日本史はストーリーで覚える!

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【学問のすすめ】福沢諭吉がアメリカで発見した素晴らしい概念とは

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【学問のすすめ福沢諭吉がアメリカで発見した素晴らしい概念とは」というお話です。

西洋の文明を学ぶため 福沢諭吉勝海舟らと共にアメリカに渡ります。そこで諭吉は素晴らしい概念を見つけます。「どうやらアメリカには平等という概念があるようだ。」彼はアメリカ独立宣言を引用し、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名はセリフを残しました。この概念は当時の人々には画期的で著書学問のすすめは空前の大ベストセラーとなりました。

 

  日本で最初に太平洋横断を達成した人達をご存じでしょうか。実は明治の岩倉使節団の10年前に太平洋横断に成功しているのです。

 それが勝海舟を艦長とした咸臨丸(かいりんまる)です。今回は咸臨丸に同乗した福沢諭吉のストーリーを展開していきたいと思います。

 

 1853年のペリー来航以来、日本も西洋の技術を取り入れ、列強と同等の立場になろうとする気運が高まりました。それまで蘭学者を弾圧していた幕府は手のひらを返したように蘭学の普及を急ぎました。

 

 江戸に蘭学塾を開いていた勝海舟はそんな数少ない蘭学者の一人でした。

 また、緒方洪庵の適々塾で蘭学を学び、江戸築地に蘭学塾を開いた福沢諭吉蘭学者として幕府から重宝されました。

両者は同じ蘭学を志した先輩と後輩であり、共に幕閣へと昇任しました。

 

 その後、1860年早々、大老伊井直弼が反対派の意見を押し切って日米修好通商条約の調印を踏み切ったことで批准のためアメリカに使節を派遣する必要が出てきました。

 その内容は幕府の艦隊に日本人が乗り込み、本国に帰還するアメリカ軍艦に随行するカタチで太平洋を横断するという壮大なもので、随行には勝海舟率いる咸臨丸が決定しました。

 これは西洋の文明を学びとる絶好のチャンスです。

 蘭学に精通していた福沢も同乗を許可され、一行は1860年1月22日にサンフランシスコに向け、浦賀港を出発しました。

 

 咸臨丸の排水量は約630トン。現代の船でたとえると少し大き目の漁村程度。ペリーが乗っていた艦隊の4分の1程度の大きさに過ぎませんでした。しかし、日本人は西洋式の蒸気船に乗り込み、なんとか太平洋横断を成功させました。黒船来航からわずか6年余りで日本は蒸気船を手に入れ、その使い方をオランダ人から学び近代海軍の礎を築きあげたのです。勝や福沢を含めた多くの蘭学者は黒船来航以前から蘭書を通じて西洋の艦隊の存在を知っていました。

 幕府の厳しい弾圧に耐えながら、懸命に艦隊の基本的構造を勉強していた蘭学者がいたからこそ日本は短期間で海軍の雛形を作り上げたのです。

 

 さぁ無事アメリカに到着した一行は現地で盛大な歓迎を受けます。様々な西洋の料理やレセプションセレモニーなど福沢の目には全てが新鮮に移りました。

 

 福沢が最も驚愕したのは、アメリカの初代大統領・ジョージワシントンの子孫を特別視していない点です。初代大統領とは、日本でいう徳川家康のことを指しますが、たとえ大統領の息子であっても大統領の後を継ぐことはありません。大統領になるには、勉学に励み、思考力を鍛え上げ、実力や実績を残し、多くの人々から支持され、大統領選挙に当選する必要があります。それは大統領の子孫であろうと特別視されません。

 当時の徳川将軍家は完全世襲制度であったため、福沢は精神に大変刺激を覚えます。

 

 さらに福沢が驚愕したのは、女性の地位が高いことです。何やら「レディーファースト」という考えもあるようで、常に男性が女性をエスコートしているのです。当時の日本では絶対にありえない。バリバリの男尊女卑の日本では、女性はほとんど男性の付属物としかみられていませんでした。

 アメリカには既に「平等」という概念が定着しており、日本のほ身分による差別や序列といった封建制度とは無縁の世界が広がっていたのです。

 

 ますますアメリカに興味を持った福沢はアメリカがいかにして生まれた国なのかを調べ始めます。

 アメリカ独立戦争の際に第3代大統領・ジェファソンによって草起されたアメリカ独立宣言を読ませてもらうことに成功。そこには自然法思想に基づいた基本的人権と革命権を唱えていました。

「どうやら西洋には平等という概念があるようだ。」

 

 帰国した福沢は学問のすすめの執筆を始めます。福沢はこう言います。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と。

 人は生まれがらに平等という権利を有しており、その権利は決して侵すことは出来ない。では、なぜ貧富のの差が生まれてしまうのでしょうか。それは勉強したかしなかったかの違いだと福沢は言います。

 生まれながらにして貴賎貧富の差などないのだ。ただ、「学問に勤めて物事をよく知る者は貴人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」(学問のすすめ

 勉学に励みなさい。そうすれば身分を問わず、どんな人間でも立身出世が出来る。

 この言葉は、当時の青年達には刺激的で学問のすすめは累計300万部を売り上げる大ベストセラーとなり、貸本や写本によって多くの人々に読まれ、絶大な影響を与えることになりました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

早わかり 幕末維新     外川淳=著 日本実業出版社

教科書よりやさしい世界史        旺文社

【社会契約説】なぜルソーの思想は過激と言われているのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【社会契約説】なぜルソーの思想は過激と言われているのか」というお話です。

 

 今回の主人公は社会契約説の3人目であるフランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソー(1715~1778)です。

 今回もストーリーを展開しながら、解説をしていきたいと思います。

 

 本題に入る前に社会契約説における前提知識を復習しておきます。

 私達は一人で生きていくことは出来ません。

 そこで人々は社会を形成し、みんながそれぞれの役割分担をするようになりました。しかし、社会を作った以上、集団生活となるため、必要最低限のルールや決まりを守らなければいけません。このような人間が生きていく上で必要最低限のルールや決まり、法律のことを自然法と言います。

