日本史はストーリーで覚える!

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【資本主義とは?】資本家と労働者、どちらの生き方が得?

 

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【資本主義とは?】資本家と労働者、どちらの生き方が得?」というお話です。

 

 資本主義社会には「資本家」と「労働者」の2つの階級があります。今回は、そのどちらの生き方が得なのかを見ていきながら、資本主義のしくみを解説していきたいと思います。

 この資本主義のしくみを理解しておかないと、日本史の、特に近代以降の理解が難しくなるので、是非、今回の記事でしっかりとマスターして欲しいと思います。

 

資本家

労働者

資本を持っている人

労働力を持っている人

富裕層

貧困層

経営者、起業家

サラリーマン、公務員

責任を負う

責任を負わずに済む

成果で稼ぐ

時間で稼ぐ

自由を愛する

安定を愛する

ハイリスク・ハイリターン

ローリスク・ローリターン

 

 「人間は生まれながらにして自由で平等です。」

 うん。これ以上ないくらい素晴らしく、美しいセリフですね。

 ですが、実際の社会では「これでもか」というほど自由は制限されていますし、不平等が存在します。

 なぜ、私達の自由は拘束されているのでしょうか。

 なぜ、私達には不平等が存在するのでしょうか。

 それは、現在の私達が、資本主義という社会の中に組み込まれているからです。

 では、資本主義とは、どんな社会制度なのでしょうか。

 資本主義とは、生産手段を私有している資本家が、労働力以外に売る物を持たない労働者の労働力を商品として買い、賃金部分を上回る価値を持つ商品として生産して、利潤を得る経済のこと。(大辞林より引用)

 もう少し分かりやすく説明します。

 資本家とは、土地、建物、機械設備などの商品を生産するための生産手段(資本)を持っている人達のことです。資本家はさらに労働者の労働力を使って、自らの利益を増やすことを考えます。そのために資本家は労働者に賃金を払い、その労働力を受け取ります。

 一方、労働者とは、その名通り「労働をする人達」のことですが、資本を持たず、労働力のみを持っている人達のことです。彼らはその労働力を資本家に提供することで、お金という対価を受け取るのです。

 

 このように資本主義社会には資本家と、労働者という2つの階級が存在し、両者は互いにお金と労働を取引する関係にあることが、大きなポイントになります。

 

 資本家とは、平たくいえば、「富裕層」です。自らが私有している資本と労働者から買った労働力を使って、どんどん商品を生産し、どんどん販売網を広げ、儲けを増やしていきます。

 一方、労働者とは、平たく言えば、「貧困層です。毎月決められた給料を資本家から受け取ります。その金額は資本家に比べて非常に少なく、暮らすだけで精いっぱいです。

 また、資本家とは、経営者(社長)や起業家のことで、労働者とは、サラリーマンや公務員の人達です。

「え?サラリーマンだって毎月給料貰っているし、高収入の人だっているじゃん。」と思った人もいるでしょう。

 確かにサラリーマンだって節約すれば貯金だって出来ます。しかし、じゃんじゃんお金を設けている資本家の財産に比べたらサラリーマンの貯金など雀の涙です。本当です。成功している資本家はお金の豊かさに関しては、本当に文句なしです。私達の社会が平等だと感じないのは、資本家と労働者という2つの階級に人々が分けられているからなのです。

 

 ところで、この2つの階級は、江戸時代の「士農工商」のような身分制度ではありません。よく勘違いされることですが、「資本家」と「労働者」は家柄や身分ではありません。階級です。なので、自分はどちらの階級に入ろうか選ぶことが出来るのです。

 これが明治維新によって、日本は急速な西洋化を図りました。それに伴い、日本にも資本主義が入ってきました。士農工商身分制度が撤廃され、四民平等になりました。

 四民平等は人々に職業選択の自由と、商売の自由を与えました。

 しかし、職業選択の自由が与えられ、人々は悶々とした封建制社会から解放されたものの、結果的に人々が「資本家」と「労働者」という新しい階級の中に組み込まれていったのです。

 なぜ、そうなったのでしょうか。

 先程から出て来ている「自由」という言葉がキーワードになります。自由に職業を決めて、どんな商売も自由にやって良い。と言われると、人は困惑するのです。

 なぜでしょうか。

 実は自由って重いんです。

 20世紀のフランスの哲学者・サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言いましたが、自由にするなら、それによって生じた責任も全て自分が負わなくてはいけないのです。自由は責任と表裏一体の関係にあるのです。

 資本家は、自由にどんな商売でもやって良いという代わりにその責任を負わなくてはいけません。では、その責任とは具体的に何なのでしょうか。それは、成果が出せたかどうかです。資本家は成果でお金を稼ぐのです。資本家は、仕事で成果を出せなければ、儲けはゼロです。しかし、儲けがなくても従業員には必ず給料は払わなければいけません。仕事が出来たかどうか、成果を出せたかどうか、それら生じた結果に対して資本家は全ての責任を負わなくてはいけないのです。

 

 一方、そんな責任を負いたくないと思う人達が現れました。

 責任を負うくらいなら多少自由は制限されても、誰かに支配される(雇われる)方が良いという人達です。その人達は労働者として資本家に雇われる道を選びました。

 労働者はその過酷な労働に耐えなくてはいけないので、大変ですが、儲けが出なかった時や、会社が倒産した時も責任を負う必要はありません。

 それに、労働者は何より安定しています。資本家に雇われてさえいれば 突然収入が途絶えるということはありません。労働者は時間で稼ぐのです。何時間働いたか。何日間働いたかによって給料が決まるのです。

 つまり、労働者は時間と給料を交換しているのです。

 しかし長時間働けば、より多くの給料がもらえるわけではありません。もしそうなら、工場や建設現場の管理者、レストランや小売店の店長が大成功者ということになります。

 しかし、現実はそうではありません。

 それもそのはず、労働者の月給や時給は資本家(雇用者)によって固定されているからです。労働時間の長さが高収入を決める要因ではないのです。

 それに、時間という有限な資源と交換している以上、対価である給料は有限なものになってしまいます。

 

 一方の資本家は成果で稼ぐため、時間給は固定されていません。例えば、100時間働いて商品を作っても、その商品を1万円でしか買ってもらえなければ、時給は100円になります。しかし、1時間の講演で100万円以上を稼ぐ著名な作家さんなら、時給は100万円になります。

 

 こうして責任は伴うが、お金をたくさん得たいと思う資本家と、お金は必要最小限しか得られないが、責任は負わなくて済む労働者の2つの階級が生まれました。

 

 資本家は基本的に自由です。先程、自由と責任は表裏一体と述べましたが、資本家は責任を負う分、自由が手に入ります。

 なぜでしょうか、労働者がしっかり働いてくれているからです。労働者がしっかり働いてくれるあいだは、儲けが生じているので、資本家は自由になれます。

 それに資本家は、その立場上、自由に過ごしても誰にも文句は言われません。旅行に行こうが、家でゴロゴロしていようが、美味しいモノを食べに行こうが、映画を観に行こうが、ドライブしようが、リラクゼーションエステに行こうが、おしゃれな街で雑貨屋巡りをしようが、温泉に行こうが、ゴルフに行こうが、自由な時間を満喫することが出来るのです。

 

 一方、労働者は労働している時間は基本的に拘束されます。自由ではありません。当然ですよね。労働者は、労働というものに対してお金という対価を資本家からもらうで、労働者は労働からは避けて通れません。始業時間が決まっており、「9時出社」のところを「10時に出社すると無断遅刻とみなされ、給与も減額され、勤務態度において人事考課に影響が出ます。

 始業時間に出勤し、それぞれの持ち場で仕事をし、終業時間にはなったら退社します。その時間内の自由は拘束されます。サボるなど言語道断です。

 しかし、労働者は安定しています。これは労働者の最大のメリットと言えるでしょう。それは毎月決まった額の給料が支給されるということ。これは、特に家族を持っている人達には大きなメリットになります。

