃えて近江に布陣。応援の徳川軍5000とともに浅井・朝倉同盟軍と対峙ました。この当時の徳川軍の最大動員は8000です。そのうちの5000を動員させているので、家康にとってはもはや大博打のようなものです。家康もわかっていたのでしょう。今回の戦いが信長の天下統一において非常に重要な戦争であることを。
ここに織田・徳川連合軍と浅井・朝倉同盟軍による姉川の戦いが勃発しました。
しかし、信長軍の「銭で雇う兵」は弱かった。3万人の兵を擁しながら、8000人にみたない浅井勢に押しまくられ、織田十三段構えの九段目まで破られてしました。
それでも、最後に勝てたのは、数の多さ、そして5000人で1万あまりの朝倉勢を破り去った徳川軍のおかげでした。
桶狭間の戦いでは少数の奇襲攻撃で、美濃の斎藤氏との戦いでは「銭で雇う兵」を活用した戦術で、そして今回の姉川の戦いでは「数の戦い」をしました。
信長は、一度の成功に溺れることなく対戦相手や戦況によって違った戦術で戦いに臨んだのです。これこそ、信長が天下統一を目指せた最大の要因と言えるでしょう。
辛くも戦いから逃れた浅井長政と朝倉義景は比叡山延暦寺にかくまわれました。中立の立場でなくてはならない宗教権威である比叡山延暦寺が浅井・朝倉に味方したのです。
比叡山も信長の存在を脅威と感じていたのです。
これに怒り狂った信長は翌1571年、比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまいました。
そして1574年、小谷城に立て籠もった長政は信長軍に包囲されました。この軍の総大将は信長の重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)でした。
追いつめられた長政は自害を決意します。
「私も一緒に逝きます。」
すがるお市を夫・長政は諭します。
「お市、そなたは生きて、ワシの菩薩を弔ってくれ。子供達を頼む。」
お市とその子供達は夫と別れを告げ、城から出て行きました。
そして長政は燃え行く小谷城の中で自害しました。
小谷城から出て来たお市とその子供達は、秀吉軍に保護されました。
お市は秀吉に冷たい視線を送りました。
「お市の方から恨みを買ってしまった。」
秀吉は心を痛めました。
「信長様もさぞ、複雑な心境なことでしょう。」
しかし、その信長は違いました。
「今日はなぁ、珍しい肴があるぞ。」
と言いながらとりだしたのは、朝倉義景・浅井長政・長政親子の3人の髑髏(どくろ)で、しかもそれらは漆で塗り固められた上に金箔がはられている異様なゲテ物でした。
信長は妹婿(いもうとむこ)であるはずの長政の死を心痛むどころか悪魔の工芸品として見せしめに使ったのです。
「ワシに逆らう者は、皆こうなるのだ。」
といわんばかりに並べれた髑髏(どくろ)・・・。これを肴に酒を呑めという信長の異常性をその場にいた家臣達はどう感じたのでしょうか。
思わず、襟元に冷気を感じた武将達も多かったことでしょう。
こうして信長は宿敵・朝倉氏と忌々しい裏切り者の浅井氏を滅ぼしたのでした。
しかし、信長の危機は去ったわけではありません。新体制を敷こうとすると必ず、旧体制でその恩恵を享受している者達から反発に遭います。今後、信長はこうした旧体制との死闘に明け暮れるのでした。
信長の活躍はまだまだ続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法 高野冬彦=著 五月書房
【太閤記】豊臣秀吉はなぜ農民から天下人になれたのか
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【太閤記】豊臣秀吉はなぜ農民から天下人になれたのか」というお話です。
今回は、豊臣秀吉を主人公にストーリーを展開していきたいと思います。
皆さんは、豊臣秀吉といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」と比喩されているように、「不可能なことを可能にしてしまう人」というようなイメージがあるのではないでしょうか。皆さんもよくご存じのように、彼は農民の子に生まれがらにして1代で天下人にまで駆け上がったいわば、日本で一番出世した人です。
まさにその通りで、現代で喩えるなら、ある店舗にアルバイトとして入って、雑用をやりながら徐々に仕事を任せてもらえるようになって、実績を積み上げていき、正社員に昇格しました。さらに能力を認められ、1店舗を任せられる店長になりました。店長になってからも、店の成績が非情に良かったので、今度は、東京本社に栄転し、そこでも実績を上げたので、役員にまで昇格しました。
しかし、ある時、他の役員の裏切りによって社長(信長)が死んでしまう事件が発生。秀吉は裏切った役員を追放し、自らが社長となって、会社をどんどん大きくしていき、最終的に全国展開した業界№1の会社に成長させたという話になります。
そんな豊臣秀吉は一体どのようにして天下人になったのでしょうか。今回は秀吉の統一事業の第1回目ということで、秀吉の生い立ちから信長に仕えて、メキメキと頭角を現し始めたところまでを見ていきたいと思います。
当時は身分や家柄が大変重視された封建社会。農民から流れ者になった秀吉は織田信長という大名に仕えるようになりました。信長は身分や家柄に関わらず能力ある者を登用する新しいタイプの大名でした。秀吉はそんな信長様を喜ばせるために今、この瞬間出来ることを全力でやりました。その積み重ねが結果的に秀吉を天下人にまでのし上げました。秀吉の人生は信長によって開かれ、信長に気に入られたことで天下人へと出世することが出来たのです。
秀吉(当時の名は藤吉郎)は尾張の農民の子として生まれます。10歳の頃、実父を失い、生活に困窮した母親は再婚するものの、再婚相手の父と秀吉は馬が合わず、ことあるごとに喧嘩していました。
「お前は全く可愛くない」
すると秀吉も言いました。
「おれもお前みたいなダメオヤジは大嫌いだ。」
と歯をむき出しにして告げました。
ある日、見かねた母親は秀吉を呼んでこう言いました。