同時に人間には以下のような欲求があります。

「安心して暮らしたい」

「自由に物事を決めたい」

「豊かに暮らしたい」

「自分の財産を守りたい」

 生命、自由、平等、財産などの人間が生まれながらに持っている欲求を自然権と言います。

 社会はこの自然法自然権を人々に保証するために形成されました。これが社会契約説の基本的な考えです。

この自然法自然権を前提知識として覚えておいてください。

 

 1715年、時計職人の子として生まれたルソーですが、母親はすぐに死んでしまいます。父と兄は犬猿の仲で、貧しい家庭であり、ルソーは不遇な少年時代を過ごします。様々な職業に就くも、どれも長続きせず、浮浪児となってしまいます。

 そんな中、フランスの上流階級の夫人に保護され、独学で哲学や文学、歴史、音楽などを学びます。38歳の時に当選した懸賞論文がきっかけで思想家デビューを果たします。ただ、その後もサロンを経営する上流階級の夫人達を渡り歩き、困ったら得意の音楽で身を立てたりしながら執筆活動に励みます。

 

 今回紹介する思想はルソーが1762年に刊行した『社会契約論』の中で述べられているものです。ルソーの社会契約とはどんなものなのでしょう。

 ルソーの思想は、かなり独特で過激な思想だと言われています。これは不遇な少年時代を送った彼ならではの思想なのでしょう。文明社会の悪徳や不平等を痛烈に批判しています。

 

 ルソーと言えば、有名な言葉で「自然に還れ」というものがあります。これは文明社会を否定し、太古の昔に実現していたような平等や愛によってもたらされた人々の幸福を願った考えからきています。

 太古の昔、人類はみんなでマンモスを狩り、みんなでその肉を分け合っていた時代は、差別や搾取などなく、みんなが平等で愛や平和が実現していたと言います。

  つまり、人間は本質的に善であり、素朴な自己愛と他者に対する思いやりの情が備わっているということです。

 

 ところが、文明社会への移行に伴い、人々は悪徳や不平等、競争や嫉妬などによってゆがめられた状態へと堕落したと

 例えば、土地の私有化です。

「ここは私の土地だ。勝手に入るな。出ていけ。」

 私自信も子供の頃、近所のカミナリオジサンから怒られたことがあります。しかし、「地球はみんなのものなのに、なんで私有地なんてものが存在しているのだろう」と子供ながらに考えていました。

 

 ルソーによると、このような土地の私有化とそれを法律で固定化(合法化)したことで、社会的な不平等を生み出したと主張しています。文明社会への移行は、本来自由で平等であるはずの人間を「鉄鎖」につないでしまい、平等や愛による幸福が失われた堕落であると。

 

 そこで、ルソーは人間本来の自由回復のため、新しい原理に基づく社会契約説を唱えました。

 さぁ、「契約」という言葉が出てきました。誰と誰が契約しているのでしょうか。

 国民と国民です。国民同士が互いに契約しているのです。

 なぜ国民同士が契約を結んでいるのでしょうか。またどのような契約を結んでいるのでしょうか。

 社会とは人々の「一般意志」を表すものでなければならず、それは国家や国民に権利を譲渡したり、代表者を決めて政治を行う間接民主制では実現出来ないとしました。

 一般意志とは何でしょうか。

 一般意志とは公共の利益を目指す考えのことで、対義語は特殊意志と言い、私益を目指す考えのことを指します。

 例えば、先程のカミナリオジサンの場合、自分の土地を私益目的で、スーパーやコンビニを経営するのではなく、公共の利益のために公園や老人ホームを造らなくてはならないのです。

 

 人々は私利私欲を放棄し、共同体の一般意志に全面的に服従しなくてはならないのです。

 そして、この国家は一般意志に従って、統治しなければならないのです。

 いかがでしょうか。かなり過激なものだと思います。

 ルソーの気持ちはわかります。彼は不遇な少年時代を過ごしたことで、社会の不平等や競争、嫉妬などに不満や違和感を感じていたのでしょう。

 しかし、実現は現代でも不可能です。

 人間には一般意志と特殊意志が混ざり合っており、そこから一般意志だけを取り出すことが出来ないのです。人間には他人の幸せを願う一方で、自分の欲を満たしたいとも思っています。

 さらに官僚側も、公共の利益だけを目的に政治運営することも不可能です。公務員の方々だって、賞与は欲しいし、歳出削減の為に賞与は我慢なんて出来ないでしょう。

 

 ルソーは人々から一般意志だけを取りだすためには、間接民主制のような代義士による政治では実現しえないので、国民全員が法律の制定や審議、採決に参加出来る直接民主制を唱えています。

 直接民主制に関してはインターネットが普及した現在では可能なのではないかと思う人もいるみたいですが、不可能です。物理的には可能でも、実現は無理でしょう。

多数決になると、どうしても大衆側が有利になるので、逆に官僚側にとって厳しい法律や制度ばかり出来てしまいます。そうなると官僚希望者がいなくなって社会が機能しなくなってしまいます。

 

 以上のことから彼の思想はユートピア幻想であり、実現するのはかなり難しいでしょう。

 しかし、このフィクションが1789年に起きるフランス革命に大きな影響を与えます。当時としては画期的な直接民主制を唱える彼の思想はフランス革命の中でも過激派であるジャコバン派に大きな影響を与えました。

 そう、フィクションが現実化してしまったのです。いつも私が主張しているような時代が思想を生むのではなく、思想が時代を生んでしまったのです。したがって、ルソーの思想は危険思想というレッテルを貼られたのです。

 

  フランス革命によって絶対王政は打倒され、共和制が誕生するわけですが、その20年後にはナポレオンという強力な支配者が登場します。やはり人々には強いリーダーが必要ということですね。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