 労働者は労働さえしていれば、突然収入が途絶えるということはありません。倒産した時の責任も負う必要がない。しかし、労働者はその安定と引き換えに、賃金は資本家に比べ、かなり低いです。一応、最低賃金が定められたりしていますが、基本的に資本家が決めた賃金です。ローリスク・ローリターンなのです。

 

 一方、資本家は労働ではなく、負っている責任に対してお金という対価をもらっています。ところが、毎月、一定の額の報酬をもらうことは出来ません。月収2万円の月もあれば月収200万円の月もあります。これは労働者の安定性とは程遠いものです。

 しかし、安定収入がないかわりに大きく稼ぐことも出来ます。その額は実際には有限ですが、理論上は無限です。資本家の報酬は商人をどれだけ売ったかできまります。すなわち、市場(マーケット)が決めるのです。ハイリスク・ハイリターンなのです。

 このように資本家とは常に、成功するかも知れないし、失敗するかも知れないというリスク(不確実性)の中で生きているのです。

 

 ハイリスク・ハイリターンな資本家、ローリスクローリターンの労働者、どちらの生き方が良いか個人の選択に任されますが、どちらも一長一短の生き方になります。

 しかし、この両者の関係に亀裂が入ることが起きてしまいました。

 足るを知らない資本家が、自らの利益を最大化させるために、労働者の労働に対し、正当な対価を支払わないという搾取が起きてしまったのです。すなわち、労働者は、毎日ヘトヘトになるまで長時間労働を強いられ、しかし、お給料は少なく、カツカツの生活しか出来ない。お金は貰っていても、ほとんど奴隷のような存在になってしまったのです。

 結局、資本主義社会とは、資本を私有している資本家が一番エライということになっており、儲かった分は、労働者にはいかずに全て資本家にふところに入るのです。労働者は雇われている立場上、資本家に反抗することが出来ません。

 そこで、何とか労働者を搾取から解放するために現れた思想が社会主義とよばれるものでした。 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

学校が教えないほんとうの政治の話      斎藤奈美子=著  ちくまプリマー社

サラリーマンだけが知らない好きなことだけして食っていくための29の方法 立花岳志=著 大和書房

【第一次世界大戦】アメリカが参戦を決めたきっかけとは?

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【第一次世界大戦アメリカが参戦を決めたきっかけとは?」というお話です。

1917年、第一次世界大戦はドイツの劣勢がはっきりしてきます。不利な状況に立たされたドイツは、許可なしで航行している船を無差別に撃沈させる無制限潜水艦作戦を始めました。参戦を嫌っていたアメリカの世論は、このドイツの作戦に猛反発。アメリカは連合国側として参戦するようになりました。

 

 18世紀、ボストン茶会事件をきっかけにアメリカは独立のためにイギリスと戦争をしました。アメリカ独立戦争です。そして1783年、イギリスの植民地だったアメリカはパリ条約で、イギリスの承認を得て、アメリカ合衆国として独立しました。しかし、独立後のアメリカは、それまでの主力産業だった農業を中心とした国であり、軍事力はイギリスやフランスには遠く及びませんでした。

 しかし、20世紀近くになってくると、アメリカは鉄鋼などの重化学工業が発達してきます。さらに、世界からは多くの移民が入り、広大で豊かな天然資源を開発する労働力に恵まれました。

 その結果、アメリカの産業や経済などの国力が急上昇。20世紀初頭には世界で最も潜在能力を持った若くて元気な国へと成長していったのです。

 そんな中、1914年、第一次世界大戦が勃発しました。やがて、ドイツ・オーストリアオスマン帝国(トルコ)を中心とした同盟国軍と、イギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国軍の対立構造が出来上がりました。

 しかし、「中立主義」「国際平和」を掲げるアメリカはどちらの側にもつかず、中立を保つ姿勢でした。そんなアメリカを、イギリス首相ロイド=ジョージは何とか参戦してくれるよう打診するも、アメリカは拒否しました。

「くそ・・・。アメリカさえ参戦してくれれば、神は我々の味方をなさるだろうにな・・・。」

 実は当時のアメリカ第28代大統領であるウィルソンは、「戦争反対」「中立政策」「国際平和」を公約として掲げたことで、選挙を勝ち抜き、見事大統領に就任した人物です。

「私が大統領でいる間は、皆さんの旦那や恋人、兄、弟、息子を戦地に送ることはありません!!」

 その公約を破って参戦するとなると、間違いなく世論の反発を招きます。

 したがって、アメリカが参戦するにはアメリカ国民の同意と、何らかの大義名分が必要になります。

 

 1915年3月、ドイツは中立国であるはずのベルギーに侵攻。これを口実にイギリス・フランス連合軍はドイツに宣戦布告。本格的な戦争が始まったのです。

 ドイツは陸戦ではフランスとの塹壕戦を続け、海戦ではイギリスの海上封鎖を打破する作戦を考えました。

 

 実は、開戦直後イギリスが最初に行ったのは、ドイツの海上封鎖でした。海上封鎖とは、ある国が軍事力を持って、敵国の船の入出港を制限することですが、ドイツは植民地との連絡・貿易が出来なくなり、武器や弾薬の原料を調達出来ない状況に追い込まれました。

 ドイツ海軍はこれに抵抗するべく自慢の艦隊で、イギリス本土の沿岸都市やイギリス漁船を攻撃するようになります。

 

 そんなある日、ドイツ海軍はいつものようにイギリス漁船の航行情報を入手。直ちに奇襲攻撃をするべく目的地点に向かいました。するとそこには漁船ではなく、イギリス海軍の艦隊が待ち構えていたのです。

 その装備たるや「待ってました!」と言わんばかりの臨戦態勢で、漁船撃沈が目的だったドイツ海軍は返り討ちに遭い、完膚なきまでに撃破されてしまいました。

 まるで、こうなることを予期していたかのように待ち構えていたイギリス艦隊にドイツは困惑しました。

「なるほど、海戦ではイギリスとは、まともに戦えないのか。」

 なぜ、イギリス海軍はドイツ海軍の動きを読めたのでしょうか。

 実は、当時のイギリス軍部では既にドイツの暗号解読に成功していました。

 ドイツ艦隊の動きはイギリス軍に筒抜けだったのです。

 結局、ドイツは軍事最高機密(トップシークレット)が敵国に筒抜けであることに終戦まで気付きませんでした。

 海戦ではまとも戦って勝てないことを悟ったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世無制限潜水艦作戦を本格始動させることを決意しました。無制限潜水艦作戦とは、ドイツの指定海域内において無許可で航行している船を見つけたら、軍艦・商船・客船を区別なく、敵船・中立船に関わらず問答無用で撃沈するというものです。

 この作戦に連合国軍側はドイツを痛烈に非難しました。

「ドイツの潜水艦作戦は、明らかな国際法違反だ。我々は、この卑劣にして残忍なドイツ軍を完膚なきまでに蹴散らすことを誓います。」

 ドイツの無制限潜水艦作戦は確かに国際法違反です。ですが、バカ正直に「国際法に則って、商船や中立船は目こぼしにする」と言えば、商船に軍需物資を満載したり、中立船に偽装して堂々と航海したりするのです。

 これは戦争です。言ってみれば「何でもあり」なのです。

 戦争では正直者がバカを見るのです。キレイ事はまさにキレイ事。何の意味もありません。

 連合国軍が、「ドイツは国際法違反をしている」と非難しているのも、開戦の口実をつくるためであり、単なる建前にすぎません。それによって国民感情を煽り、兵士の士気を高めるのです。

 しかし、無制限潜水艦作戦は大きな危険性を秘めていました。

 アメリカの参戦です。この作戦を実行すれば、アメリカに絶好の参戦口実を与えてしまいます。

 案の定、アメリカのウィルソン大統領はドイツの無制限潜水艦作戦に厳重抗議。無制限潜水艦作戦は尻すぼみの状態になってしまいました。

 

しかしながら、連合国軍もかなり疲弊していました。陸戦では死体がどんどん積み重なり、海ではドイツの無制限潜水作戦と連合国軍は苦境に立たされます。イギリスは再度、アメリカに参戦を打診するも、未だに中立政策を取り続けていました。