「藤吉郎、おまえがうちにいると、ゴタゴタ続きで家庭内に波風が起きる。お願いだから出て行っておくれ。これはお前の父が残した金だよ。」
といって、母親は相応の遺産を渡しました。秀吉はこれをもって、家を出ることにしました。
秀吉は旅立つ際、母にこう言い残しました。
「かあちゃん、待ってておくれ。武士として必ず立身出世して、かあちゃんを迎えに上がるからね。それまで我慢しておくれ。」
強引に家を追い出されるにも関わらず、秀吉は母親を他の誰よりも大事に思っていました。そしてこの約束は後に実現します。秀吉の母は大政所として、大名たちの尊敬の念を一身に集めるようになるのです。
尾張を出た秀吉は、最初に向かったのは、三河(愛知県岡崎市周辺)や遠江(静岡県西部)を放浪し、職を転々としていました。ここは当時、今川義元が治める領地でした。
そして紆余曲折を経て、今川家の一武将で、浜松に住む松下嘉平衛の元で小納戸役(雑用係)として働き始めました。松下は当初、流れ者である秀吉を全く期待していませんでした。
秀吉と言えば気前が良く、お金をザブザブ使うようなイメージですが、意外にも「財政」や「経済感覚」に鋭く、仕事においてその会計能力を発揮しました。
松下は驚いて秀吉を見直し、専属の会計係として採用しました。
しかし、この秀吉の優遇を面白く思わない先輩達から秀吉は、根も葉もない猜疑をかけられてしまいました。
「新参の藤吉郎は、松下家の金を横領している。」
この噂は松下の耳にも入りました。そしてこう言いました。
「いかに能力あれど、しょせんは身元も知れぬ流れ者だな。」
松下もまた姑息な人間であり、秀吉をクビにすることにしました。
「退職金をはずむから出て行っておくれ。」
秀吉はあっさりと解雇されてしまいました。
秀吉は松下家を去るとき、松下に言いました。
「主人は部下を評価します。雇うに値するかどうかを。しかし、部下も主人を評価します。仕えるに値するかどうかを。」
事実を確かめもしないで、身分だけで人を判断し、自分を会計係から追放するような姑息な主人なんて、こっちから願い下げだと秀吉も判断したのです。
この時の秀吉の言葉が非常に印象的です。
これは当時の時代情勢を的確に表している言葉ではないでしょうか。
そうです、下剋上です。当時は下剋上の風潮が激しく、下の身分の者が上の身分の者に実力で打ち勝つような時代になっていたのです。
「どこか流れ者である自分を正当に評価してくれる人はいないのだろうか」
身分の壁が邪魔していたことに、秀吉はやるせない気持ちだったことでしょう。
やむを得ず秀吉は浜松を去り、尾張に戻ることにしました。
現在のハローワークのような所で、仕事を紹介してもらい、秀吉は当時、尾張で勢力を拡大しつつあった「大名」の元で働くようになりました。
その大名こそ織田信長だったのです。秀吉は信長の雑用係として働くようになりました。
信長は家柄や身分にこだわらず、能力ある者をどんどん活用していく新しいタイプの大名であり、流れ者である秀吉を何の躊躇もなく雇い入れました。信長と秀吉が運命的な出会いを果たした瞬間です。
秀吉は初めて自分の能力を遺憾なく発揮させてくれる主人を見つけたのです。
秀吉はこの時18歳。当時としては決して早いスタートではありませんでした。そればかりか、金も人脈もない本当にゼロからのスタートで、口の悪い信長様からは、親しみと軽蔑をこめて「サル」というあだ名までつけられてしまいました。
しかし、秀吉はそんな屈辱はもろともしません。
「おい!サル!サル!どこだ!」
「はいはい。サル、只今参上いたしました。」
屈辱をさらりと受け流し、陽気に出てくる。そればかりか、逆に相手をいなすくらいの器量を持っている。それが秀吉という人物なのです。
また、信長と家臣団が軍議を開き、重苦しい空気の中、
「やぁ、こんにちは。」
と、何も知らない秀吉が陽気に入ってくる。その場の雰囲気は一気に緩み、これにはさすがの信長様も吹き出してしまったというエピソードもあるようです。
そんな秀吉が信長に気に入られるきっかけとなった有名なエピソードがあります。皆さんもよくご存じの信長の草履を秀吉は腹の中で温めていたというエピソードです。信長から「でかしたぞ!サル!」と褒められているシーンはドラマでもよく見かけます。
「信長様のために今、この瞬間、全力を尽くす。どうすれば信長様は喜んでくれるだろうか。」
常に秀吉はそう考えていました。だからこそ、草履を温めるという誰もやらないような気のきいたことが思いつくのです。
この頑張りが実り、秀吉は足軽に昇格します。足軽とは武士の最下層の身分ですが、20歳を過ぎてようやく武士としてスタートラインに立てたのです。足軽としての秀吉は全力で戦いに臨みました。そして25歳になる頃には足軽頭になり、数人の部下も出来、軍事指導や情報活動までやるようになります。ようやく秀吉は信長家の正社員に昇格したのです。
その後も、秀吉は出世街道を駆け上がっていきます。
1561年から信長は美濃の斎藤氏を攻略するために「拠点」となる墨俣城の築城を家臣達に命じてしました。
当時、「城」というのは、言ってみれば「拠点」であり、そこに兵や馬、食料を蓄えておき、そこから侵攻するという領土を拡大する上で、極めて重要な役割を果たすものだったのです。
しかし、佐久間盛重、柴田勝家などの織田家生え抜きの有力家臣は次々に失敗しました。そして1566年、信長は遂に足軽頭である秀吉に墨俣城の築城を命じました。
本来であれば足軽頭ではこんな大役は与えられません、秀吉はまたとない大出世のチャンスを与えられたのです。早速、秀吉は200~300人の兵を信長様から借り、築城に取り掛かりました。
ここでも秀吉は考えます。
「信長様を喜ばせるにはより頑丈な城をより早く造ることだ。」
秀吉の作戦は建築工法を簡略化し、全ての部材規格を統一し、事前に設計加工したカタチでイカダに乗せ、上流から流し、陸揚げし、一挙に組み立てるというもので、現在でいうプレハブ工法によって完成までのスピードアップを図ろうというものでした。