すっきりわかる!超解「哲学名著」事典     小川仁志=著 PHP文庫

図解雑学 哲学                貫成人=著  ナツメ社

考える力が身につく 哲学入門         畠山創=著  新潮新書

世界のエリートが学んでいる 教養としての哲学 小川仁志=著 PHP

【社会契約説】政府は不要!?なぜロックは政府を必要悪とみなしたのか

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【社会契約説】政府は不要!?なぜロックは政府を必要悪とみなしたのか」というお話です。

 

 今回の主人公は社会契約説の2人目であるイギリスの思想家、ジョン・ロック(1632~1704)です。

その上で、「政府は不要!?なぜロックは政府を必要悪とみなしたのか」を見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。

 

 本題に入る前に社会契約説における前提知識を復習しておきます。

私達は一人で生きていくことは出来ません。

そこで人々は社会を形成し、みんながそれぞれの役割分担をするようになりました。しかし、社会を作った以上、集団生活となるため、必要最低限のルールや決まりを守らなければいけません。このような人間が生きていく上で必要最低限のルールや決まり、法律のことを「自然法」と言います。

同時に人間には以下のような欲求があります。

「安心して暮らしたい」

「自由に物事を決めたい」

「豊かに暮らしたい」

「自分の財産を守りたい」

生命、自由、平等、財産などの人間が生まれながらに持っている欲求を自然権と言います。

社会はこの自然法自然権を人々に保証するために形成されました。これが社会契約説の基本的な考えです。

この自然法自然権を前提知識として覚えておいてください。

 

 1651年、日本では江戸幕府3代将軍・徳川家光の厳しい武断政治により、諸大名はおとなしくなり、平和な江戸時代の礎が出来上がりました。やがて、4代将軍・徳川家綱の治世になろうとしていまいした。

同じ頃、イギリスでは、国王であるジェームズ1世のイングランド国教会を強要するなどの専制政治を行っていました。これに不満を持っていた異教徒のピューリタンが革命を起こします。1641年に勃発したピューリタン革命です。

イングランド国教会は王党派として、ピューリタンは議会派として2つのグループに分かれ、内戦はおよそ10年間続きました。当初は王党派が優勢でしたが、徐々に議会派が勢力を伸ばします。その中心にいたのが、規律正しい鉄騎隊を率いたクロムウェルという人物です。

革命は議会派の勝利で終わり、ジェームズ1世は処刑。絶対王政が倒れたことで、イギリス史上最初で最後の共和制が誕生しました。

 

 

そんな中、イギリスの中産階級の子として生まれたジョン・ロックは、オックスフォード大学で哲学・医学を学んでいました。彼も敬虔なピューリタンだったため、共和制の誕生を喜びました。

 

しかし、ピューリタンとはキリスト教の中でも禁欲的で「質素・勤勉」を美徳とする思想でした。クロムウェルはこのピューリタンの思想を国民に押し付けます。

これに嫌気がさしたイギリス国民は1658年、クロムウェルの死後、オランダに亡命していたチャールズ2世をイギリスに呼び戻し、王政復古が実現します。

 

国内のピューリタンは肩身の狭い思いをし、これと同時にロックはオランダに亡命します。

 

しかし、チャールズ2世も、その次のジェームズ2世も絶対王政を利用し、強行な専制政治を行ったため、1688年に再び革命が起きます。名誉革命です。

 

イギリス議会はジェームズ2世を追放し、代わりにオランダからジェームズ2世の娘メアリとその夫オラニエ公ウィレムを招き、共同君主メアリ2世・ウィリアム3世として即位させました。この名誉革命はほとんど戦闘のないクーデタだったので「名誉」と呼ばれています。

もう国王に専制政治を行わせないように権利の宣言に署名させ、権利の章典として発布させます。これによってイギリスでは国王が王権を濫用し、無理な命令を出さないよう議会が王権を制限する議会政治が誕生しました。

 

名誉革命の翌年に帰国したロックは、この名誉革命に感銘を受け、著書『統治ニ論』を出版し、名誉革命を正当化しました。

この『統治ニ論』に彼の社会契約説が展開されています。

 

 

ロックの「社会契約説」はいかなるものなのでしょうか。

「契約」という言葉が含まれているため、誰かと誰かが契約をしているのです。

誰と誰でしょうか。

国家と国民です。国家と国民が互いに契約を結んでいるのです。

なぜ国家と国民が契約を結んでいるのでしょうか。またどのような契約を結んでいるのでしょうか。

前回のホッブズは国民同士の契約でした。ホップズによると、人間は基本的に利己的なので自然権を持たせると、私利私欲を満たすため、互いに財産の奪い合いをしてしまい、社会秩序が乱れ、自然法が機能せず、かえって各人の自然権が危うくなると述べました。そこで、国民は互いに約束をしました。「奪い合いや争いはやめよう。欲望を捨てて、互いの生命や財産を尊重しあうようにしよう」と。つまり、自然権を放棄させたのです。

 

放棄した自然権は全て国家に譲渡し、国家は絶対的な君主として国民を統治し、自然法を確立させ、各人の自然権を保証するべきだと結論付けました。

 

しかし、今回のロックはホップズとは逆の主張をしています。ロックによると、人間は自然権を持っていても、争いなどせず、他者の権利を侵害してならないという理性のもと、平和を保とうとするものだと主張します。なので、国民同士が約束する必要も、自然権を放棄する必要もないと述べました。つまり、ホッブズは人間に対し、性悪説を唱えているのに対し、ロックは性善説を唱えています。

 

しかし、これだけでは人々の平和は不完全です。

 

そこで、国民と国家が互いに契約を結ぶ必要があります。どのような契約なのでしょう。国民は国家に対し、ある権限を委託します。

国民が持つ自然権とは「自由や平等」のことですが、国民の中には、それを間違えて解釈する人が現れます。「自由」と「好き勝手」は全く違います。そこで、国家は好き勝手に振る舞ったことで社会の秩序を乱し、自然法を脅かした者を厳しく罰しなくてはいけません。そこで国家は法律を制定し、(立法権)その法律を実施(執行権)する権限を有する必要があります。