 

 1917年になると、ドイツの劣勢がはっきりしてきました。

 ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世は考えます。再度、無制限潜水艦作戦に乗り出そうとします。軍部の中には作戦再開に賛成派と反対派に分かれました。

 反対派の意見はこうです。

「陛下、なりません。あの作戦だけは。世界各国から多大な非難を浴びてしまいます。しかも、この作戦を口実にアメリカが敵国として参戦してきたらどうするのですか。そうなったら、いよいよ我がドイツの敗北は必至ですぞ。」

 一方、作戦の賛成派の意見はこうです。

「陛下、どうかご決断を。我々は追いつめられているのですぞ。イギリスから海上派遣を取り戻さなければ、戦争遂行は不能。そもそもサセックスブリッジを破ったのは、アメリカの方ではないですか。あんなものはとっくに無効になっています。」

 しかし、ヴェルヘルム2世は無制限潜水艦作戦の実行に傾いていきました。

 一方で、万が一アメリカが参戦した時のために、メキシコを仲間に引き入れ、アメリカの背後を突かせようとする作戦にも出ました。

 ドイツはメキシコに以下のような軍事同盟の誘いをかける電報を打ちました。

「我々ドイツは、1917年2月1日を期して、無制限潜水艦作戦を再開する。その結果、万が一、アメリカが参戦した場合、メキシコは同盟側(ドイツ側)に立って参戦してくれれば、ドイツは戦中にあっては、メキシコに金融支援を行い、戦後はメキシコがアリゾナ州ニューメキシコ州テキサス州を併合することを保証する」

 この電報を受けたメキシコ大統領は一時的に困惑するも、参戦には慎重でした。

アリゾナ州ニューメキシコ州テキサス州は19世紀まではメキシコ領であり、その失地回復は大変魅力的だ。しかし、今のドイツは劣勢状態にあることは誰の目にも明確だ。このまま同盟国軍に加勢しても、結局敗戦国となって多大な賠償金を払う羽目になってしまう。」

 こうした理由からメキシコは中立を維持することを決意。ドイツの野望はあっけなく水泡に帰してしまったのでした。

 

 それでもドイツは無制限潜水艦作戦の再開に踏み切りました。

 そのくらいドイツは追いつめられていたのです。とにかくドイツは劣勢の状態の戦況を打破したいのです。

 

 このドイツのメキシコに対する電報はイギリスも傍受していました。先述の通り、イギリスは既にドイツの暗号解読に成功していたのです。

 しかし、イギリス首相ロイド=ジョージは、この電報をもてあましました。

 アメリカにこれを伝えれば、アメリカの世論は参戦に傾き、連合国軍として参戦するでしょう。アメリカの参戦は、イギリスにとってのメリットとしては測り知れません。

 しかし、一方で、イギリスが暗号解読に成功していることがドイツにばれてしまう危険性がありました。そうなれば、ドイツは暗号を変え、イギリスは戦争遂行に大きな支障が生まれるでしょう。

 1か月間考えた末、ロイド=ジョージは2月25日、アメリカに伝えました。

 この知らせを聞いたアメリカ国民は大激怒。国民は一斉に主戦派に回りました。

 しかし、ウィルソン大統領は、「非戦論」や「中立政策」を公約として掲げたことで、選挙を勝ち抜いた大統領。そう簡単には参戦を決断出来ません。

 公約を守るべきか、心変わりした国民の意見を尊重するべきか・・・。

ウィルソン大統領は参戦の大義名分を探し始めました。

 ここで使えるのが、「正義」という言葉。

 無能で間抜けな日本の警察がよく使う大変都合の良い言葉です。はい。

 ウィルソン大統領は「正義のため」、もう少し具体的にいうと、「民主主義のため」という大義名分を掲げた上で、参戦に踏み切ろうと考えました。

 

 ウィルソン大統領は、「同盟国軍VS連合国軍」を、「君主国家群VS民主国家群」の対立構造に置き変えようとしました。つまり、君主国家群を「民主主義の敵」、または「悪の帝国」として位置づけようとしたのです。

 しかし、ここでもまた難題がありました。

 同盟国軍は、ドイツ・オーストリアオスマン帝国(トルコ)と君主国家ばかりですが、連合国軍のイギリス・フランスは民主国家なのに、ロシアだけが君主国家でした。

 ロシアが連合国側にいる限り、悪の君主国家群を倒すためという大義名分が立ちません。世論は、

 そんな中、ウィルソン大統領にとって願ってもみないビッグニュースが飛び込んできました。

 なんと、ロシア国内で内乱が起こり、ニコライ皇帝を倒すロシア革命が起きたのです。こうしてロシアの君主制は終焉し、民主国家として生まれ変わりました。(この後、ロシアはレーニン指導のもと、資本主義に対立するソビエト社会主義共和国連邦ソ連)という社会主義国家になります。)

 

 こうして、イギリス・フランス・ロシアの連合軍の中心国がすべて民主国家になったことで、アメリカは参戦を決意しました

 連合国軍は圧倒的な国力を持つアメリカが参戦したことで、優勢が急加速。国内で革命が起きたロシアが戦線を離脱するも、アメリカの援助を受けた連合国軍の優勢は続きました。ドイツは後退を余儀なくされます。それでも連合軍は進撃します。

 ドイツ政府は混乱状態になり、総崩れしていきます。

 

 そして1918年11月、日本では原敬内閣総理大臣に就任し、原内閣が誕生した直後、第一次世界大戦は、ドイツを中心とした同盟国軍の敗北で終結します。サラエヴォ事件から実に5年半も経過していました。この世界大戦によって両軍の兵隊や民間人を合わせて1800万人が犠牲になりました。まさに「人類史上最大の汚点」とも言える出来事になってしまいました。

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

朝日おとなの学びなおし! 昭和時代        保阪正康=著  朝日新聞出版

教科書よりやさしい世界史                     旺文社

世界史劇場 第一次世界大戦の衝撃         神野正史=著  ベレ出版

【第一次世界大戦】なぜ100万人の犠牲者を出してしまったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【第一次世界大戦】なぜ100万人の犠牲者を出してしまったのか」というお話です。 

 20世紀初頭、人類史上初の世界大戦が勃発しました。第一次世界大戦です。この大戦の犠牲者は両軍合わせて100万人と言われています。これは人類史上類をみない勘大な被害です。第一次世界大戦はそれまでの戦争とどう違うのでしょうか。以下、表にまとめてみました。

19世紀までの戦争

20世紀からの戦争

短期決戦

長期戦

農繁期が近づくと終戦

国力尽きるまで戦う

専制国家に有利

民主国家に有利

国王のために戦争

国民のための戦争

戦略・戦術が勝敗を決める

技術力・経済力が勝敗を決める

 

 今回は特に、表の中で技術力や経済力について解説していこうと思います。20世紀からの戦争は戦略や戦術よりも、その国の技術力や経済力などの国力が勝敗を分けるのです。

 ということで、今回もストーリーを展開していきながら、第一次世界大戦とは、どのような戦争で、なぜそれほどまでに多くの犠牲者を出してしまったのかをみていくことにしましょう。

第一次世界大戦とは科学技術の「新兵器」が多数投入された戦争です。人々はその恩恵を享受する前に、とんでもない悲劇を経験したのです。両軍はともに戦況打破のために陸・空・海の戦いにおいて新兵器を投入。秒単位で兵隊や民間人が死ぬという人類史上類を見ない人的損害を被りました。

 