アイディアは秀吉によるものですが、資材の調達、運搬、加工、組み立て、人員の移動や敵襲に対す応戦などは、すべて地元の盗賊集団でした。
「お願いできますかねぇ。皆さん。」
「部材をあらかじめ加工してイカダで流すだと?フンッ。面白そうじゃないか。俺たちに任せな。」
彼らは地元の水利や地理に詳しい熟練の職人や兵士達で秀吉の独創的なアイディアを快く引き受けてくれました。
築城の間も秀吉は職人達を励まし、面倒を非常によくみていました。当時は戦闘や作業で負傷したり病気なったりしても殿様は面倒をみませんでした。しかし、秀吉は彼らにケガの手当てや、薬を工面したりしています。
このような秀吉の気遣いは職人達のやる気を引き起こし、チームワークを最大限にまで引き出しました。
その甲斐あって、作戦は見事成功し、墨俣城は「墨俣一夜城」として出現しました。
これに信長様は狂喜しました。
「これで美濃は我が手中に入ったも同然。よくやったぞサル!」
早速、秀吉は墨俣城の城主に任命され、美濃の斎藤氏を打倒するべく戦いに臨みます。現代でいうところ、親会社の信長社長より地方の子会社の社長に任命されたのです。それに伴い、秀吉自身も、イチ個人事業主から中小企業へ組織変化を求められました。ある一定の組織を作るにあたって必要なのは、参謀格となるナンバー2の存在です。
「サル、お前には竹中半兵衛という者を配下に入れてやる。迎え入れよ。」
「ハハッ。ありがたく存じます。」
竹中半兵衛は、斎藤家に仕える美濃の豪族の一人でしたが、当主の斎藤龍興(道三の孫)に不満を覚え、信長の誘いで織田家に仕えることにした人物です。
信長社長は、秀吉という抜擢社員に子会社を任せるにあたって、銀行から引き抜いた一流大学卒の経理マンを付けてやったのです。
そして、秀吉は斎藤攻めに乗り出し、見事稲葉山城を攻略することが出来ました。
これで信長様がモヤモヤしていてカタチを成さなかった野望が鮮明になってきました。信長は美濃の地を「岐阜」と改め、改修した稲葉山城を「岐阜城」として構えました。
秀吉の出世物語は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「太閤記」の人間学 豊臣秀吉 湯本陽、童門冬二ほか=著 プレジデント社
「秀吉」をたっぷり楽しむ法 高野冬彦=著 五月書房
【信長上洛】織田信長はなぜ足利義昭を15代将軍に就任させたのか【織田信長】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【信長上洛】織田信長はなぜ足利義昭を15代将軍に就任させたのか【織田信長】」というお話です。
激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張の織田信長でした。
さぁ、前回に引き続き、今回も織田信長の統一事業についてご紹介していきたいと思います。1560年、上京を企てて進撃してきた駿河の今川義元の大軍を尾張の桶狭間で破り、1567年には美濃の斎藤氏を討ち、美濃を岐阜と改め、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。
信長が室町幕府を再建して欲しいと頼ってきた足利義昭を1568年、京に入れ、15代将軍に就任させました。それは信長の作戦であり、室町幕府から経済を活性化する権限を奪いとるためでした。こうして信長は楽市楽座という自由な経済政策を始めました。
目標が天下統一になったことで、信長には合戦以外にも大きな仕事が発生しました。
それは権力の獲得です。駿河の今川や、美濃の斎藤を打ち破り、徐々に実力をつけてきた信長ですが、に欠けていたものは権力でした。
時の天下人に近づき、権力を奪い取ることです。時の天下人とは室町幕府のことですが、信長はいかにして幕府に近づくかを考えていました。
この頃の室町幕府の権威は最低ランクにまで落ち込んでおり、組織としては成立していても、事実上機能していない有名無実の存在へとなっていました。足利将軍家の血を受け継ぐ足利義昭も、各地を放浪し、ただただ文化に励むだけの遊び人となっていました。
これに頭を抱えていたのが、室町幕府の役人である明智光秀でした。
光秀は何とか室町幕府を再建させるために親衛隊としての兵を都に常駐させてくれる大名を探していました。
光秀は越後の上杉謙信や越前の朝倉義景にその話を持ちかけました。
義昭自身は身分が高いので、上杉からも朝倉からも一応歓待はしてもらえます。越前の朝倉のところに行ったときなど、御殿を建ててくれたり、女をあてがってくれたり、朝夕、酒を飲ませてくれたりと大変な歓待を受けています。
ところが、いざ兵を出して京で将軍家を再興してくれというと、してくれない。
これに義昭と光秀は不満を持っていました。
しかし、上杉にも朝倉にも、たとえしたくても出来ない事情がありました。
彼らは兵農一致であり、京に兵を派遣出来たとしても1年を通して常駐させることは出来ません。農繁期になれば必ず郷土に戻し、農作業に専念させなければなりません。さもないと、農民の生活はおろか、自分達の年貢米までおろそかになってしまいます。それだけでなく、大軍を京都に置いてしまったら、本国が侵攻されてしまう危険もあります。なので、彼らはしたくても出来なかったのです。
しかし、信長は違いました。信長の兵は兵農分離がされた軍隊なので、1年を通して常駐が可能です。
こんな常識破りの信長の存在を知った光秀は、早速、義昭と信長を会わせるよう間を取り持ちました。光秀は、わらわもすがる気持ちでした。
一方の信長も、天下人に近づく絶好のチャンスが出来ました。まさに「飛んで火にいる夏の虫」です。
義昭は当初、名門でも何でもないただの成り上がり者の信長に対し、半信半疑でした。どうせコイツも他の大名と同じだろうと考えました。
義昭は岐阜城で信長に会った時、こう言いました。
「お前は、俺のために何をしてくれるんだ。御殿でも建ててくれるのか。それとも酒でも飲ませてくれるのか。ああん?」
信長は答えます。
「私はあなたのために御殿など建てません。」
義昭は驚いて言いました。