 

 

一方、国家も国民に対し、ある権限を委託します。それは国家が権利を濫用し、無理な命令を国民に下した場合、国民は抵抗する権限と革命を起こす権限です。

 

つまり、国家は国民に対し立法権と執行権を。国民は国家に対し抵抗権や革命権をそれぞ

れ有しているという契約です。

しかし、ロックは国家が有する立法権と執行権を分立させることを主張しています。権力を分散させることで、国家が権力を濫用することを防ぐのです。後にモンテスキュー司法権を加えた三権分立を唱えます。現在の日本でも国会(立法)、内閣(執行)、裁判所(司法)がそれぞれ3つの権力として分立しているので、イメージしやすいとおもます。

 

とこで、ホッブズ絶対王政を支持し、主権は国王にあるとしましたが、対するロックは、「王様の権利は神から授かったもの。なので、王様の言う事は絶対!!」という王権神授説を否定。主権は国民にあるとしました。

 

しかし、主権は国民にあると言っても国民全員が政治に参加することは物理的不可能です。

そこで、国民が代表者を選び、その代表者が代わりに政治を行うとする議会制民主主義(間接民主主義)を唱えました。これは現在の日本にも取り入れられているので、皆さんもイメージしやすいと思います。

 

では改めて、なぜロックはなぜ政府を必要悪とみなしたのでしょうか。

人間は基本的に良心的で他者に対して寛容であると考えたロックは、政府などなくても社会はしっかりと機能すると考えたからです。したがって、ホッブズが言うような人々が自然権を放棄する必要は全くありません。しかし、その自然権を間違えて解釈する人がいるので、その違反者を処罰するために国家は必要であるということです。

 

今回はロックの思想について紹介してきましたが、大変奇麗な彼の理論は、完璧ではありません。それは現在、日本に暮らしている私達はよく知っています。

特にロックが主張した議会制民主主義は悪徳や不平等が横行し、競争や嫉妬によるゆがめられた状態へと堕落しています。

政治の世界は基本的に限られたパイの奪い合いなのです。議員の人数は決められているので、選出された勝者がいれば必ず落選した敗者がいます。さらに議員の給料も全て税金という限られたパイを議員同士で分け合うことになります。限られた人数で限られたパイを奪い合う政治空間では、「政治とカネ」の問題が絶えることはありません。

 

これらの点がビジネスの世界と大きく異なる点です。例えば、商品を作る製造部門と、その商品広げる卸部門が手を組み、ヒットすれば儲けは無限大です。

 

このように政治の世界は非常に割に合わない世界です。

実はこのことを当時の段階から指摘していた人物がいます。ジャル=ジャック・ルソーです。ということで次回はャル=ジャック・ルソーの思想をご紹介します。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

対話で入門 西洋史  赤阪俊一=著   森話社

日本人のための世界史入門 小野野敦=著 新潮新書

教科書よりやさしい世界史  旺文社

【社会契約説】なぜホッブズは絶対王政を支持したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【社会契約説】なぜホッブズ絶対王政を支持したのか」というお話です。

 今回の主人公は社会契約説の先駆者であるイギリスの思想家であるトマス・ホッブス(1588~1679)です。

 その上で、「なぜホップズは絶対王政を擁護したのかを見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。

 

 本題に入る前に社会契約説における前提知識を復習しておきます。

 突然ですが、あなたはたった一人で生活することが出来ますか。想像してみてください。一人で食料や飲み水を確保しなければならなかったり、洋服や住居も一人でつくらなければいけません。

 どうでしょう。きっと限界があるはずです。

 そこで人々は社会を形成し、みんながそれぞれの役割分担をするようになりました。そうすれば、みんなに食べ物が安定的に供給され、洋服や住居も、もれなく行き渡ります。

 しかし、社会を作った以上、集団生活となるため、必要最低限のルールや決まりを守らなければいけません。このような人間が生きていく上で必要最低限のルールや決まり、法律のことを「自然法」と言います。

 同時に人間には以下のような欲求があります。

「安心して暮らしたい」

「自由に物事を決めたい」

「豊かに暮らしたい」

「自分の財産を守りたい」

 生命、自由、平等、財産などの人間が生まれながらに持っている欲求を自然権と言います。

社会はこの自然法自然権を人々に保証するために形成されました。これが社会契約説の基本的な考えです。

この自然法自然権を前提知識として覚えておいてください。

 

今回紹介するイギリスの学者・思想家であるトマス・ホッブスは人々に自然権自然法を保証するために社会はどうあるべきかと説いているのでしょうか。

それではストーリーをはじめます。

 イギリスの思想家であるトマス・ホッブズの社会契約説の最大の特徴は絶対王政を擁護している点です。ホッブズによると人間は本来、利己的で欲望のままに行動するという性悪説と唱えており、そんな人々の利己心を制御し、平和を維持するためには、国王という強大な権力者が必要であると論じました。

 

  16世紀後半のイギリス(以下、イングランド)では、エリザベス1世のよる絶対王政の時代が続いてしました。

 絶対王政とはキリスト教に基づく理論である王権神授説のもと、全ての権限は国王が持っており、その国王が人々を臣民として統治する政治形態のことです。

 つまり「国王の権利は神から授かったもので、国王の命令は絶対命令!」ということです。

 

 このように聞くと絶対王政とは、いかにも強欲な国王が自分の私利私欲を満たすために専制政治を行い、人々に重い納税や労働を課す支配的なイメージを持ってしまいがちです。

 しかし、絶対王政とは「諸刃の剣」です。エリザベス1世のような人格者であれば、少なくても国は平和になり、経済も文化も活発になっていきます。現にこの時代はイングランドの黄金時代と呼ばれており、政治や軍事、経済、文化において大きな功績を残すことが出来ました。(詳しくは以下の記事より)