 ライト兄弟をご存じでしょうか。

 20世紀初頭のアメリカの技術者で、世界初の動力飛行を成功させた兄弟で、ウィルバー・ライトとオービル・ライトの2人です。

彼らは、自転車の技術者として動力技術の研究をしていました。

 研究を続ける彼らは次第に

「自転車の動力技術を応用すれば、人間も鳥のように空が飛べるようになるんじゃないか」とムズムズした気持ちになってきました。

自転車と飛行機は接点が多く、彼らは当初、自転車に大きな翼を装着させて飛ぼうとしていました。

 そんな中、1905年10月5日、ライト兄弟はアメリカ各新聞社に連絡しました。

「人を飛行機に乗せて空を飛んでみせる」

 しかし、新聞社は全く相手にしません。

「有人飛行だと?また目立ちたがりの連中がいたもんだ。放っておけ、放っておけ」

「調べたら、彼らは大学にさえ行ってないそうじゃないか。肉体労働者の趣味に付き合っている暇はない。」

 当時は「人は空を飛ぶことが出来ない」のが常識だったのです。それまで人類はたくさんの有人飛行実験をやってきましたが、全て失敗に終わっており、「人を飛行機に乗せて空を飛んでみせる」なんて非常識だったのです。

 

 ライト兄弟は公開飛行実験を行いました。取材に来たのはニューヨークの新聞記者ただ一人でした。

 その新聞記者でさえ、取材の真意はこうだ。

「有人飛行機で飛んだとか、飛んでみせるとかホラ吹きまくるこの兄弟のまやかしを、この目で確かめ、叩いてやる!」

 しかし、その新聞記者の目の前で、ライト兄弟は実に滞空時間38分、45キロの距離を飛んでみせました。

 記者は一転して感動的な原稿を社に送りました。

 ライト兄弟は全世界で脚光を浴びるようになりました。

「人は空を飛べる。」

 ライト兄弟それまでの常識を180度覆したのです。

ライト兄弟が動力実験を成功させた後、正統派エリート技術者達によって飛行技術の改良が進められていきました。

 

 やがて飛行機ダンスがヨーロッパを中心に流行りました。

「飛行機が実用化されれば、移動時間を大幅に短縮できる。世界各国を気軽に旅行することが出来るのだ。そんな時代はそう遠くない。」

 飛行機以外にも、多数の科学技術が開発され、ヨーロッパは科学の黄金時代を迎えました。

 当時のヨーロッパの人々には、明るく豊かな未来が描いていたに違いありません。

 この当時、ヨーロッパ人の中には誰も予想していませんでした。

 ヨーロッパの人々が科学技術の恩恵を享受する前にとんでもない悲劇を経験することになるということを・・・・。

 

 その悲劇とは・・・そう、戦争です。

 ライト兄弟の公開飛行実験から約10年後の1914年6月28日、ボスニアの首都サラエヴォセルビア人の青年将校により、オーストリアの帝位継承者が暗殺される事件が勃発しました。(サラエヴォ事件)。

 間もなくオーストリアセルビアに宣戦布告。この両国の対立に民族主義を掲げるロシアやドイツ、彼らと同盟関係や対立関係にある各国、さらにはその植民地などが参戦して、人類史上初の世界大戦へと発展していきました。第一次世界大戦の勃発です。

 その対立構図は、ドイツ・オーストリアオスマン帝国を中心とする同盟国軍と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国軍が戦う構図になりました。日本も日英同盟に基づいて連合国側で参戦しています。

 

 ヨーロッパはその新兵器の実験場へと姿を変えていくのでした。

 西部戦線ではドイツとフランスの戦いが繰り広げられました。また、ドイツはロシアにも進撃し、東部戦線でも戦うようになります。

西部戦線ではドイツはイギリス・フランス連合軍との戦いにおいて不利な状況に立たされ、撤退を余儀なくされました。

「これ以上の撤退は何としても食い止めたい」

追いつめられたドイツ軍は塹壕(ざんごう)を掘り始めました。

塹壕とは、ちょうど人が隠れることが出来るくらいの小さな掘(ほり)のことで、味方兵はここに姿を隠しつつ、敵兵を斉射することが出来ます。

塹壕側は身を隠せるのに、塹壕を持っていない兵は全身を晒すことになる。そのため、勘大な被害を被るのです。

対するフランス・イギリス連合軍も塹壕を掘り始めました。

すると、戦争は塹壕戦に入り、膠着状態に陥ってしまいました。

膠着状態とは、戦況はほとんど変わらないのに、ただただ被害だけが拡大していく消耗戦に移行してしまったということです。

両軍ともに疲労とストレスは頂点に達しました。

ドイツは西部戦線ではフランスとイギリス、東部戦線ではロシアと敵軍に完全に包囲されている地理的な不利を抱えていました。それだけでなく、火薬の原料であるチリ硝石を自給出来ないという問題を抱えてしました。

 

開戦直後にイギリス海軍によって海上封鎖を受けたドイツは火薬(チリ硝石)の調達に苦悩しました。海上封鎖とは、ある国の海軍力によって威嚇し、敵国の船の入出港を強制的に制限することですが、ドイツは植民地との連絡や貿易が出来ず、火薬の調達が出来なくなってしまいました。

当然ですが、火薬が生成出来なければ、戦争は遂行出来ません。

イギリス海軍はこれを狙ったのです。

 

この戦況を打破するためにドイツは「新兵器」を投入してきました。

毒ガスです。

ドイツの科学者が開発した塩素系ガスは空気より重いため、敵塹壕や地価掘の深くまで入り込み、敵を殲滅するのです。

これは毒ガスの技術を持っていなかった連合国軍には脅威でした。

毒ガスに対して全くの無防備だった連合軍は6000名もの戦死者を出す大損害を被りました。

その対応策として連合軍は防毒マスクを着用するようになります。

同時に連合軍も、「新兵器」である「戦車(タンク)」を投入しました。

戦車(タンク)という鉄の箱に入れば、敵の銃弾をかわしつつ、敵塹壕を突破出来るのです。

しかし、当時の戦車は装甲が薄くて銃弾が貫通しやすい。そのため、たくさんの乗組員が死亡しました。

また、新兵器の性(さが)で、とにかく故障が多い。塹壕を突破し、ドイツ軍の陣地へと侵攻するも、途中でエンスト。あっさりドイツの捕虜になってしまいました。

このように戦車(タンク)は塹壕突破の決定打にはなりませんでした。

そこで連合国軍が考えたのは、「陸上から攻める」のではなく、「空から攻める」ことでした。

大戦初期には、偵察機として使用されていた飛行機は、やがて機体に銃器や爆弾を搭載した戦闘機や爆撃機として敵陣地に爆弾を落とすようになりました。

ライト兄弟が開発した飛行機は多くの人命を奪う殺戮マシーンに姿を変えてしまったのです。

機体も木製から金属へ、複葉機から単葉機へと大きく進化。それに伴い、「陸軍」、「海軍」の他に、「空軍」という新しい軍制も誕生しました。

 

ここまで、「陸の新兵器」、「空の新兵器」を見てきましたが、最後に海の新兵器を見てみます。

ドイツにとって最も辛かったのは、やはりイギリス海軍による海上封鎖です。植民地との連絡や貿易が出来なくなったドイツは、武器や弾薬の原料が輸入が出来ず、戦争遂行が不能になってしまいます。

 

この現状を打破するために、ドイツ海軍は「新兵器」を投入しました。

それが潜水艦(Uボート)です。

潜水艦から発射された魚雷は、敵船の船底に穴を空ける兵器で、イギリス海軍には脅威のものとなりました。世界で初めて潜水艦の実践実用化に成功したドイツは多くの戦果をあげることができました。

 

この対応策としてイギリスは「護送船団」を実行しました。

護送船団とは、貨物船や商船などを単独で航行させず、必ず複数の軍艦に護衛させるというものです。

これではドイツも迂闊にイギリス船団を攻撃することができません。Uボートもまた、新兵器の性(さが)、性能に難があり、軍艦だけの狙い打ちが出来なかったのです。貨物船や商船を撃沈させてしまったら、世界各国から非難を受けることになります。

やはりUボートも戦況打破の決定打にはならず、両軍の戦いが長引いていきました。

 

このように第一次世界大戦とは、現状を打破するために両軍ともに陸、空、海における新兵器を投入していく戦争となりました。これによって戦死者の数がそれまでの戦争に比べケタ外れに多くなってしまったのです。

つづく。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図解 思考は現実化する              田中孝顕=監修 きこ書房