「何だと?この無礼者が。」
「いえ、とんでもない。美濃で御殿を建てても仕方ないでしょう。私なら京に将軍御所を建てて差し上げますよ。」
さらに信長は続けます。
「それに、私の軍であれば、年中京に常駐させることが出来ます。将軍の護衛はお任せください。」
義昭は終始、半信半疑でしたが、光秀の説得で信長に頼ることを決めました。
こうして信長は「室町幕府の再興」という大義のもと、京に入ることが許されました。しかし、問題は京に向かうそのルート(道途)でした。
ここで、当時の信長の勢力図を確認しておきましょう。信長は1560年、駿河の今川義元を打ち破り、人質だった徳川家康を解放し、家康と同盟を結びました。そして家康が遠江を得たことで、信長には砦が出来、甲斐の武田信玄からの侵略を直接受けることはなくなりました。つまり当面の間、東側の憂いはなくなったのです。
南側は海だし、北側については美濃の斎藤氏を制圧したことで、もう自分の国となったので安泰です。
残るは西側です。上洛するにはどうしても西側の近江(おうみ)を通らなければなりませんでした。
近江は浅井長政という戦国大名が治める領地です。上洛のためには、この近江の浅井を叩き潰す必要がありますが、この時点での信長には長政を叩き潰す兵力はありません。それに、もし大軍を率いて上洛すれば、浅井氏から宣戦布告と勘違いされ、そのまま戦闘に入ってしまう危険もあります。
どうにかして浅井長政と同盟を結ばなくてはなりません。
そこで、信長は自分の妹で絶世の美女と称されていたお市を長政に嫁に出すことで同盟を結びました。政略結婚ではありましたが、お市は長政を愛しました。長政もお市を愛するようになりました。
こうして上洛のルートが出来たことで、1568年、信長は満を持して京の都に大軍を率いて上洛しました。
信長は約束通り、京に将軍御所として二条城を建て、義昭の住まいとしました。織田軍も京に常駐するようになり、室町幕府の権威は一気に復活しました。そして、信長の奔走によって、天皇より義昭は室町幕府第15代将軍に任命されました。
これに義昭は大喜びしました。
そして義昭は信長に恩礼を示しました。
「信長殿、君のおかげで我が幕府は再興出来た。君には本当に感謝している。もし良けれれば、我が幕府の副将軍にならないか。」
信長は答えました。
「せっかくですが、お断りします。私など、副将軍の器ではありませんので。その代わり、堺や大津、草津などの経済の拠点を掌握する権限を頂きたいと存じます。」
義昭はまたしても驚きました。
「何だと?一体何をするつもりだ。」
「権威だけでは世を支配出来ません。経済を活性化させ、民衆からの支持も得る必要があります。私なら現在停滞している経済の息を吹き返すことが出来ます。どうかご検討の方を。」
この信長の提案に義昭はまたしても喜びました。
「お前はなんて謙虚なやつなんじゃ。よろしく頼む。期待しておるぞ。」
信長はなぜ義昭の副将軍への誘いを断ったのでしょうか。
信長はあくまで最高権力者になることを目指していました。
会社にたとえるとわかりやすいですが、現在の義昭社長を会社の看板として立てておき、自分に力がついたら、新しい会社を作って義昭社長の会社を潰してしまおうと考えたのです。なので、下手に義昭社長の会社の副将軍になるわけにはいきません。そんなことをしたら、自分は「足利義昭の下」という位置づけになってしまい、天下統一を目指す信長にとって大きな障害となってしまいます。
さぁ、経済を掌握する権限を得た信長が最初に行ったのは、各地の関所や商人達の同業組合である「座」の廃止でした。
それまで物資の流通に携わる商人達は皆、同業組合を作りました。その目的は物資の流通を調整して価格の値下がりや供給過剰を防止すること。また。集団の力で盗難を防止し、災害などによる損失を分散する働きもありました。
しかし、室町時代も後半になると、商人達の権益ばかりが重要視され、同業組合は組合員以外の新規参入は許されない閉鎖的な組織へと発展してしまいました。
その組合は「座」と呼ばれ、公家や有力寺社のお墨付きを得て商売を独占する代わりに公家や寺社に一定のお金を納めました。
信長はこんな閉鎖的な商業形態を打ち破ります。「座」に関係なく自由に商売をしても良いという「楽市楽座」の制度を始めたのです。これは当時の感覚で言えば、土地の所有者や耕作者がいるにも関わらず、誰でもどこでも耕して良いということに等しいので、かなり乱暴な制度にみえたことでしょう。
しかし、新規参入出来ずにそれまでひっそりと商売をしていた潜りの行商人達は堂々と商売が出来るようになり、経済 豊かな生活を享受することが出来るようになっていきました。その結果、商品流通がさかんになっただけでなく、商品生産も発展していき、農民や商人達の生活は豊かなになっていきました。
信長は庶民からの人気を集めるようになります。
重要だったのは、この「楽市楽座令」が信長の名前で出されたということです。信長は自分の名前で命令を出すことで、人々に「信長って偉いんだな」と気付かせようとしたのです。
庶民の間にも信長の存在が知れ渡るようになりました。
「おい聞いたか。幕府の要人に信長っていう大天才がいることを。俺達がこうして商売して儲けられるようになったのは彼のおかげさ。」
「それ、おらも聞いたことある。豊かで平和な時代が来るのはそう遠くなさそうじゃな。」
信長の庶民人気はこうした自由経済政策によるものだったのです。
信長が楽市楽座を始めた理由は他にもあります。信長の軍隊は、流れ者を寄せ集めた「銭で雇う兵」でした。兵士を「銭」で雇うには、肝心の「銭」が大量に必要です。そのためには経済を活性化させ、商人達から銭を大量に徴収する必要があったのです。
こうして、庶民から人気を集め、銭も大量に徴収出来るようになった信長ですが、その半面、公家や寺社勢力からの反発を受けるようになりました。「座」の特権を廃止したことで、寺社等の収入は減少してしまったため、全ての寺社、つまり宗教勢力から大反発を招くことになりました。これが後に11年にも及ぶ石山戦争につながるのです。