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

  ホップズが生まれた1588年はちょうどエリザベス1世の治世でした。ホップズはイングランド国教会の牧師の子として生まれ、オックスフォード大学を卒業後、貴族の家庭教師や、あのフランシス・ベーコンの秘書を務めるなど政界に身を置きます。一方で大陸に渡って、ルネ・デカルトガリレオ・ガリレイとも触れ合い、当時の近代的で科学的な学問にも触れています。

 

 そんな中、1603年のエリザベス1世が死去しました。新国王となったジェームズ1世絶対王政を利用し、独断・専制政治を行いました。人々は次第に宗教的な不満や政治的な不満を強め、不安定な時代が訪れてしまいました。

 人々がそんな絶対王政に疑問を抱いていた頃に、ホップズは絶対王政を支持していました。当時のイングランドは国王を支持し、絶対王政の継続を願う王党派と、国王を倒し、共和制を築こうとする議会派に分かれてしました。

 ホップズは絶対王政の支持者として議会派から激しい迫害に遭います。

  そして王党派と議会派が激突するピューリタン革命が起きる直前、ホップズはフランスに亡命します。1640年のことでした。

 フランスでの亡命生活は11年にも及びましたが、彼はそこである著書を執筆し、ピューリタン革命が一段落した1651年にイギリスに帰国。亡命中に執筆した書物をリヴァイアサンというタイトルで刊行しました。

 このリヴァイアサンにこそ彼の「社会契約論」が展開されています。

 

 ホップズの「社会契約論」はいかなるものなのでしょうか。

 「契約」という言葉が含まれているため、誰かと誰かが契約をしているのです。

誰と誰でしょうか。

 国民と国民です。国民同士が互いに契約を結んでいるのです。

 なぜ国民同士が契約を結んでいるのでしょうか。またどのような契約を結んでいるのでしょうか。

 

 ホップズによると、人間は基本的に利己的であり、利益や財産の獲得において各人が他人を押しのけてでも獲得しようとする競争や奪い合いが発生するとされています。ホップズはこれを「万人の万人による戦い」と表現しました。その結果、かえって社会秩序が乱れるだけでなく、各人の生命や財産などの自然権まで脅かされてしまうといいます。

 おそらく、ピューリタン革命による王党派と議会派の激突を目の当たりにしたホッブズはそのように感じたのでしょう。

 

 16世紀の日本は、ちょうど安土・桃山時代でした。少し前は、戦国時代と呼ばれており、私利私欲にまみれた全国各地の大名が自らの勢力を拡大しようと、他者の領土や財産の奪い合いをしていた時代です。それは大名同士の戦いだけにとどまらず、小国の領主や兵士など身分制度を超えて成り上がろうとする下剋上の風潮も強くなりました。その結果、争いが続き、人々は絶えず生命の危機や財産喪失の不安を感じていました。

 

 では、どうすれば「万人の万人による戦い」はなくなり、各人の自然権は保証されるのでしょうか。

 

 ホップズによると、人々は自然権を全て放棄するべきだと説いています。その理由は先述の通り、人は基本的に利己的で強欲だからです。強欲であるがゆえに、人間は放置しておくと互いの私利私欲を満たすために争いをしてしまうのです。

 

 そこで、人々は互いに約束するのです。「奪い合いや争いはやめよう。欲望を捨てて、互いの生命や財産を尊重しあうようにしよう」と。つまり、自然権を放棄させるのです。

 では放棄された自然権はどうするのでしょうか。

  自然権は全て国家に譲渡してしまうのです。

 そして、人々は「臣民」として強大な権限を持つ国家に絶対服従する。その代わり、国家は人々が欲望のままに争いを起こさないかどうかを監督する役割を担うのです。その手法は旧約聖書に出てくる怪物「リヴァイアサン」のような強大で人々が恐れおののくようなものであるべきだとしました。その結果、社会秩序が保たれ、個人の生命や財産、自由などの自然権も保証されるのです。

 

 さて、強大な権限をもつ国家をホッブズは「リヴァイアサン」という怪物に喩えていますが、この強大な権限をもつ国家こそ、絶対王政の政治形態そのものになります。

 

 改めて、なぜホッブズ絶対王政を擁護したのでしょうか。

 そうですね。人は基本的に利己的で強欲だからです。強欲であるが故に「万人の万人による戦い」が生まれてしまうのです。そこで絶対的な権限をもつ国王が統治することで人々の平和と権利が保証されるのです。

 

 日本でも、戦国時代のような不安定な時代を織田信長豊臣秀吉徳川家康のような強力な支配者が現れ、結果的に徳川将軍家という絶対的な権限を持つ支配者が統治したことで、天下泰平の世が築かれたのです。

 絶対王政では人々は自由でもなければ平等でもありません。しかし、少なくても平和は維持されます。現に江戸時代という260年間は争いのない平和な時代でした。

 

 帰国後のホッブズは政界から離れ、ひたすら学問研究に励むようになりました。

 ホップズ社会契約論の最大の特徴はこの絶対王政という政治形態を肯定している点です。

 

 そもそもなぜ、国王には絶大な権限が与えられているのでしょうか。そうですね。キリスト教に基づく理論であった王権神授説が原因でしたね。この王権神授説を否定し、新たに社会契約論を展開した思想家が現れました。それがジョン・ロック(1632~1704)です。

 

 ということで、次回はジョン・ロックを主人公に社会契約論を解説しながらストーリーを展開していきます。お楽しみに。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

図解雑学 哲学            貫成人=著 ナツメ社

考える力が身につく 哲学入門     畠山創=著 中経出版

すっきりわかる 超解「哲学名著」辞典 小川仁志=著 PHP文庫

教科書よりやさしい世界史              旺文社

【社会契約説】市民革命を現実化してしまった思想

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【社会契約説】市民革命を現実化してしまった思想」というお話です。

社会契約説とは何でしょうか。

簡単に説明します。

社会契約説とは『契約』という言葉が含まれていますが、誰かと誰かが約束をしているのです。

誰と誰でしょうか。そう、国家と国民です。

では、その両者は互いに何を約束しているのでしょうか。

そう、自由と平等です。国家は国民の自由と平等を約束するために権力が与えられ、国民もその権力を国家に委ねているのです。

 