教科書よりやさしい世界史                     旺文社

世界史劇場 第一次世界大戦の衝撃         神野正史=著  ベレ出版

20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう 千田琢哉=著 GAAKEN

【社会主義とは?】資本主義と社会主義はどう違うのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【社会主義とは?】資本主義と社会主義はどう違うのか」というお話です。 

 社会主義とは一体どういう考えなのでしょうか。資本主義と比較しながらみていきましょう。

資本主義

社会主義

18世紀末から発展

19世紀末から発展

生産手段を私有

生産手段を共有

私的利潤を認める

私的利潤を認めない

資本家の国

労働者の国

自由競争社会

平等社会

市場経済

計画経済

自由放任主義

政府主導の経済政策

アダム=スミス、ケインズ 

マルクス

   

 資本主義の問題点を解消するために誕生した政治思想が社会主義です。

 資本主義の最大の問題点、それは、「貧富の差」が生まれたことです。

 なぜ貧富の差が生まれたのでしょうか。

 例えば、ある洋服を商品として製造するには土地や建物、機械設備、社員が必要ですよね。これらの生産手段を資本と呼び、これらを有している人を資本家(社長)と呼びます。

 資本家は資本をフル活用して商品・サービスを製造し、人々に販売し、利潤を得ます。得た利潤は設備に投資し、新しい会社をつくるなどして、さらに儲けを増やしていきます。

 一方、資本家に雇われて働き、毎月お給料をもらう人達を労働者(社員)と言います。しかし、労働者の給料は本当に限られており、暮らすだけで精いっぱいです。節約すれば、貯金は出来ますが、資本家が貯める莫大な財産から比べたら、すずめの涙です。

 それもそのはず。資本家は労働者にあまり給料を払いたくないのです。

 資本家も人間です。感情や欲があります。少しでも多くの利潤を自分のものとして確保したいと思っていますから、労働者には出来るだけ安い賃金で長時間働いて欲しいのです。

 したがって、資本家は労働者に正当な対価を支払わないという問題が発生します。

なので、どんなに実力があって仕事が出来る人でも少ない給料しかもらえません。資本主義社会は私的利潤を認めているが故に、このような結果になってしまうのです。

 時間労働でヘトヘトになっても、給料は少なく、ほとんど資本家のもとに行きます。

給料は働いた分しかもらえず、病気になったら「はい、さようなら」と会社を辞めさせられる。

 さらに、資本家と労働者には越えられない壁が存在します。資本家は資本という生産手段を私有しているため、労働者より立場が上です。もし、労働者が雇い主である資本家に対し、暴動を起こしたら、労働者は解雇されてしまいます。 

 このような資本主義の問題点を解決するにはどうすれば良いのでしょうか。そこで生まれたのが、社会主義です。

 社会主義とは、何でしょうか。

 社会主義とは、生産手段を国家が共有・管理することによって人々が平等に暮らせる社会を実現しようとした政治思想です。

 社会主義では、まず、資本家のような個人が生産手段を私有する制度を禁止し、全て国の財産として共有するようにすれば、資本家と労働者という階級や対立は解消すると考えました。さらに、資本家のような個人が利潤を追求することも禁止しました。その結果、労働者は搾取から解放され、給与を均等に分配することが出来るのです。

いわば、資本主義とは資本家に都合のよい「資本家の国」であり、対する社会主義とは労働者に都合の良い「労働者の国」なのです。

「○○主義」とは「○○が一番エライ」という意味です。資本主義とは、生産手段を持っている資本家が一番エラく、権力者です。社会主義とは生産手段を持っている国(官僚)が一番の権力者なのです。社会主義の「社会」とは、「国」と置き換えることも出来ます。

 

 また、資本主義社会は、自由競争市場経済を軸とした社会になります。人々は自由に職業を選ぶことが出来ますし、自由に商売をすることも出来ます。

 つまり、資本家になるか、労働者になるか選べるのです。

 資本家になるには、「自分はどのような職業や分野に適正があるかを見極め、その分野から、今後どのような商品が必要とされるかを市場調査やマーケティングを行い、商品の企画・開発・製造・販売の計画を全て立てます。」

 そして、ライバル社と競争し、その競争に勝利した資本家はより莫大な富を手にすることが出来るのです。

 

 一方の社会主義は、平等社会計画経済を軸とした社会になります。社会主義では、一人一人が莫大な富を手にすることは出来なくても、皆が平等に給料をもらうことが出来ます。労働者の国ですからね。

 では、市場調査やマーケティングは誰が行うのでしょうか。そう、「国」です。

 消費者は何を求めているのか。生産者はどのくらいいるのか。それを踏まえた上で、何をいつまでに製造し、販売し、必要な人のところに、必要なだけ、必要なときに物資を配り続けることで、世の中に普及させていきます。

 これらは全て国が計画するのです

 例えばガソリン車の製造・販売を計画したとします。ガソリン車を欲しい(だろう)と思っている人達はどのくらいいるのかを調べ、そのガソリン車を製造・販売する企業はどれくらいいるかを調べ、製造計画・販売計画を立てて、国民に実行させていくのです。

 そして、ある程度ガソリン車が人々の手に普及したのであれば、今度は電気自動車を普及させようと国は計画し、実行していきます。それに伴い、需要がなくなるガソリンスタンドも、電気スタンドや道の駅のような今後の需要に合わせて国が計画し、国民に実行させていくのです。

 

 資本主義では、国は市場経済には出来るだけ関与しないようしています。18世紀のイギリスの経済学者であるアダム・スミスは企業同士の競争が行われる市場には需要(買い手)と供給(売り手)の不均衡を自動的に調整する機能があることを指摘しました。資本主義とは、国が関与しない市場経済に任せた自由放任主義なのです。

 

 需要と供給のバランスさえも全て国が計画します。19世紀のユダヤ系ドイツ人であるマルクスの理論では、国が生産手段を所有し、生産計画を立てて、そのノルマを達成していくことが社会主義の経済政策であるとしています。社会主義において、市場とは全て政府の管理下に置かれて動いているのです。

資本主義の問題を解決するために生まれた社会主義も、問題点を抱えており、その問題点は資本主義よりも酷いものとなりました。しかし、21世紀の資本主義は進化を遂げ、ある種の社会主義共産主義のようなしくみになっていきました。  

 

 しかし、社会主義にも問題点がありました。

 社会主義の問題点は大きく3つあります。

 1つ目は、とくかく「ムダが多く」なるという点です。

 国が市場調査や生産計画を立てようとすれば、莫大な時間とお金がかかります。

 例えば、全ての消費者や全ての生産者の情報を収集しようと思えば、調査員である国家公務員の人数は多く必要になり、その分、費用がかかります。

 またマーケティングを完璧に予想することなど誰にも出来ません。万が一、国民が欲しくもない商品を製造してしまったら、とんでもないムダが発生してしまいます。

 さらに生産計画を一歩でも間違えるのもムダの原因です。

 旧ソ連では、実際にある地域で、大量に農産物を作ったはいいが、それを運ぶ物流システムの整備が不十分だったために、そのほとんどを腐らせてしまったという事例が山のようにあります。中国で毛沢東が進めた「大躍進政策」では、中国全土で2000万人の餓死者を出してしまいました。

 今の北朝鮮で多くの国民が飢えに苦しんでいるのも、このためです。国家が市場経済を把握しようとしても、それに失敗しているのです。

 

 2つ目は、科学技術や商品・サービスの質が向上していかないということです。

 労働者はどれだけ頑張って仕事をしても、同じ給料であり、その成果を享受出来ないので、仕事に対してのやる気が大幅に低下してしまいました。科学技術の発展に伴う豊かな生活は、資本主義のような自由競争社会のもとで発展していくのです。

 

 3つ目は、官僚や国家公務員に強大な権限が集中してしまうことです。官僚も人間である以上、感情や欲があります。そのため、官僚達は特定の人から多くの賄賂を受け取り、その人達を手厚く優遇するなど、権力を濫用した汚職事件が多発してしまいます。