新体制を敷いた信長は今後、旧勢力との死闘を繰り広げることになるのでした・・・。
信長の活躍は続きます。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
【桶狭間の戦い】なぜ織田信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【桶狭間の戦い】なぜ織田信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】」というお話です。
皆さんは、織田信長といえばどういったイメージをお持ちでしょうか。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と比喩されているように、短気で残虐なイメージがあるのではないでしょうか。
しかし、織田信長という人物は新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、理想国家の実現にむけて万難を排して邁進するカリスマ的リーダーだったのです。
応仁の乱をきっかけに時代は「戦国の世」へと突入しました。各地では実力で成り上がった戦国大名が群雄割拠し、領土拡大のために互いに争いを始めました。
しかし、室町幕府はそれを抑える力もなく、無名無実の状態となっていました。その結果、庶民は飢饉に苦しみ、各地では一揆が多発、盗難や火付けなどの治安も悪化していました。
そんな時代情勢の中、庶民は願います。
「豊かで平和な時代を創ってくれる新しいリーダーが欲しい」と・・・・・。
戦国時代という非常に不安定な時代に人々は安定した平和な時代を求めていたのです。そんな時、どうして必要になるのが、みんなを牽引していくリーダーの存在です。信長はそんな時代が求めたカリスマ的リーダーだったのです。
尾張の戦国大名、織田信長は1560年、駿河・遠江・三河を支配していた今川義元の侵攻を桶狭間で奇襲攻撃によって破りました。しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつかず、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え、戦いに勝利したからなのです。
1560年、27歳の織田信長は生涯最大ともいえる窮地に立たされました。
信長は尾張領国にさえ、まだ敵対勢力が残っているというのに、東の最大勢力である今川義元の侵攻を受けたのです。今川氏は、駿河・遠江・三河の3ケ国を支配下におく大大名で、義元はその勢力を西へと拡大させようと尾張の織田領に侵攻し始めたのです。
今川義元は1519年の生まれ。室町幕府から駿河の守護大名に任命されており、遠江の守護も任されていました。その上、三河も支配下に置き、統治領域の総石高は100万石にもおよび、名門意識も強い大大名でした。
そんな義元は、下剋上の世を憂い、自らの力で足利将軍家を助けるという大義名分のもと、京に今川の旗を立てようと野望を抱いてしました。
義元は信長の父・信秀とも戦っており、尾張東部も支配下に収めていましたが、これまで尾張中央部への侵攻は出来ませんでした。それは、国境を接する東の北条氏、北の武田氏と敵対関係にあったからです。しかし、武田、北条と友好関係を築き、1560年、満を持して尾張侵攻に乗り出したのです。
そんな信長の尾張の国は、江戸時代では60万石でした。しかし、当時、信長はまだ尾張全域を支配しきれていないため、石高は30万石程度でした。
5月17日、駿河を出発した今川義元率いる2万5千の大軍勢は三河の国境を越えて、信長領に侵攻してきました。
迎え撃つ信長は尾張の大半を領有していたとはいえ、動員出来る兵力は5000人程度。直接やり合っても、勝ち目がないことは誰の目にも明白でした。
こうした状況下で、信長方の家来達は次々に今川方に寝返りました。
その結果、尾張領内の大高(おおだか)城、鳴海城、沓掛(くつかけ)城などが、あっさり義元の手中に入ってしまいました。信長は義元にクサビを打ち込まれてしまったのです。
5月18日、義元は沓掛城に入り、そこで軍議を開き、尾張攻略の方法を考えました。
まず、2千3百の兵で織田方の丸根砦、鷲津砦を攻め、陥落させる。19日には、善照寺砦を落として、鳴海城に入る。鳴海城に入れば、信長の居城清州城までは4キロメートル程しかない。
そうなれば、今川勢の勝利は確定します。
戦国時代は江戸時代とは違い、1国の中に幾つもの城がありました。大名(当主)の住む城、家老を守る城、そしてその家老の家来が守る城があり、それを「砦(とりで)」と呼んでいました。
(江戸時代になると‘一国一城令‘という法令が出来、城の数は減らされます。)
今川勢の軍議では信長を見下す発言が飛び交いました。
「それにしても信長のやつ、なぜ砦に兵を分散させるのだ?これでは無駄に兵を消耗するだけだぞ。」
戦のときに一番やってはいけないのは、「逐次(ちくじ)投入」といわれるものです。これは戦争用語ですが、例えば味方が5000の軍勢、敵が5000の軍勢なのに、500人ずつ小出しにして敵に当たらせることを「逐次(ちくじ)投入」言います。これをやると必ず負けで、やってはいけないこととされています。
つまり、相手が5000なら、こちらも5000で出さなくていけないのです。向こうは全力できているのですから、小出しに兵を出しては負けるに決まっています。
当時の信長もこの程度だったのです。
「信長のやつ、うつけ者とは聞いていたが、本当にただのうつけ者ではないか。」
「フハハハッ」
このとき、清州城にいた信長とその家臣団は迎撃か、籠城かを決められずに日を過ごしていました。
「殿、清州にて籠城策をとりましょう。」
家臣達が籠城策を進言するのは当然でした。大軍を迎える戦法としては一般的だし、3千人ほどで籠れば、たやすく落城することはありません。
それに、今川勢は大軍といえど、農民兵を動員したもので、5月に出てきたのは田植えを終えたからです。獲り入れ時期の秋になれば今川勢も引き上げざるを得ないため、籠城もそこまで持てば良い。