なぜこのような思想が生まれ、当時の社会にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。今回は社会契約説の生まれた経緯と、社会におよぼした影響を説明したいと思います。

 

社会契約説とは啓蒙思想自然法思想が融合したことで誕生した思想です。自然法思想とは、人間が生まれながらに持っている自由と平等の精神のことで、この思想を後ろ盾にアメリカ独立革命フランス革命などの市民革命を現実化したのです。

 

  ところで私達は小学校や中学校で理科と社会を学んでいます。何のために学んでいるのでしょうか。

理科は、自然がどのような姿をしているのか。また、どのような法則で動いているのかを知り、その自然を改良・加工し、私達の生活を向上させるにはどうすれば良いか考えるためです。

社会は、人間社会がどのような過程で誕生し、どのように変化し、現在どのようなしくみになっているのかを知り、私達の福祉を向上させるにはどうしたら良いか考えるためです。

 

これと同じ動きが17世紀の世界でも起こりました。

それまでは神がこの世を創造し、神の意図によって自然は動き、神をトップとした完全ピラミッド社会が形成されていました。

しかし、14~16世紀のルネサンス宗教改革を経て、神中心の立場からではなく、人間中心の立場から自然や社会をとらえ直そうという動きが活発に起こりました。

17世紀に入ると自由と平等を人間社会の中に実現しようとする動きが現れました。

 

社会契約説は啓蒙思想自然法思想の2つの概念が融合して出来た思想です。

啓蒙思想とは何でしょうか。また、自然法思想とは何でしょうか。

1つずつ解説していきます。

 

  啓蒙思想とは「眼を覚ます」という意味が込められています。それまで見えていなかったもの、または、見ようとしなかったものを新たに見ようとする考えのことです。

  例えば、不慮の事故で多くの人々が亡くなったとします。従来であれば、「神の深い思し召しがあってのことだ。受け入れなくてはいけない」という迷信によって片付けていました。

 しかし、人間中心になったことで事故の原因を調べて、因果関係を分析し、合理的に追求していこうとするようになったのです。

 このように迷信から眼を覚まし、見えていなかったものが見えるようになったのです。

 

 続いて自然法思想について解説します。

 自然法の対義語は実定法です。実定法とは人間が制定した決まりやルールのことで現在の憲法や法律、条例のことです。

 対する自然法は人間が制定した実定法以前に存在したであろう決まりやルールのことです。太古の昔、まだ国家というものがなく、各地には小国や村が点在しており、それぞれが集団を作って生活していた時代。まだ憲法や法律などは制定されていません。

 しかし、「人を殴ってはいけない」、「人をだましてはいけない」などはあえて憲法で定めるまでもなく、全ての人間が知っている普遍の真理です。おそらくどの村でも共通のルールだったことでしょう。人間には良心が自然と備わっており、してはいけないことくらい生まれながらに知っています。

 

では「自由」と「平等」はどうでしょう。「人間は物事を自分の意志で自由に決めたい」とか「平等に扱われたい」という欲求を生まれながらにもっているのではないでしょうか。 社会契約説では、この自由と平等の精神も全ての人間に備わっている欲求だとしています。もはやそこに理由などありません。

あなたも「物事を自分の意志で自由に決めたい」と思っているだろうし、「平等に扱われたい」とも思っていることでしょう。

 

  しかし、人類の長い歴史の中で、人々が自由で平等になった時期は、本当に最近のことです。それまでは人間は生まれながらに尊卑の差があり、身分をわきまえた職業に就かねばならず、職業を選択する自由も、自分の考えを表現する自由もありませんでした。

 例えば、キリスト教の教えでは、人間は原罪を背負って生まれてくるため、過酷な労働によってその罪を償わなくてはいけないとされてきました。

 他にも奴隷制社会や封建制社会など人間社会の歴史は差別と搾取の世界が広がっていたのです。人間が生まれながらに持っているはずの自由も平等も全て抑圧されていたのです。

社会契約説は、啓蒙思想による神からの解放と、自然法思想という人間が生まれながらに持っている精神を融合させた思想なのです。そして、自由と平等の精神を個人の権利として正式に認め、その権利を保護するのが国家の役割であると唱えています。

 

この社会契約説に基づき、政治や国家はどうあるべきかを3人の思想家がそれぞれの考えを主張しました。イギリス人のトマス・ホッブス(1588~1679)、同じくイギリス人のジョン・ロック(1632~1704)、そしてスイス生まれのフランス人、ジャン=ジャック・ルソー(1712~1788)です。次回以降、この3人の思想を詳しく紹介していきますので、お楽しみに。

 

社会契約説とは当初、彼らが考えたフィクションでした。しかし、こうして人間が考えたフィクションが、実際に当時の人々や政治を動かし、世の中の仕組みを変えてしまいました。いつも私は時代が思想を生んだと言っていますが、今回は逆です。思想が時代を生んでしまったのです。

社会契約説が唱えられた当時のヨーロッパ諸国は強大な権力をもった君主が国を統治する絶対王政が主流でした。この政治形態は「王様の絶対的な支配権は神から授かったものだ。だから王様の好きに国を動かしていいのだ。」という王権神授説によって正当化されていました。

この政治形態が社会契約説という思想が生まれたことで覆された事実は無視することが出来ません。

国家は国民の権利を守るための機関に過ぎず、もし、国家が権力を濫用し、人々の自由と平等を脅かすような真似をしたら、人々はそれらを打倒し、つくり直す権限があるとしました。これを抵抗権として理論化しているのは先述のジョン・ロックです。彼の思想はアメリカ独立革命の後ろ盾となったことは非常に有名です。

 

このように社会契約説という思想は、フィクションでありながら、不思議と人々を納得させ、行動をおこさせてしまうほどの大きな影響力を持っていました。

「人間は生まれながらに自由で平等である」現在でこそ当たり前の思想ですが、当時の人々も絶対王政の政治形態に違和感を覚えた人達もいたのでしょう。自由と平等は人間の本質的な欲求であることは間違いありません。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