 

 こうした社会主義は1960年代に限界に達し、自由や民主主義を求める人々によって否定されました。

 その典型例がドイツのベルリンの壁でしょう。社会主義東ドイツは資本主義の西ドイツが羨ましかったのです。

「我々は、もともと同じドイツ人だったのに、西側の人達は、あんなに豊かな生活をしている。我々東ドイツ社会主義だったために、多くのムダと遅れを出してしまった・・・。」

 そこで、1990年にベルリンの壁が崩壊したのです。

 

 資本主義の問題を解消するために生まれた社会主義でしたが、資本主義の方がまだマシだったというのが、歴史的な答えなのです。今現在、社会主義国家はゼロではないが、ほぼありません。(キューバくらい・・)

 ところで、こうした社会主義の問題点を解消するために共産主義という政治思想も生まれました。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 では、資本主義の問題点は、永遠に解消されないのでしょうか。いいえ。着実に解消に向かっています。

 資本主義がある種の社会主義共産主義のようなしくみに進化しているのです。

 資本主義という自由競争社会の中で、モノが大量に生産され、国民みんながそのモノを所有するようになりました。例えば、所有者はいるけど、使われていない車が世の中に溢れるようになったのです。これをもったいないと考えた所有者は、車を持っていない人に貸し付けることをしました。「モノを所有する社会」から「モノを共有する社会」へと資本主義社会が変化しているのです。これを「シェアエコノミー」と言います。これについては別の記事で。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史         石川晶康=著   旺文社

学校が教えないほんとうの政治の話     斎藤美奈子=著  ちくまプリマー新書

僕は君たちに武器を配りたい        瀧本哲史=著   講談社 

【ロシア革命】なぜレーニンは資本主義を否定したのか【ウラジーミル・レーニン】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【ロシア革命】なぜレーニンは資本主義を否定したのか【ウラジーミル・レーニン】」というお話です。

レーニンは第一次世界大戦資本主義が生んだ経済戦争であると非難しました。彼はマルクス主義に基づいて社会主義を提唱。ロシア革命を指揮して1922年にソビエト社会主義共和国連邦を建設しました。

 

 

ロシア革命とは、1917年にロシア国内で皇帝を倒した革命で1922年に世界最初の社会主義国家「ソビエト連邦」を建設するきっかけとなった出来ごとですが、今回は

 

19世紀末、ロシアでも近代工業が本格化し、労働者階級が急増しました。ロシアにも資本主義経済が入り込んできたのです。

 

20世紀に入ると、早速ロシアは戦争を経験します。1904年に勃発した日露戦争です。日露戦争の影響でロシア国民は食料難に苦しむようになりました。さらに皇帝のツァーリズム(独裁政治)にも不満を強めた民衆が暴動を起こしました。これを第一次ロシア革命と言います。

 

日露戦争終結後も、ロシア国内では各地で暴動がおこるようになりました。

「皇帝を倒して、我々もイギリスやフランスのような民主制国家を建設するのだ。」

 

そんな不安定な国内情勢が続く中、1914年(大正4)年7月にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。ドイツを中心とした同盟国軍と、イギリス、フランスを中心とした連合国軍が対立しました。ロシアは連合国軍側として参戦しました。

ところが、クリスマスまでには集結するだろうと思われていたこの大戦争は、膠着状態に陥りました。つまり、決着がつきそうにないが、両軍の被害だけがどんどん拡大していくという人類史上類を見ない大損害を引き起こす戦争に発展してしまったのです。

 

第一次世界大戦による品不足、輸出入の停滞などの影響で、ロシア国内では物価が著しく高騰する激しいインフレーションが起こりました。

生活を圧迫された農民や労働者は再び、各地で暴動を起こすようになります。

そして1917(大正6)年2月、遂に革命がおきました。

これが、ロシア革命になりますが、その革命は2段階の政変で構成されます。1段階目は2月革命で、2段階目は10月革命です。

 

 

まずは、1段階目の二月革命を解説します。

首都・ペテログラードで労働者によるゼネストが起こりました。

「戦争反対!」

「皇帝による専制打倒!」

当初、この革命は首都・ペテルブルクで女性達がデモを起こしたのです。これがペトログラード隆起です。

これをきっかけに農民や労働者を中心とした暴動は各地に広がっていきました。

時の皇帝であるニコライ皇帝は暴動を鎮圧するために軍隊を派遣するも、その軍隊もゼネストに参加するという、かえって事態が悪化させてしまいました。

「我々は、一体、誰のために戦っているのだ。皇帝や貴族、地主などの富裕層の利益と支配体制を守るためじゃないか。そのために我々は犠牲になるのか・・・・。そんなのはもうごめんだ。これは搾取というもの以外何でもない。今こそ革命の時だ。」

 

事態を収拾不可能とみたニコライ皇帝は逃げるように退位、後継者のミハイル大公も革命勢力を恐れて王位継承を辞退してしまった。

このため、ケレンスキーらを指導部とする議会の立憲民主党と社会革命党による臨時政府が発足しました。

こうした革命によって300年あまり続いたロマノフ王朝の時代が終わり、ロシアも民主制国家になりました。これが「2月革命」です。

 

臨時政府は今後も、イギリスとフランスとの協調政策をとりながら、ドイツとの戦いを引き続き行うと発表。しかし、ロシア国内は第一次世界大戦争による疲弊は著しく、国民の大半を占める農民や労働者、そして下級兵士達は、戦争反対を強く訴えました。

「戦争とは、富める者の利権を守るために貧しい者が犠牲になる残酷な行為だ。これ以上の犠牲はごめんだ。」

こうした気運が強まり、ロシア国民の間では貧富の差がはっきりと分かれる資本主義社会に対する不満も強くなりました。しかし、臨時政府は経済体制も改革を行わず、資本主義経済を続けることを発表しました。

 

そんな国民感情を利用したのが、ウラジーミル・レーニンという人物です。スイスのジュネーブに亡命していた彼はロシアに帰国してきたのです。

レーニンは反戦論を唱える学者で、マルクス主義に基づいた社会主義を研究していました。そんなレーニンがロシアに帰国してきたのです。レーニンはただちに臨時政府との対決姿勢を打ち出し、臨時政府から政権を奪うことを企てます。

 

レーニンはロシア国民に演説します。

「我々が現在体験している大戦争は、資本主義が生んだ経済戦争だ。一部の人間の限りない欲望は、多くの人間を犠牲にした。資本主義社会は悪魔の制度だ。」

 

資本主義社会は一言でいうと競争社会なのです。いかに大きな市場を見つけるか、その巨大な市場からいかに多くの利潤を得るか、これが全てなのです。

これによって、19世紀中頃から、欧米列強は自国の商品を売りつける巨大な市場を求めて、世界中の植民地拡大をはかりました。帝国主義の時代です。

各国は、より多くの植民地を拡大するために競争します。しかし、この競争が第一次世界大戦に発展してしまったのです。

 

また、レーニンは、資本主義の下での貧富の差も、痛烈に非難しました。

「労働者や農民など貧しい人々は生まれてから死ぬまで貧しいままで、資本家や地主・株主などの富裕層はどんどん金持ちになるという大変不平等なしくみだ。我々はイギリスやフランスのような資本家に都合の良い社会を目指すのではなく、労働者の国、すなわち、共産主義の理想国家を創るのだ。」

 

このようなレーニンの演説にロシア国民は大熱狂。レーニンは即時休戦と食料問題の解消、そして地主から没収した土地の再分配という3つの政策を「平和とパンと土地」というわかりやすいスローガンを掲げ、兵士、農民、そして工場労働者から熱烈な支持を獲得しました。

農民、労働者、下級武士を中心としたはロシア国民の感情を上手く利用し、ボリシェビキという勢力をつくりあげました。

 

ロシアでは、ボリシャビキと呼ばれる急進的な社会主義者たちが勢力を拡大。臨時政府内でその影響力を強めていきました。労働者や反乱平時らによるソビエト(評議会)への権力集中を訴えた。

 