どう考えても、寡兵(少ない兵数のこと)で大軍に挑むなど無謀過ぎる。重臣達は籠城策を声高に進言しました。
しかし、信長としては、籠城策はあり得なかった。
織田家累代の家臣の多くは信長から離反したし、残った家臣達もいつ寝返るかわかりません。
重臣達は今川勢と戦うのを嫌っています。
彼らは籠城した後でも、勝ち目がないと読めばいつでも今川軍に降伏できます。
主君・信長は殺されるか、切腹することになるが、家臣達は降伏するタイミングさえ間違わなければ命を失うことはないし、今川勢に寝返ればとりえあずは安泰です。
今後は、三河の松平氏(徳川家康)のように常に先陣としてこき使われることになるが、今川が天下に号令するようになれば、1国1城の主となることも夢ではありません。
それに信長に尾張全土を治める器量があるとも思えません。
こうした家臣団の考えを信長は読んでいました。
このピンチの状況をどう切り開くか。信長は頭をフル回転させて考えました。
そんな中、5月18日の夜、偵察兵の梁田政綱(やなだまさつね)が戻ってきました。
「今川勢の状況を報告せよ。」
「ハッ、只今、今川勢は桶狭間近くで宴会を開いており、酒に酔いぶれている最中でございます。」
今川勢は完全に油断していました。
今川勢は軍議通り、丸根砦も鷲津砦もあっさり陥落させていました。残るは善照寺砦を落とし、鳴海城に入る。そうなれば、今川勢の大勝利です。
これを聞いた家臣団は信長に言います。
「殿、これは千載一遇の時です。全兵力を投入して一気に攻め入ってしまいましょう。」
しかし、信長は黙ったままです。
「殿、どうするおつもりですか。敵は目の前まで来ています。早くご決断を。」
しかし、信長はずっと黙ったままでした。そしてこう言いました。
「もう夜も更けた。お前達は帰って休め。御苦労だった。」
結局、信長は軍議を凝らすことなく家臣達を解散させました。
呆れた家臣達は囁きあいます。
「さすがの殿の知恵の泉も尽き果てたか・・・・。我が軍もこれで終わりか・・・。」
ところが、その夜、突然起き出した信長は「敦盛」の幸若舞(こうわかまい)を舞うとただちに出撃していきました。
「兵士を募る。心ある者は熱田神宮に集まれ。」
信長はわずか200の供廻りとともに熱田神宮を参拝し、兵士達の集合を待った。
やがて3000人の兵士が熱田神宮に集まりました。
しかし、信長は言いました。
「軍を分散させる。1000は善照寺砦に進め。2000はワシと一緒に来い。」
この情報はすぐに今川氏の耳にも届きました。
「織田勢の近況を報告せよ」
「ハッ、只今、織田本隊が善照寺の砦に向かっております。」
「織田のやつ、遂に動きだしたか。ここ桶狭間で帰り討ちにしてくれるわ。」
そう、信長が3000の兵を善照寺に進めたのは、ただのおとり。
正面攻撃と見せかけて、迂回した信長率いる2000の兵が、義元の本陣の側面から攻撃を仕掛けるという奇襲作戦です。
信長は2000の兵士達にこう伝えました。
「いいか、他の連中など相手にするな。狙うのは義元の首だけだ。」
信長の作戦は兵士達にしっかりと伝わりました。そしてその勝利を確信しました。
「ハハッ!!」
信長軍の士気は最高潮にまで高まりました。
19日午前、桶狭間は大雨で視界が悪く、足音も雨音でかき消されてしまう状況でした。しかし、奇襲作戦を実行する信長にとって、これは願ってもない幸運でした。
午後2時、信長率いる2000の兵は、田楽狭間で休憩していた今川義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛けました。
本陣は5000ほどの兵で守られていたが、今川勢は奇襲に驚き、適切な対応が出来ない。同士討ちさえする始末で、そんな混乱状況では応戦が出来ない。
義元は300人ほどの護衛とともに退却しようとしたが、信長の馬廻りに発見され、服部小平太が一番槍を、そして毛利新介が、義元の首を討ち取りました。
あっという間の決戦でした。
信長勢はこの戦いで今川方3000人を討ちとりました。
大将を失った今川軍は大混乱に陥り、戦意を喪失、そのまま尾張から撤退していきました。
信長は危機を脱したばかりか、敵将の今川義元を討ち取り、10倍以上の兵力差のある今川軍を迎え撃つことに成功したのです。追い返したのです。
「戦(いくさ)は数で圧倒しなくても、勝つことが出来る。」
信長はそれを学びました。
しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。
そう、奇襲作戦という成功体験に溺れることがなかったのです。
大きな仕事で成功すると、その瞬間誰もが心の中で狂喜することでしょう。
しかし、その成功体験に固執してしまうと、その後も成功し続けることは不可能です。
信長が本当に学んだのは別のことにありました。それは、
「あきらめずに考えに考え抜けば、必ず突破口が見えてくる。」
ということです。
信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつくことなく、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え抜き、実行に移して戦いに勝利したからなのです。
以上が、信長が日本史の舞台に登場し、その名を轟かすきっかけとなった桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いは、奇跡的な大勝利でした。信長を勝利に導いたのは、優れた洞察力でも決断力でもない。領民からの圧倒的な支持でした。信長が天下統一を目指せたのは、庶民からの高い支持も大きな要因といえるでしょう。
桶狭間の戦いは情報戦だったといわれています。
信長はすでにこの時代にあって、情報活用の重要性を知っていた。離反の可能性のある家臣達に作戦を話せば、今川方に情報を漏らされる危険性がある。だから信長は家臣達に作戦を話さず、解散したのだ。敵を欺くには、まず味方から」という心理戦は、天才児の信長だから出来たのである。
以上が多くの歴史研究家の考えることです。