考える力が身につく 哲学入門 畠山創=著 中経出版

図解雑学 哲学        貫成人=著 ナツメ社

教科書よりやさしい世界史         旺文社

【18世紀イギリス】産業革命の光と影

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【18世紀イギリス】産業革命の光と影」というお話です。

 18世紀にイギリスで起きた産業革命は、人々の暮らしを大きく変えることになりました。それまで手工業に近かった生産手段が機械に切り替わって、資本主義社会が発達しました。

 なぜイギリスは世界に先駆けて産業革命を起こすことが出来たのでしょうか。

 それは光と影の2つの理由があります。

 まず、光の部分から見てみましょう。

 自然科学と科学技術への関心がニュートンに代表される科学者に限らず、ワットなどの職人など人々の間に高まっていました。そしてその関心は、発見や実験を通して新しい機械や道具を発明していくことが社会基盤としてあったからです。

 産業革命を推進した要素として重要なのが、ニューメコンが発明し、ワットが改良した蒸気機関です。とりわけ綿工業の分野で取り入れられ、紡績機などが実用化されました。

 1733年にジョン=ケイによって発明された飛び杼(とびひによって、布を織る速度をそれまでの約2倍にすることが出来ました。それによって材料である綿糸の需要が高まりました。これを受け、石炭の火力で作動する蒸気機関を組み合わせて、糸を紡ぐ紡績機の技術革新が進みました。

 

 このような生産技術の革命によって社会には大量の商品が供給され、庶民でも買えるような値段で売られ、大量消費社会が興隆しました。

 

 産業革命の恩恵は機械や機具の発明による大量生産や大量消費だけではありませんでした。スティーブンソンが開発した蒸気機関車フルトンが発明した蒸気船などが実用化されたことにより、鉄道・運河・道路の交通網が発達しました。これによって大量の物資や人員を短時間で各地に輸送することが出来たことです。

 1825年にはイングランドの北東で40キロメートルの鉄道路線が開通し、その5年後には綿工業の中心地であるマンチェスターと貿易港であるリヴァプールの間に最初の旅客鉄道が開通しています。

 

 産業革命前の1600年と産業革命が一段落した1820年の推定国内総生産を比較すると、イギリスは6.0倍と他国のそれより抜きんでています。同期間の経済成長率は、ポルトガル3.7倍、フランス2.3倍、ドイツ2.1倍、オランダ2.1倍、スペイン1.7倍、イタリア1.6倍です。

 

 では、影の理由について見てみましょう。

 発明した機械や道具を実用化し、工場を建設し、商品を大量生産するシステムを構築出来るくらいの財力が蓄積していたことです。

 この財力は奴隷貿易を含む三角貿易によって生み出されていました。

 三角貿易とはヨーロッパの港とアフリカ大陸の西海岸、それに西インド諸島やアメリカ大陸の三拠点を結んで行われた貿易のことです。

 

 イギリスもこの三角貿易に積極的に参加しています。イギリスからアフリカ西海岸へ向かう船は奴隷確保のための武器や弾薬を供給。武器と交換するように多くの奴隷が船に乗せられ、西インド諸島へ向けて出発します。西インド諸島へ運ばれた奴隷はサトウキビ農園で重労働を課せられます。奴隷と交換するように砂糖やタバコをイギリスへと輸送されました。

 当時、砂糖は「白い金」と呼ばれるほどイギリスでは爆発的に売れ、多くの投資家や事業家は奴隷貿易とサトウキビ農園に出資していました。

 当時、イギリスの植民地であったアメリカ大陸では砂糖、タバコ、綿花などのイギリスへの輸出用の商品作物を生産するプランテーション事業が発達。これに比例するように奴隷の数も増していきました。

 

 イギリスはヨーロッパの中でも特に奴隷貿易をさかんに行った国で、その始まりは1562年、アフリカ大陸のシエラレオネから301人の奴隷を西インド諸島に運んだ時です。

 その後、1588年、イギリスがスペイン無敵艦隊を排撃して制海権を確保、さらに1661年の英蘭戦争によってオランダからニューヨークを獲得するとさらにその数はさらに増して行きました。

 

 当初、西インド諸島やアメリカ大陸で行われるプランテーション事業には先住民を使っていました。しかし、先住民が逃亡されると、仲間や武器をかき集め、反撃してくるリスクがありました。そこで、土地に不慣れな異国の人種であるアフリカ人を連れてくることにしたのです。

 アフリカ西海岸からアメリカに運ばれたアフリカ人は200トンほどの船に400~800人が押し込まれる劣悪な環境でした。そのため、到着時には8人に1人が死亡していました。

 この奴隷貿易は18世紀末まで続きました。

 2世紀半にも及んだ奴隷貿易の被害者の正確な数字は不明です。しかし、17世紀後半からイギリスで奴隷貿易が禁止された年までの統計は存在します。

1662年から廃止年までに約341万5500人アフリカ人が船で輸送されています。

そのち、航海中に死亡しなかった296万4800人が奴隷として売却されています。

このような大量のアフリカ人の搾取はアフリカ文化の絶大な喪失であったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

これならわかる アメリカの歴史 石出法太・石出みどり=著 大月書店

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

教科書よりやさしい世界史  旺文社

【イギリス革命1】イギリス宗教各派をしっかり理解しよう

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【イギリス革命1】イギリス宗教各派をしっかり理解しよう」というお話です。

 

 市民革命とは権力を欲しいままに行使しいている国王に対し、国民が立ちあがることです。このような革命は18世紀以降フランスやアメリカなど各国で見られるようになります。イギリスはその先駆けだったのです。

 

 日本には宗教に関心がある人が多くありません。したがって「宗教や思想の違いごときで戦争なんて・・・」と思う方も多いかもしれません。しかし、海外では宗教とは日常生活に大きな影響を与えている非常に重要なものなのです。