そして1917年10月、ボリシャビキ勢力がケレンスキーの臨時政府を打倒します。ロシアの政体は、それまで下層下級として虐げられていた農民・労働者・兵士の評議会(ソビエト)が全ての権力を掌握するというマルクス主義の思想に基づく社会主義体制を樹立しました。ところで、先程から社会主義共産主義の2つのキーワードが出て来ていますが、両者の違いは何なのでしょうか。それに関しては以下のリンクから勉強してください。

 

トロッキー率いるソビエト軍事革命委員会が臨時政府の冬宮を制圧、翌日のソビエト大会でレーニンが社会主義国家建設を宣言した。

 

国内の主導権を握ったレーニンは、翌1918(大正8)年3月、各国に即時停戦を呼びかけました。そして自らも、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、第一次世界大戦の戦線から脱出しました。

連合国軍の中心であるイギリスとフランスは大きく困惑しました。

 

実はこのレーニンを後押ししていたのは、ロシアと敵対国にあったドイツだったのですドイツがロシアとの講和を狙ってレーニンを後押しし、戦局を打破しようとしたのです。第一次世界大戦は1917年のアメリカの連合国側への参戦によって、それまで形勢が逆転。ドイツは敗北の危機に直面していました。

レーニンのような「反戦」を唱える社会主義者に武力革命を行わせ、ロシアとの間に講和条約を結びたかったのです。

 

ドイツの狙いは大成功。

これによってドイツは東部戦線(ロシア)にまわしてした戦力をイギリスやフランスなどの西部戦線(イギリス・フランス)に集中させることが出来ました。

 

ロシアと連合国軍として戦っていたイギリスやフランスは困惑し、ドイツ軍は3月21日、西部戦線に大攻勢をかけ、英仏両国は撤退を余儀なくされてしまいます。

イギリスとフランスはロシアを「裏切り者」として敵視するようになります。

イギリスとフランスは盟友国である日本とアメリカに援軍を要請しました。

これがシベリア出兵です。

シベリア出兵とは連合国軍による対ソ干渉戦争なのです。

しかし、いくらイギリスやフランスなどの盟友国からの要請だからといって、社会主義体制になったロシアに出兵する理由としては弱いです。ロシアは社会主義政権になっただけで、周りの国に迷惑をかけているわけではありません。一体、なぜ日本はヨーロッパ諸国のシベリア出兵に参加したのでしょうか。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

【共産主義とは?】社会主義と共産主義はどう違うのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】社会主義共産主義」というお話です。

  社会主義共産主義はどう違うのでしょうか。

社会主義共産主義はどちらも資本主義を否定した政治思想です。資本主義とは、その名通り、資本家にとって都合の良い政治や社会のことです。つまり「資本家の国」です。しかし、この資本主義も完璧なしくみではなく、労働者の搾取などの問題点が指摘されました。その問題点を解消するべく現れた政治思想が社会主義共産主義でした。つまり、これらの思想は「労働者の国」を目指した政治や社会のことになります。

 資本主義の問題点を指摘した資本論の著者であるカールマルクスユダヤ系イギリス人)は社会主義共産主義を明確には区別していません。両者はどのように違うのでしょうか。

以下の表にまとめてみました。

社会主義 共産主義
労働者の給料を平等に 労働者の生活水準も平等に
生産手段は国家が保有 国家など存在しない
科学的、実例あり 空想的、ユートピア社会

 それでは解説に入ります。

 社会主義共産主義とは、市場経済を国家によってコントロールする計画経済が思想の中心になっています。もう少し分かりやすくいうと、土地、建物、工場、機械設備などの商品・サービス生み出す生産手段(手段)を全て国が保有・管理・運営をしましょうということです。

 では社会主義共産主義はどうちがうのでしょうか。

 例えばモノを製造する工場には、社長(資本家)がおらず、労働者のみで皆が平等な立場で仕事をします。

 社会主義では給料は労働者全員に均等に配られます。しかし、それをどう使うかは各人に任されます。

 一方、共産主義では給料の均等はもちろんのこと、その使い道も平等にするべきだという考えです。

 社会主義では車を持っている人もいれば、持っていない人もいます。パソコンを持っている人もいれば、持っていない人もいます。高級な家に住んでいる人もいれば、貧相な家に住んでいる人もいます。

 社会主義では給料こそ均等ですが、その使い道による生活水準の違いはやむを得ないとしています。しかし、共産主義ではこのような生活水準の不平等もなくすことを目指しています。

 確かに給料の使い道は個人の趣味や価値観、生き方に左右される部分がありますが、例えば、子育てをしている母親が養育費にお金がかかり、車やパソコンが買えず、不便な生活になってしまうことがあると思います。

 そのような何らかの理由でモノやサービスを購入出来ないという入手機会もなくしていきましょうということです。つまり、共産主義の社会では、人々は協同組合のような生活共同体の中に組み込まれていれ、車やパソコン、家などを共有する理想国家なのです。

 このように共産主義とは貧富の差はもちろんのこと、生活水準も均等にしていくことを目指している政治思想なのです。

 

 また、社会主義では、生産手段は国家が保有るという経済を掌握する権限はすべて国家が持っているので、国家に莫大な権力が集まります。国家と言っても、所詮は人間です。感情や欲というものがあります。感情を持った人間が国をコントロールすると、役人は権力を濫用し、賄賂によって一部の人だけを優遇したり、自分達の退職金を多くするよう仕向けたり汚職事件は絶えず起きることでしょう。

 そこで共産主義では国家や政府など必要ないという考えになっています。そう、共産主義とは、別名・無政府主義(アナーキズム)と呼ばれています。

 

 え?政府がなくなったら、誰が国を統制・管理するのかって?

 確かにそう思うでしょう。人々の統制機関がなくなれば、人々は好き放題に行動し、犯罪や汚職が横行する無法地帯になってしまいます。

 

 ですが、共産主義の社会では、車やパソコン、家などを共有し、人々が不自由のない生活を送っているため、不平・不満・愚痴・泣き言がなくなり、暴動や社会秩序の乱れは起きない(だろう)とする考えをとっています。つまり、世の中の平和は、すべて人々の良心に委ねられているのです。

 

 まぁ・・・このように共産主義は一見、筋は通っていますが・・・・ちょっと過激で危険な思想なのは、皆さんも感じるのではないでしょうか。

 共産主義バクーニンプルードンによって唱えられましたが、あのマルクスでさえ、共産主義は「時期尚早」としました。つまり、実現には相当な時間と労力がいる遠い未来の世界になるとのことです。社会主義国家は誕生しても、共産主義国家は誕生しませんでした。つまり、共産主義とはユートピア社会であり、大変現実離れしています。

 もともと社会主義には空想的社会主義科学的社会主義の2種類があり、マルクス以前は空想的社会主義が唱えられていました。この空想的社会主義こそが共産主義の原型になっています。空想的社会主義はサン=シモン、フーリエ、ロバート・オーウェンなどが唱えました。

 フーリエは万人が万人とセックス可能な共同体を目指すという狂人的な考えをしています。確かにイケメンか不細工かによって異性との交流機会に差が出ることは容易に予想がつきます。このような不公平もなくしましょうということです。

 しかし、このような社会はあくまで理想であり、実現は不可能です。

 一方、社会主義は現実的で、実例があります。それが1922年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)です。ソ連は、レーニンという指導者がロシア革命を起こし、誕生した国家です。

 ということで、次回はロシア革命について話をしていきたいとおもいます。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

日本人のための世界史入門            小谷野敦=著 新潮社

【主婦が抗議!】米騒動はなぜ起きたのか【寺内正毅】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださって、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【主婦が抗議】米騒動はなぜ起きたのか【寺内正毅】」というお話です。

今回もストーリーを展開しながら、「米騒動はなぜ起きたのか」について見ていきたいと思います。

産業革命の影響で米の生産量の減少、米の消費量の増加、さらにヒエや麦からお米を食べたいと思う人達も増えてきました。第一次世界大戦も重なり、米の値段はにわかに上昇していきました・・・・。そんな中、日本はシベリア出兵を開始。さらなる米価高騰を見込んだ米商店は米を買い占め、売り渋るという事態が発生。米が買えなくなったことに不満を持ち、立ち上がったのは、富山県の主婦達でした。米騒動シベリア出兵によって引き起こされたのです。