しかし、それは少し違うと思います。
信長のような殿様(リーダー)に必要なスキルは決断力です。
その際、周囲の意見など聞いていたら決断など出来ません。作戦を家臣達に話したところで、猛反対されることは目に見えていたのでしょう。
というより、そもそも信長は家臣の意見など聞く気はなく、完全な独裁志向であったのです。
しかし、信長が天下統一を目指せたのは、優れた決断力だけではありません。
この桶狭間の戦いを考えるうえで不思議なのは、信長率いる2000の兵が迂回しているという情報が今川方にまったく知られていなかったことです。
信長は19日の早暁(そうぎょう)に清州城を出発してから桶狭間に到着するまでに14時間以上費やしています。今川側がその動きを知る時間的余裕がなかったわけではありません。さらに2000人の兵も決して少ない人数ではありません。
まだ武士も農民も区別があいまいだった当時、一方の行動を他方に伝え、褒美をもらおうとする野心家が多かったのが実情です。そんな中で2000人もの兵を連れて14時間もうろついていれば、信長軍を発見した領民も多かったはずです。
おそらく、尾張の領民達は気づいていたのでしょう。信長の天才的なカリスマ性に。
信長は家臣団からはともかく、領民達からの絶大な人気を誇っていたのです
信長は最終的に家臣であるはずの明智光秀に殺されていまします。
おそらく信長の独裁志向は家臣達からは、すこぶる評判が悪かったのでしょう。
一方で、領民からの圧倒的な支持がありました。
こうした信長人気が、彼を天下統一へと導いていったのだと思わされます。
信長の統一事業は続きます・・・・・。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社
戦国時代の組織戦略 堺屋太一=著 集英社
組織の盛衰 堺屋太一=著 PHP文庫
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著 山川出版社
マンガでわかる日本史 河合敦=著 池田書店
【キリスト教伝来】宣教師はなぜ日本にやってきたのか【フランシスコ・ザビエル】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【キリスト教伝来】宣教師はなぜ日本にやってきたのか【フランシスコ・ザビエル】」というお話です。
大正時代、昭和時代が行き詰っているので、すいませんが、戦国~安土・桃山時代をやります。
16世紀半ば、日本にキリスト教宣教師がやってきました。それまで日本には中国大陸から仏教や儒教が伝来していましたが、16世紀になると、いよいよ西洋からの文化が入ってきます。
ということで、今回は、宣教師はなぜ日本にやってきたのかについてストーリー形式で紹介していきたいと思います。
16世紀半ば、スペイン・ポルトガルを中心にヨーロッパ諸国が大航海時代を迎え、その波は東アジアの日本にもやってきました。彼らは日本と南蛮貿易を開始。同時にキリスト教宣教師もやってきました。西洋では宗教改革が起き、カトリック(旧教)から独立し、プロテスタント(新教)と呼ばれる信者が現れました。信者を減らしてしまったカトリックは信者増強組織としてイエズス会を設立。布教活動のために海外に進出していったのでした。
16世紀の覇権国家といえば、ポルトガルとスペインです。彼らは当時、イベリア半島で大人気を誇ったコショウ(香辛料)を求めてインドや東南アジアを目指して新航路を開拓するようになります。いわゆる大航海時代の幕開けです。
ポルトガルは東廻りの航路で、対するスペインは西廻りの航路でインドを目指します。
先陣をきったのはポルトガルのエリンケ王子です。彼らは、アフリカの最西端のヴェルディ岬に到着しました。惜しくもインド到着ならず。
続いて1488年、バルトロメウ=ディアスがインドに向けて出港しました。しかし、途中で船に異常が発生しましたが、アフリカ最南端の喜望峰(きぼうほう)にまで到着することができました。後はここから北上していけば、インドです。
一方のスペインはポルトガルに先を越された事で焦っていました。そんな中、地球球体説を信じるコロンブスは言いました。
「我々は西廻りでインドへ向かう。あの水平線の向こうにインドがある」
しかし、彼らが到着したのは、インドではなく、西インド諸島のサンサルバドル島でした。この‘新大陸‘をスペインは今後、開拓していくことになります。この‘新大陸‘は後に探検家アメリゴ=ヴェスプッチに因んでアメリカと命名されることになります。
そしてポルトガルのヴァスコダ=ダ=ガマは、1498年、インド西岸のカリカットに到着し、インド・ヨーロッパ間を結ぶインド航路が確立されました。
こうして、地球の東側に植民地を持つポルトガルと、西側に植民地を持つスペインの2大勢力構図が完成しました。
そして1522年、スペインはマゼラン一行を西廻りから派遣し、世界周航を達成します。
このようにポルトガルとスペインが大航海対決をしている頃、ヨーロッパでは宗教改革が起きていました。
16世紀は、大航海時代であったと同時にヨーロッパ各地で宗教改革が起きた時代でもあったのです。
舞台となるのは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)とスイスのジュネーヴ、そしてイギリスです。
16世紀に入ると、ローマ=カトリック教会は腐敗しきっていました。ローマ教皇のレオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の建築費用などを集めるために免罪符を販売します。
免罪符とは犯した罪が赦されるお札のことですが、キリスト教の教えでは、「人は生まれながらにして全て罪人」です。私達は生まれてから今まで、一度も嘘をついたり、モノを壊したり、人を叩いたりしたことがないという人はいないと思います。ですから、人は全て罪人なのです。
ですから、カトリックの人々は常に後ろめたさを感じています。
「この免罪符を持って、悔い改めるのだ。」