 その人が信仰している宗教を否定するのは、その人の人格を否定することにもなりかねないのです。自分の拠り所としていたものを否定されたり、奪われたりする苦しみは堪え難いものがあるのは想像出来ると思います。

 

 イギリスの市民革命を理解するにあたって、イギリスの宗教各派を整理しておく必要があります。

 現在のイギリスはイングランドウェールズスコットランド北アイルランドからなる連合王国です。しかし、当時はそれぞれが全く別の国でした。

 今回はイギリス市民革命の第1回目ということで、イギリスの宗教各派をご紹介します。全部で4つあります。カトリック(旧教)を含めたプロテスタント(新教)の3宗教ですなお、当時はイギリスという国名はなかったため、イギリス国教会ではなく、イングランド国教会として紹介することにします。

 

カトリック

イングランド国教会

ピューリタン

プレスビテリアン

 

イギリスの歴史的な流れに沿って、それぞれの宗教についてご紹介していきます。

            プロテスタント(新教)

イングランド国教会

ピューリタン

プレスビテリアン

監督制度(主教制度)

会衆制度

長老制度

イングランドを拠点

イングランドを拠点

スコットランドを拠点

ヘンリ8世が設立

大陸から渡来

大陸から渡来

イングランド独自の派閥

カルヴァン派

カルヴァン派

カトリック

 キリスト教イングランドに渡来したのは、6世紀末にローマ教皇・グレゴリウス一世が、アウグスティヌスと約40人の修道士を宣教師としてイングランドに派遣した時です。

 イングランドに上陸した一行は、キリスト教カトリックの布教活動を行います。やがて、その活動はイングランド全域に広がり、13世紀にはカトリックイングランドに定着し、イングランドカトリックによって政治的にも宗教的にも支配されることになります。このカトリックの影響を断ちきり、ヘンリ8世が新たに設立した宗教が次に紹介するイングランド国教会でした。

 

イングランド国教会

イングランドは1485年にヘンリ7世によって統治され、テューダー朝が誕生しました。ヘンリ7世の子供であるヘンリ8世は、1534年に国王至上法を発布し、イングランド国教会(以下、国教会)を設立します。ヘンリ8世はもともと熱心なカトリックであったはずなのに、なぜカトリックと断絶してしまったのでしょうか。

 

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  ヘンリ8世の死後、息子や娘達が後を継ぎます。ヘンリ8世の後を継いだエドワード6世は、1549年に一般祈祷書を制定し、国教会プロテスタントとして正式に体系化されました。

 しかし、1553年に即位したメアリ1世は、イングランドに再びカトリックを呼び寄せます。たとえば、カトリック国のスペイン王子であるフィリッペと結婚するなど国内の情勢を不安定にさせました。

 その後、1558年に即位したエリザベス1世統一法を制定することで国教会を確立。不安定な情勢にピリオドを打ち、安定をもたらしました。

 国教会の特徴は監督制度であり、国王をトップとした完全身分制ピラミッドが敷かれていました。これはカトリックの影響を強く受けてた結果であり、儀式もカトリックが色濃く残っていました。

 

ピューリタン清教徒

 16世紀初頭、スイスのカルヴァン宗教改革を起こし、カルヴァン派の宗教が誕生しました。カルヴァン派はその後、ヨーロッパ全土に広がり、フランス、オランダと広がっていきました。

 イングランドでも、メアリ即位後に大陸に亡命していたプロテスタントがエリザベスの治世に帰国します。彼らはピューリタンと呼ばれ、カルヴァン派の影響を強く受けていました。やがて、このカルヴァン主義はスコットランドにも伝来しました。

 カルヴァン派は国によって呼び名が違うので、ちょっとやっかいです。フランスではユグノー、オランダではゴイセン、イングランドではピューリタンスコットランドではプレスビテリアンと呼ばれました。

 

「質素・勤勉・禁欲」を美徳とするピューリタンは、クリスマスで賑わうカトリックを批判。さらに、イングランド国内には本来の聖書に基づかない祈祷・礼拝・式典・実践が横行しており、それらを「ピュアリファイ=清める」必要があると考えました。これがピューリタンの由来です。

 エリザベス1世はカトリックピューリタンなど非国教徒には寛容な姿勢を示したため、イングランドの均衡は保たれていました。

 しかし、エリザベス1世の死後、スコットランド国王であったジェームズ1世がイングランドと共同統治というカタチで国王に即位します。ジェームズ1世は国王をトップとするイングランド国教会に魅力を感じ、イングランド及びスコットランド国教会一色に染めることで自らの地位を高めようとします。

 このような国王の国教会強制に国内のピューリタンは不満をつのらせます。

 ピューリタンの最大の特徴は会衆制度であることです。ピューリタンは国教会のような国王を頂点とする身分制ピラミッドを強いる監督制度に強く反発。教会は身分制度などなく、万人祭司の精神で国王からは独立した存在であると主張しました。

 

プレスビテリアン

 先述の通り、こちらもカルヴァン派の宗教であり、ヨーロッパ大陸から伝来した宗教ですが、スコットランドを拠点に発展していきました。

 プレスビテリアンの特徴は長老制度であり、彼らもピューリタン同様に監督制度に強く反発し、彼らは一般信者の中から経験の深い指導者を長老とし、その長老が教会を運営するべきであると主張しました。

 1625年、ジェームズ1世の死ぬと、彼の息子であるチャールズ1世が即位しました。しかし、チャールズ1世もまたイングランド及びスコットランドに国教会の強制をします。

 

これに反発したスコットランドプレスビテリアンは1637年、反乱をおこすのでした・・・。

 

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

ピューリタン革命と複合国家 岩井淳=著 山川出版社

観光コースでないロンドン 中村久司=著 高文研

対話で入門 西洋史  赤阪俊一=著   森話社

日本人のための世界史入門 小野野敦=著 新潮新書

教科書よりやさしい世界史  旺文社