 

 1918(大正7)年、この年の春先から米の値段はにわかに上がり始めていました。

 なぜでしょう。

 それは農業に従事している人達の割合が減り、工業に従事する人達の割合が増えてきたため、米を生産する農家が減ったのです。

 明治30年代以降、日本にも産業革命が起こり、資本主義社会が急速に発展していきました。今まで手で作っていたモノを機械で作るようになり、大量生産が可能になりました。大量生産は、安価な商品・サービスを可能にし、大量消費社会を実現しました。

 その結果、都市部を中心に人口が増加していきました。

 さらに今までヒエや麦を食べる生活をしていた層がお米を食べたいと思うようになり、米の消費量が増えました。

 そして1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発。イギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国軍と、ドイツ、オーストリアオスマン帝国(トルコ)を中心とした同盟国軍が対立しました。日本は連合国側として参戦しました。人類史上類を見ないこの大戦争の影響でヨーロッパは混乱状態に入り、次第にヨーロッパからの米の輸入が途絶えてしまいました。

 

 このように農業から離れる人が増えたことによる米の生産量の減少、さらに米の消費量が増えたこと。そしてヨーロッパの先進諸国からの米の輸入が減ったことが重なり、米価の価格は高騰したのです。

 

 1918(大正7)年の秋には米が凶作になるのではないかという予測もされたため、米の取引所では米の価格がどんどん上がり始めました。

 1月は1石15円だった米価が6月には20円、7月には30円と、半年のあいだに2倍になるという凄まじい値上がりが発生してしまいました。当時の一般的な社会人の月収が18~25円だったので、これはとてつもない高騰ぶりです。(10升が1斗。10斗が1石)

 

 一方で、労働者の収入はあがりませんでした。当時は労働組合も未成熟であまりない時代ですから労働者の賃金は低く抑えられていました。そんな資本主義社会に不満を持ち、社会主義を提唱する人達が現れるなど労働問題も起きていました。

 第一次世界大戦は日本に大戦景気という大きな恩恵をもたらしました。しかし、その恩恵を享受していたのは資本家であり、労働者ではありません。

 今までは物価が安定していたため、賃金が一定でも困らなかった。

 しかし、米の値段は上がる一方なのに、所得は上がらない。

 家計はどんどん圧迫されていきます。

 

 そして、1918(大正7)年8月2日、日本は猛暑日でした。

 この日は第一次世界大戦の連合国側のイギリスやフランスからの要請を受けて、時の首相・寺内正毅シベリア出兵を決定した日です。実は戦争の当事国で、連合国側として共に闘っていたロシアで革命が起きたのです。

 レーニンを指導者とした革命軍(赤軍)と、旧ロシア帝政の将軍率いる反革命軍(白軍)が対立し、内戦が勃発しました。ロシアで赤軍に捕虜になっているチェコスロバキア軍を救出するという名目で日本はシベリアに軍隊を派遣したのです。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 その翌日、思いがけない事件が富山県で起きてしまいました。

 現在は富山市に含まれる西水橋町で、約200人の女性達(主婦達)が富山湾の浜辺に集まり、集会を開いたのです。夜になると、町の米屋や米を保有している資産家の家などに押しかけて強く訴えました。

「米を売りなさいよ」

「もっと安く売りなさいよ」

「米をよそに運び出すのはやめて。」

 彼女達は嘆願し、座り込みをやりました。

 彼女達は艀(はしけ)で働いており、沖合に停泊していた船に野菜や米を運び、逆に北海道などからくる魚や昆布を浜辺に陸揚げしていました。出稼ぎで漁にでかけたものの、不漁に泣く夫に代わり、主婦達は一家の生計を支えていたのです。その彼女達が米価高騰に対する不満から遂に抗議したのです。

 シベリア出兵に伴い、軍隊への米が必要になり、ますます米は足りなくなります。すると、米価はさらに上昇していくでしょう。それを見越した米商人は米の買い占め、さらに売り渋りを始めました。このまま売らずに置いておけば、さらに米価が高騰し、大儲け出来るだろうと考えたのです。

 しかも鉄道の開通により、艀の仕事が激減するという地方独自の問題も発生しており、怒りが一気に爆発したのです。

 東京からみればいわゆる「地方のささやかな抵抗」ですが、この時代には珍しい女性達の直接行動とあって各新聞社は大々的に取り上げました。

「女房連が米価冒頭に大運動」(東京朝日新聞

 

 この時代はただでさえ、労働運動やストライキ社会主義の提唱などが多発する物情騒然とした時代です。まして米という食に対する切実な要望なだけに全国的な騒動に発展していきました。これが米騒動です。

 6日には隣の骨川町(現・骨川市)、8日は高松市岡山市へ飛び火し、9日は大阪で若者が米屋を襲撃するなど関西一円に広がりました。

 当時の都会の裏長屋などに住んでいる人達は、真夏の暑い時期ですから、都会の裏長屋に住んでいる人達は、家の中にいると暑くてたまらない。外に出てぶらぶらしている方が涼しいです。なので、みんな夕涼みと称して、外に出ていました

 そんな中、「あそこの米屋に押しかけろ」と誰かが音頭をとると、みんながわっと米屋に押しかけていくのです。

 最大の騒ぎになったのは12日の神戸市でした。完全に暴徒化した約250人が、神戸港に近い貿易商社「鈴木商店」本社に火をつけ、襲い、放火して全焼させてしまいました。鈴木商店は米屋ではありません。第一次世界大戦の最中、ヨーロッパで鉄などを買い占め、造船会社に高く売り、さらに、そこで造られた船をヨーロッパに高く売るなどして大きな利益を得ていました。

 こうなると米騒動というより格差拡大に対する庶民の怒りの爆発です。

 

 結局、全国の数百の町で騒ぎが起こり、暴動の広がりをおそれた寺内正毅内閣は軍や警察を動員して鎮圧にあたり全国で約2万5千人を検挙しました。さらに新聞の米騒動の報道禁止、外国産米を市場に放出するなどし、対応しました。

「一体誰がこんな騒ぎを計画しているのだ。指導者は誰だ。絶対黒幕を暴きだしてやる。」

 怒り狂う寺内に対し、元老の西園寺公望は言いました。

「落ち付きたまえ、寺内殿。これは計画的なものではない。米価が上がり、所得が低く、生活に苦しむ全国民共通の感情表現だ。」

 全国的に起きたこの米騒動を警察や軍隊で鎮圧するという強権的にしか事態収拾出来ない寺内内閣に対し、政党や世論の批判が強まりました。 

「どうも軍人政治家は暴力的で支配的な方法でしか事態を収拾出来ない。もう軍部の政治はうんざりだ。もっと庶民(平民)視点の政治が出来る人が欲しいものだ。」

 

 前年にはロシア革命が起きたばかりで、対外危機に立たされている寺内内閣は民衆から猛烈な非難を浴びました。これ受けて、元老で当時最高責任者であった山県有朋は寺内に責任をとって総辞職するよういいました。

 寺内内閣は、当時最高権力者である山県有朋と同じ長州藩山口県)の出身で、山県の直系の部下であり、立憲政友会と組んだその前の山本権兵衛と違い、政党とは距離を置く「超然内閣」でした。山県は政党嫌いで、寺内はそんな山県の意に沿う政権を行ってきました。にも関わらず、山県は寺内を突っぱねたのです。

 

 1918(大正7)年9月4日、寺内は正式に首相を辞任。寺内内閣は総辞職しました。

 山県は、次の首相を誰にするかと考えます。

「民衆の反発を抑えるためには、平民出身の原を総理大臣として担ぎあげるしかない」

 さあ、いよいよ平民宰相と呼ばれ、国民が歓迎する原敬が日本史に登場してきます。

こうご期待。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著  草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