免罪符は飛ぶように売れます。
こうした人々の弱みに付け込んで金儲けをする教皇に対し、反旗を翻した学者がいました。それがマルティン=ルターという人物です。ルターは九十五ヶ条の論題を発表して教会による免罪符の発行を否定しました。これが原因でローマ=カトリック教会と宗教改革論争を繰り広げました。その上で、ルターは神への信仰は、聖書を重視するべきだとして教会の存在を否定しました。
結局、1555年のアウクスブルクの宗教和議によって神聖ローマ帝国では諸侯の信仰の自由がある程度認められるようになります。ルターの思想は特に農民達から強い支持を受け、ローマ教会から独立し、新しい教会がとしてのプロテスタント(ルター派)が誕生します。これはカトリック(旧教)に対するプロテスタント(新教)として現れるようになります。(詳しくは「世界史もストーリーで覚える」の方で。)
同じ頃、スイスのジュネーヴでも宗教改革が起き、宗教家のカルヴァンが「人が救われるかどうかは神によってあらかじめ定められている」とする予定説を説き、プロテスタント(カルヴァン派)として台頭してきました。(詳しくは「世界史もストーリーで覚える」の方で。)
そして、イギリスでも宗教改革が起きます。国王ヘンリ8世はもともと熱心なカトリックでした。しかし、自らの離婚をローマ教皇に反対されたことからカトリック教会から距離を置くようになりました。そこで、国王自らをトップとする国王至上法を発布し、新たな教会組織を構想。こうして統率された教会は、イギリス国教会として16世紀後半のエリザベス1世の統一法発布によって確立されます。
このように、カトリックから独立した新教はヨーロッパ各地で拡大していき、プロテスタントとして一大勢力を築きあげました。しかし、カトリックは多くの信者を失い、勢力が大きくダウンしてしまいました。しかし、カトリック側も、勢力の立て直しを行いました(対抗宗教改革)。
例えば、トリエント公会議が開催され教皇の至上権が確認されたり、「信者増強組織」として「イエズス会」を結成したりしました。このイエズス会の上層部にイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルという人物がいました。
ところで、カトリックが大多数を占める国は、ポルトガルとスペインです。
地球の東側を制圧しているポルトガルは、貿易とカトリックの布教活動を目的に極東の国・日本にやってきました。その船には布教活動のためにカトリック宣教師も同乗していました。貿易と布教を一体として進めていこうという作戦です。
このように、16世紀半ば、日本に最初にやってきた西洋人はポルトガル人でした。西洋から日本に最初に入ってきたアイテムは鉄砲です。
1543年、種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人から鉄砲2丁を島の住民が購入したことがきっかけに鉄砲は全国に広がりました。間もなく、紀伊国の根来(ねごろ)などで国産化され、やがて全国の戦国大名のもとに普及するまで5年もかかりませんでした。鉄砲は戦国時代の戦争に大きな影響を与えました。
貿易に関しては平戸や長崎、豊後(大分)などで行われ、ポルトガル船は日本が一番欲しがっていた生糸を中国から大量にもたらします。一方で日本では金銀鉱山の開発が進んだ時代だったので、銀が大量に輸出されました。
日本では彼らを南蛮人と呼び、その貿易を南蛮貿易と呼ばれるようになりました。彼ら南蛮人
その後、スペインもポルトガルにやや遅れて日本に貿易とキリスト教の布教のために上陸します。
その代表的な人物がスペイン人のイエズス会宣教師フランシスコ=ザビエルで、彼は1549年に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教カトリックの布教活動を始めました。
キリスト教は九州を中心に広がっていきます。キリスト教に入信したのは、九州地方の大名である大友義鎮(おおともよししげ)や大村純忠(おおむらすみただ)などで、彼らはキリシタン大名とよばれ、少年4人を天正遣欧使節として任命、宣教師ヴァリニャーニの保護のもと、ローマ教皇に会いにヨーロッパまで行くという大規模な使節団の派遣が行われました。
西洋の新しい文化は南蛮人によってもたらされます。これを南蛮文化といいますが、その風俗を派手に描いた華麗な南蛮屏風が有名です。西洋ではルネサンス期に実用化された活版印刷が日本にももたらされました。それは先程のヴァリニャーニが天正遣欧使節とともに再来日した際にもたらされました。これが西洋の活字印刷印刷機を使った天草版平家物語の発行に繋がります。
さぁ、16世紀の日本は戦国時代を迎えてしました。16世紀も後半になると、皆さんの大好きな「あの人物」が日本史の舞台に登場します。
そう、ミスター戦国、いや、ミスター日本史でもいいかも知れません。織田信長です。
応仁の乱をきっかけに室町幕府の権威は最低ランクまで落ち込みました。その後も、幕府の統治力はどんどん落ち込み、庶民は飢饉に苦しめられ、各地では反乱や一揆、盗難や火付けなどが横行するようになってしまいました。
このような不安定な情勢の中、当然庶民の間では以下のような欲望が芽生えてきます。
「平和に暮らしたい」、
「ゆたかに暮らしたい」、
「正しく、公平に暮らしたい」、
「自己向上したい」、
「誰かカリスマ的リーダーが新しい国家を創ってほしい」
これらのニーズに応えるように守護大名に代わって戦国大名が登場。平和な時代を創るために、各地で互いに争いを展開しました。その中でメキメキ頭角を見せ、天下統一事業をどんどん進めていく天才児が、織田信長だったのです。
彼は戦国の民衆のニーズをしっかりととらえ、中世の封建的な「土地至上主義」近代的な「貨幣至上主義」へと移行させる様々な政策をとりました。
次回以降、織田信長の活躍について詳しく述べていきたいと思います。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
教科書よりやさしい世界史 旺文社